逃れた先で絶望する、日本の難民認定制度(後編)
海を渡って日本にやってくる人々の中には、「難民」と呼ばれる人たちがいます。
母国で紛争に巻き込まれたり、政治的弾圧で命の危険にさらされる中、「偶然手に入った観光ビザが日本だった」という理由ではるばる日本へやってくるのです。
しかし、日本は難民条約に加盟しているものの、難民専門の機関を持たず、難民の認定基準が非常に厳格な国。申請してもほとんど認定されず、難民にとっては「ハズレくじ」の渡航先であるとも言えます。
では、実際に日本にやってくる難民の方々は、どんな人たちなのでしょう?
そして、これだけ難民に対して厳しい日本で、どのような生活を送っているのでしょうか?
前回に引き続き、認定NPO法人難民支援協会の広報・野津さんにお話を伺います。
前編はコチラ!難民支援協会(JAR)って何?
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1999年に設立された非営利団体。
「難民が新たな土地で安心して暮らせるように支え、ともに生きられる社会を実現すること」をミッションに掲げる。
日本に来た難民の方々に、法的支援や生活支援、就労支援を提供するとともに、難民政策に対して日本政府に対して政策提言をするなど幅広い活動をしている。
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- 聞き手はばんゆかこです!
- (1)母国への強制送還=生命の危険
- (2)異国・日本でサバイバルする難しさ
- (3)強制送還が「見殺し」になることを“伝えられない”ジレンマ
- (4)それでも「難民」を伝えたい
- (5)あとがき
ここから
インタビュー!
母国への強制送還=生命の危険
前回のお話で、命からがら逃げてきた難民にとって、日本はとても厳しい国だとわかりました。ところで、実際に日本に来る難民の方たちは、どういった人たちなんですか?
典型的な例だと、男性が家族を母国において単身で来るケースです。難民認定されると家族を呼び寄せることができるので、身動きのとりやすい男性が来ることが多いのです。
ただ、認定がなかなか取れないと離れ離れの状態が長く続いてしまいます。
難民の方々も、難民になる前は家があって仕事があって、普通の生活をされていた方がほとんどです。
反政府デモに参加したことから政府関係者や警察に目を付けられ、最終的に自分の命も狙われていると聞き、逃げざるを得なくなった方や、性的マイノリティや少数民族という理由で迫害されたりするケースもあります。
そのような方たちが、難民支援協会の事務所にいらっしゃったときは、どんな様子なんですか?
やはり精神的に不安定な状況で来る方もたくさんいます。個室で一対一で話し合っているときに、泣き崩れてしまう方も少なくありません。日本の難民認定状況を知らないで来日した方は、難民認定率の低さを知って、絶望するのです。
実は、難民の方にとって、一番恐ろしいのは母国に返されてしまうことです。難民であるということは、帰ると命の危険があるということなので。
そのため、私たちが一番避けなければならないのは、彼らの強制送還なんです。
異国・日本でサバイバルする難しさ
強制送還されなくても、日本でサバイバルすること自体、簡単ではありません。知り合いが一人もいない日本で、NGOや政府の支援にたどり着くまでにどう生き抜くか、というのも大変です。母国から遠く離れた異文化の日本では、支援者とつながるだけでも一苦労なのです。
実際にあったケースをお話します。
アフリカからやってきた来た方が、成田空港のwifiを使ってインターネットで私たち難民支援協会のことを見つけました。そこまでは順調だったのですが、空港から都内の事務所にどうやって行こうか、迷いました。
日本で生まれ育った人であれば、空港から都内までは遠いので、電車かバスで行くのがいいかな、と考えると思います。
でも、外国、特に途上国から来た人であれば、そうした常識なしで物事を判断しないといけません。
その方がどんな行動をとったのか?
