日本で起こったジェノサイド/9月1日の悲劇から、 私たちは何を学ぶのか vol.1
1923年(大正12年)9月1日。
のちに関東大震災と言われるマグニチュード7.9の大震災に襲われた東京は、あちこちで発生した火災で焼け野原となり、多くの方が亡くなりました。
しかしその震災の裏で起きた恐ろしい虐殺事件については、どのくらいの人が認識しているのでしょうか。
“朝鮮人虐殺事件”。
地震の混乱の中、溢れた流言飛語。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」
「朝鮮人が暴動を起こしているらしい」
そんなデマに扇動された組織や人々により、多くの在日朝鮮人の方々が殺害されました。
虐殺の犠牲になった朝鮮人の数は、千〜数千人におよぶといわれています。
今も街頭やSNSで、絶えず繰り返されるヘイトスピーチ。
あの時から、この社会と、そこに住む私たちはどれほど変わったのでしょう。
今を生きる私たちは、98年前の悲劇から、何を学ぶべきなのでしょうか。
この虐殺(ジェノサイド)の被害にあい亡くなった方々を追悼する団体「一般社団法人ほうせんか」を訪れ、理事の
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インタビュー
小学校教員が発掘した、地域の負の歴史
本日は一般社団法人「ほうせんか」の事務所にお邪魔しています。場所は荒川のすぐそば。
関東大震災の直後、ここからすぐ近くにあった「旧四ツ木橋」のふもとで、朝鮮人の方々が虐殺されました。
「朝鮮人が井戸に毒を入れたとか暴動を起こしている」とかいうデマが流れ、それを信じた人々が、「朝鮮人を懲らしめる」ということで自警団を作り、口にするのもはばかられるような暴力と虐殺を引き起こたんですね。
私自身、歴史上の出来事としてなんとなく認識はしていたけど、あまり深く考えたことはありませんでした。ところが一昨年、加藤直樹さんの『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(出版社:ころから)という本を読んで衝撃を受けました。この日本で、こんなにひどい虐殺が行われていたこと、それをきちんと知らずに暮らし続けてきたことを恥ずかしく思ったんです。
また、現代の日本にはびこるヘイトスピーチなどの人種差別を語る際、この国で暮らした朝鮮人の方の記憶を抜きにはできないと思い、今回お話をお聞きしたいと思った次第です。
慎さん、どうぞよろしくお願いします。
こんにちは。
「ほうせんか」の活動は、人種・民族を超えた追悼事業です。98年前、関東大震災があった大正12年(1923年)に日本という国が何をしたのかということを問うために生まれました。
「ほうせんか」の活動はいつから始まったんですか?
1982年、この地域にある小学校の日本人教員が「関東大震災時にこのあたりで朝鮮人の虐殺があった」と聞いたことがキッカケです。
その教員は、郷土についての授業で、地域の日本人のお年寄りに話を聞いていました。ある方が関東大震災の話をした際に、朝鮮人虐殺に触れ「当時殺された朝鮮人の遺骨が、まだ河川敷に埋められたままだろうから、弔ってあげてほしい」と日本人教師に伝えたのです。
震災当時、子どもだったそのお年寄りは、ソレ(虐殺)を見てしまったんですね。朝鮮人の遺体を焼くにおいをかいで、恐怖に駆られたそうです。
その話を聞いた教師が、どうしたら追悼ができるのか考えるうちに多くの人を巻き込んだ活動になりました。
最初は遺骨を掘り起こそうとしたのですが、いろいろな制約があり、遺骨を見つけることはできませんでした。そこで今は、追悼式という形で、この地域で起こったことを伝えながら、遺骨の調査を続けています。
郷土についての授業がきっかけだったんですね。
このすぐ近くに荒川用水路があります。今は「荒川」としか言わないけど、実は人工の川なんです。
教師がこの川がどうやってできたのかという歴史を調べていくなかで、用水路の工事のために朝鮮人が働いていたこと、ちょうどその時に震災があって、工事に携わった朝鮮人が殺されたということをお年寄りの口から聞いたそうです。
そのお年寄りは、その時まで虐殺について語らなかったんでしょうか。
そうなんです。そのご老人は、子どもにも兄弟にも話したことがなかったそうです。それが、たまたま教師が川の歴史を調べに来た時に伝えたんですね。
先が長くないお年寄りが、子どものころに見てしまった大変な事件を、亡くなる前に語りたかったんだと思います。
1923年から82年ですから、60年間くらいの間、黙殺されていたってことですね。