コンゴ民主共和国出身の方だったのですが、その方の暮らしていたところには電車がないんです。電車が安い乗り物だということも、もちろん知りません。そんな中、母国でも見たことがあって「安い乗り物」という思い込みで使ってしまったのがタクシーなんです。
彼は空港に着いた時点で3万円くらいのお金を持っていましたが、空港から都内までタクシーで移動した結果、ほぼすべてのお金を使い果たしてしまったんです。
東京・千代田区のこの事務所についたときは、もうパニックのような状況でした。
この例からもわかるように、何も知らない外国で、一人の知り合いもいない中サバイバルしていくというのは、本当に大変なことなんです。
過酷な状況ですね…。
私たち難民支援協会ではシェルターを用意していますが、満室の時には一時的にホームレスをしないといけない場合があります。
アフリカの治安の悪い地域から来た人からすると「夜に公園にいる」ということは「殺されてしまいかねないものすごく危険こと」という認識なんです。だから彼らにとっては、非常に大きな精神的な負担になるんです。
だから、ホームレス状態の方に「シェルターが決まったから今日から入れるよ」と伝えると、みるみる表情が明るくなったりします。住む場所などの基本的なニーズを満たしていくことで、少しずつ精神状態が安定していくのです。
精神が安定してきて初めて、日本語を学ぼうとか、これからの道を考えてみよう、とか先の話ができるようになっていきます。
難民申請中の方は、アルバイトなどをすることもできないのでしょうか?
仕事をしていいかどうかは、就労許可があるかどうかによって異なります。難民申請をしても、すぐ就労許可が出るわけではなくて、最短でも8か月はかかってしまうのです。
就労許可が出たとしても、言語の問題も大きいです。
難民支援協会では、就労許可が出る前から働くために最低限必要な日本語や日本のビジネスマナーを教える「就労準備日本語プログラム」を行って、就労許可が出た後は企業とのマッチングなど就職までサポートしています。
とはいえ、就労許可が出たとしても、難民認定されるとは限りません。認定されるかどうかの結果が出るまで、平均で2-3年かかりますし、認定率もものすごく低い。
難民不認定となった場合、強制送還の対象となります。
再申請をすれば、その結果が出るまで強制送還を免れますが、再申請者には就労許可はでないので、生活が苦しくなっていきます。場合によっては収容施設※に入れられ、移動の自由を何年にもわたって奪われることもあります。自ら「国に帰る」と言うように追い詰めていくのです。難民不認定となった翌日に有無を言わせずチャーター便に乗せられ送還されるケースもあります。
強制送還が「見殺し」になることを“伝えられない”ジレンマ
もし、本当に本国で命の危険にさらされているにも関わらず、難民認定せずに「強制送還」してしまったら、日本がその人を見殺しにしてしまうことになるかもしれませんよね。そうした残酷さが、私たち日本人にはなかなか伝わっていない気がします。
そうですね。そこは私たちがもっと考えなければいけないところです。難民の方の個別のストーリーを伝えることができればいいのですが、難民申請がうまくいかないケースがほとんどなので、話せるものが少ないんです。
どういうことですか?
難民申請中の場合、結果が出る前にメディアで語ることは危険です。入管の人にどんな印象を与えるかによって、認定の可否に影響を与えてしまうかもしれないからです。
匿名でストーリーを取り上げることもありますが、一人ひとりケースが違うので、詳細を伝えれば伝えるほど、個人が特定できてしまいます。特定できてしまうと、様々な危険が生じる恐れがあるのです。
かといって、詳細なしで伝えたところで、なかなか人々の共感を得ることはできません。
難民認定されて日本に在留資格がある方は、本人の許可があれば、ライフストーリーを公開することができるんです。でも、認定されている人が本当に少ない。
そして、日本の狭き難民認定の門をくぐった人は、先ほどお話ししたような高い立証のハードルをクリアした方々です。母国ですでに大変危険な目にあった経験があったり、帰ったら即投獄されて死刑だろうなという人もいます。
そういう方は、トラウマがあったり、日本にいる母国の大使館関係者に会うことを恐れていたり、なかなか公に話をしたがらないことがも多いのです。
そのなかでも、紹介できるエピソードはありませんか?
話せるもので印象に残っているのもがいくつかあります。
2018年にエチオピア出身の女性が難民認定されました。でも実は、彼女が初めて難民申請をしたのは2008年のことなんです。
え、10年もかかったんですか!?
そうです。彼女の場合は、はじめの入管の審査結果は「難民不認定」。その結果を受けても、国に帰ることは危険な状況でした。そこで裁判を起こして、勝訴したんです。勝訴してやっと難民認定されました。
彼女の出身国のエチオピアって、日本だとコーヒーとかマラソンとかのイメージしかないかもしれませんが、実は言論統制が指折りで厳しい国なんです。政治的な発言、特に反政府的な発言は、徹底的に取り締まられます。ジャーナリストやブロガーは、日常的に起訴され、投獄されて二度と帰ってこない、というような国なんです。
彼女の場合は、直接政権批判をしたわけではありません。女性の権利に関わる活動をしたことで政府から目を付けられ、警察に捕まったんです。そこでなんと警官から拷問を受け、レイプされ…警察署で、ですよ?日本では考えられません。
何とかその状況から抜け出して、たまたま手に入った日本のビザを握りしめ、難民として来日したんです。
でも、日本の難民申請はなかなか一筋縄にはいきません。彼女が国に帰れないことを証明するための書類提出が必要でした。所属する団体の会員証や女性の権利について活動した証拠資料、そして逮捕状などの事実を証明するものを求められました。当然そんな資料をもって日本に来ているわけありません。逮捕状など持った状態で捕まったら非常に危険ですから、持たないで逃げることが賢明なのです。
しかし、そうした「書類」こそ難民申請の際の重要な証拠になります。彼女の場合は、家族や友人に手配して郵送してもらい、なんとか提出できました。
ところが、資料を提出した時に入管から言われたのは「これらの証拠は証拠価値がない」というセリフです。女性の権利保護の団体が実在しているか疑わしい、と言うのです。日本のように各団体がWebサイトを持っているわけではありません。客観的に団体の存在を証明できる資料を出すことはものすごく困難なうえ、出したら出したで疑われてしまう。これでは、いったいどうやって証明しろと言うのでしょう。
彼女の場合、一次審査も二次審査もダメ。裁判まで持ち込んで、やっと難民認定してもらえました。
彼女はエチオピア国内で指名手配までされていたので、もし母国に送り返したら、空港で捕まる可能性が高かった。
自分で弁護士を見つけて裁判するなんて、ほとんどの人には困難です。ここまでしないと難民認定されない現状でよいのでしょうか。
これだけ厳しい制度にすることで、人の命や人生を大きなリスクにさらしてしまっているということ。これはもっと自覚が必要だと感じます。
彼女の場合は、年間数十名しか認められない難民認定を受けることができたラッキーなケースです。それ以外の大半の方は、日本でどんどん活路がふさがっていくんです。
「難民不認定」の知らせを聞いて、就労資格が無くなり、合法的には働けないけど、国には帰れない。もう一度難民申請をしたいが、働けないでどうやって暮らしていけばいいのか…と、苦しい現実を突きつけられる人が大勢います。
そうした方々を、この国は適切に保護できていません。
10年もの間、不安定で権利がない状態で裁判を続けなきゃいけないって、とても「ラッキー」とは言い難いように感じます。
一人の人生にとっては10年どころか、1年2年でも本当に大切です。そうした期間を全く無駄に過ごしてしまっているんです。
それでも「難民」を伝えたい
先程おっしゃっていた、自分を特定されたら困るという、いわゆる「身バレ」を恐れて当事者が話せないというのは、他の社会問題にも通じることかもしれませんね。
でも、だからこそ周囲の人や社会がその問題に気づいて、声をあげる必要がある。
そのために広く知らせたいけど、知らせることで危険にしてしまうこともある…ジレンマですね。
そうですね。私も難民支援協会の広報をやりながら、難民問題についてリアリティをもって伝えることの難しさを日々感じています。
野津さん個人は、なぜ難民問題に関わろうと思ったのですか?