そうですね。同様の事件(朝鮮人の虐殺)は、例えば埼玉や千葉、群馬、神奈川などさまざまなところで起こっています。郊外の静かな地域で突然沸き起こった朝鮮人虐殺は、記録に残っているんです。どこで何人どうやって殺したのか、詳細まで残っているので早い時期から追悼をしていました。
一方でここ荒川は、関東大震災時の大規模な火災に見舞われた地域で、火災の中心地から避難民が何万人も集まってきたところ。
すぐ近くまで猛火が迫り、街の全てが燃え、竜巻が起きて、多くの人が死んでいる。人々が混乱し、極限状態の中で虐殺が起きた地域でした。
大変混乱した状況下での事件だったことや、そのあとすぐに戦争になった※こともあり、この地域の人々は朝鮮人を殺した事実を語り継がれずにいたんです。
ここだけでなく、東京都内どこでも似たような事件はありましたが、このあたりは火事の隣接地と、避難路にあったということで、特に被害人数が多い。千葉の方から来た軍隊が機関銃で朝鮮人を撃ったという記録も残っています。
習志野からやってきた軍隊が、機関銃を使って朝鮮人を殺してしまったんですよね。
旧・四ツ木橋周辺での虐殺に関する証言
長年に渡る聞き取り調査の結果、旧四ツ木橋周辺で虐殺を目撃した人々の証言が数多く集まった。以下はそのうちのほんの一部だ。
たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばって連れて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突きさいたりしてして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね。荒川[現・八広駅]の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体を積んで石油をかけて燃やしていました。[略]大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。
(証言者:青木[仮名] / 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
そのころ、学校のあたりは田んぼやはす田で、家の前にも田がありましてね。近くの長屋に朝鮮の人が何人か住んでいました。
(証言者:Sさんのおばあさん / 出典:木根川小学校4年1組『関東大しんさい作文集』 1983年9月30日)
この地震のあと、朝鮮の人が追いかけられて、この田に逃げ込んできました。わたしは子どもだったので、「家の中に入っていなさい。」と言われて、家で小さくなっていたのですが、朝鮮の男の人が、棒でたたき殺されました。死体は、荒川へ運んだんじゃないでしょうか。
京成荒川駅[現・八広駅]の南側に温泉池という大きな池がありました。追い出された朝鮮人7,8人がそこへ逃げ込んだので、自警団の人は猟銃を持ち出して撃ったんですよ。向こうへ行けばむこうから、こっちへ来ればこっちから撃ちして、とうとう撃ち殺してしまいましたよ。
(証言者:井伊[仮名] / 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
[略]荒川駅の南の土手に、連れてきた朝鮮人を川のほうに向かせて並べ、兵隊が機関銃で撃ちました。撃たれると土手を外野(そとや)のほうへ転がり落ちるんですね。でも転がり落ちない人もいました。何人殺したでしょう。ずいぶん殺したですよ。
私は穴を掘らされました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。いやでした。ときどきこわい夢を見ました。その後一度掘ったという話を聞いた。しかし完全なことはできなかったでしょう。今も残っているのではないかなあ。
四つ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして、橋の下手のところに3ヶ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた。
(証言者:浅岡重蔵 / 関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会『風よ鳳仙花の歌をはこべ―関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』教育史料出版会、1992年)
2,3年たったころ、そこはくぼみができていた。草が生えていたけどへっこんでいた。きっとくさったためだろう。ひどいことをしたもんです。いまでも骨が出るんじゃないかな。