私自身は、難民問題の前に、移民について関心がありました。
高校生の時にアメリカのミズーリ州に留学したのですが、そこはそれまで思い描いていたような多様性があふれるアメリカとは違って、住人のほとんどが白人の街でした。そんな狭い、閉じたコミュニティの中で、1年間外国人として生活したことが大きなきっかけになっています。
私の場合、1年という期限付きで、事前に英語も勉強して、ホストファミリーも決まった状態で滞在しましが、それでも周りの人と見た目が違うマイノリティとして暮らし、地域に溶け混んでいくことの大変さを痛感したんです。
そこで出会った数少ない移民の中には、10年以上もマイノリティとして地域に溶け込んでいる人もいました。1年で帰れる自分から見たら「移民になるってすごいなあ」と思ったんです。
日本に帰国後「日本にも移民の人がいたら何かサポートしたい」と思い、難民支援協会のウェブサイトを見つけて、衝撃を受けました。
日本にも難民がいるということ。しかも彼らには帰れない事情があって、来たいと思って日本に来たわけではないということ。そして、日本でとても大変な境遇にあること。
私がアメリカで体験したことと比べものにならないほど大変なんだろうけれど、その経験があったから共感できて、力になりたいと思いました。
日本にいる難民の方に何かできるのって、日本に暮らしている私たちだけですよね。
それまでは、途上国での国際協力にも興味があったのですが、自分たちにしかできないこと、そしてまだまだ支援が行き届いてない日本国内の難民問題への取り組みこそ、自分がやるべきことじゃないかって思ったんです。そうして大学ではインターン生として関わり、今では職員として問題に取り組んでいます。
留学を通して、移民や難民に共感した経験がベースにあるんですね。
海外に行った経験があったりすると、言葉が通じなくて苦労した実体験があって、共感しやすいと思います。
でも、たまたま生まれた場所や時代によって、誰しもが難民になり得ます。同じ人間として共感できるポイントは、他にもたくさんあるはずです。
そうですね。第二次世界大戦の後なんかも、難民ではありませんが、多くの日本人が外国で苦しい思いをしたと聞いています。
そうですね。条約上の定義でいう難民とは違いますが、難民に近いような状況の人はいたと思います。例えば満州からの引き揚げとか。私もびっくりしたのですが、中国の駅に歩き疲れて座り込んでいる日本人の写真なんかは、シリアの紛争から逃げてきた難民が、ヨーロッパまで歩き続けて座り込んでいる人々の写真にそっくりです。
満州の件とシリア難民は事情が全く異なりますが、個人個人が置かれた境遇や苦しみは、共感できるものなのかもしれません。
ボートピープルと呼ばれるベトナム戦争による難民を日本が受け入れたときも、戦争体験者の方の声が大きかったそうです。
「自分たちも大変な経験をしたから、紛争から逃げてくる人たちを受け入れたい」という世論があったといいます。
当時はまだ、戦争の記憶が鮮明に残っていたんですね。
そういう意味で、これからの時代、難民に共感することはより難しくなると思います。私自身もそうですが、戦争を経験したことがない人が、紛争から逃げてくることがいかに厳しいか、想像することは難しいですよね。
平和とか、自由とか人権とか、そういうものって、当たり前にあると大切さを忘れがちですよね。それがなかったら何が起こるのか、普段はなかなか考えが及ばないものです。
難民の方と接していると、ふとした発言から気づかされることがたくさんあります。
ある難民の方に「日本に来て一番驚いたことは何ですか」と聞いたところ、「日本に来て2年たつけど、一度も銃声を聞かないこと」と答えました。
日本にいると想像すらできないようなことが、世界では現在進行形で起きています。
「花火は戦火を思い出すから見れない」という方もいます。花火を楽しめるということは、それだけ日本は平和だということなんです。
なるほど。戦争や紛争、虐げられる恐怖への想像力を失うということは、自分たちの生活の豊かさや平和の「ありがたみ」についても忘れがちになってしまっているということかもしれませんね。
あとがき
そうぞうしよう、そうしよう
これは、私たちチャリツモの合言葉。 自分たちの境遇と全く違う人たちのことを想像することは、簡単ではありません。
自由に人を愛する、多数派ではない信仰を持つ、現政権と異なる政治思想を持つ…こうしたことだけで命が狙われる事態が、この地球上で起きています。
そして、日本もその世界の一部。経済や文化はもちろん、あらゆる側面で世界の影響を受け、同時に影響を与えていることも忘れてはいけません。
筆者の住む南アフリカでは、25年ほど前まで人種隔離政策として悪名高い「アパルトヘイト政策」が行われていました。肌の色で人々を分け、権利をはく奪していたのです。
政策は廃止されましたが、世界レベルでは、国籍や信仰の違いによって、まだまだ差別があるように感じるときがあります。
どこか知らない異国の「彼ら」の問題としてとらえるか。同じ人間としての「私たち」の問題ととらえるか。
あなたはどう感じますか?
書き起こし:あいざわひなこ