兵隊がトラックに積んで、たくさんの朝鮮人を殺したのを持ってきました。そう、河原で殺したのもいます。ふつうのなんでもない朝鮮人です。手をしばって殺したのも日本人じゃなくて朝鮮人だと思ったね。むこうを向かせておいて背中から撃ったね。軍隊が機関銃で撃ち殺し、まだ死なない人は、あとでピストルで撃っていました。
水道鉄管橋の北側で昔の四ツ木橋寄りに大きな穴を掘って埋めましたね。死体は何百だったでしょう。[略]本当にひどいことをしたもんです。
いずれも、一般社団法人ほうせんか理事の西崎雅夫さんが証言をまとめ、出版した『<普及版>関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』から引用
たった半日で始まった虐殺。市民を虐殺に駆り立てた公権力とマスコミが抱えていた恐怖と後ろ暗さ。
調べていくと、本当に「虐殺」以外の言葉は考えられないほどに悲惨な殺し方で命が絶たれていきました。
震災後の火災で火の海になっているところから逃げてきた人々の間で、「井戸に毒をまいたぞ」とか「朝鮮人が暴動を起こす」「爆弾を持っている」などと、なぜか朝鮮人だけをターゲットにした流言飛語が飛び交った。
それも東京だけでなく、横浜とか、船橋、熊谷…いろんなところで同じ現象が見られます。ひとところで発生した噂が伝播していったのか、それぞれの場所で自然と湧きあがったのかはわからないけど、とにかく当時はデマに起因する虐殺が多くの場所で同時多発的に起こったんですよね。
そうです。
11時58分に地震がおきたわけですが、そこから虐殺が始まるまでの時間がすごく短かった。その日はものすごい揺れの地震が続いている状況だったのですが、その日の夕方には、「朝鮮人がこの池に隠れてる!」と警察が追跡しだしているんです。
こういう警官の姿を見た一般の人の避難民は「朝鮮人が悪いことをしているんだ」って刷り込まれたんですね。
地震からたった半日で、朝鮮人に対する暴行が始まっていた。
街中いろんなところが燃えて、燃えカスが飛んでいる中、朝鮮人に対するデマが起こっていたんです。その火事の炎を見て、「朝鮮人が火をつけた」というデマまでありました。極限状態とでも言いましょうか。誰が言い出したのかは分からないけれども、1日の夕方には警察も動いていたのは事実です。
地震と大火事で混乱する中、日本人の一般民衆が、自ら自警団を作り暴徒化した、という風に教えられてきました。
でも、実は警察や軍隊などの公権力や、当時の新聞による報道が一般民衆を扇動する役割を果たしてしまったんですよね。
そうです。朝鮮人に関するデマを信じたのは、一般民衆だけではありません。むしろ警察や軍隊、マスコミから始まった節があります。
公権力が率先してデマを信じて朝鮮人に対して暴力をはたらいたり、デマを強化するような情報発信をする。それを見た一般民衆が「やっぱりあいつら(朝鮮人)は危険なんだ」と決めつけて憎悪をさらに加速させた。
当時の公権力が朝鮮人を憎悪する背景には、いったい何があったのでしょう?
歴史を遡りますが、明治以降、日本は朝鮮を植民地にしていくために、虎視眈々と侵略を進めていきました。
例えば、1898年の日清戦争、その10年後の日露戦争は、日本と清(当時の中国)、日本とロシアの戦争ですが、戦場となったのは朝鮮の国土です。戦争自体も、「誰が朝鮮を統治するのか」が争点でした。
日本の主張は、「朝鮮を中国の植民地支配から解放する」というものでしたが、実際は、これからアジアを侵略する足がかりとして朝鮮が欲しかった。西洋諸国の植民地支配に参加していくためです。
朝鮮が正式に植民地化されたのは1910年です。そこから1919年までの9年間は、日本の歴史でも教えられている通り、“武断統治”※。日本人に逆らったり、独立を言うものは、とにかく暴力で抑えるような、強権的な植民地政策をしました。武断統治のもと、独立運動をすることは困難でした。
それでも1919年、関東大震災の4年前に三・一独立運動が起こります。その前にもいくつか運動がありましたが、この運動は少し違いました。日本に留学していた朝鮮の知識人たちが、独立宣言文を作りソウルに持ち込み、独立を宣言しました。武器を持たない万歳運動で、一般市民までもが「独立万歳万歳!」と叫び、大きな運動となりました。
そして、武器を持たず独立万歳を叫ぶ一般市民たちを、日本軍は武力で制圧したのです。
朝鮮独立を求めるこうした運動に対して、日本の軍部は恐怖を感じていたわけです。「朝鮮の知識人は仕返しを企んでいるに違いない」というような趣旨の記録も残っています。
そんな状況で起きた震災のさなか、「朝鮮人は震災の混乱に乗じて、独立を企てる不逞の輩だ」というプロパガンダが流れます。植民地で何が起こっているのか知らない一般市民は、そのプロパガンダに影響されてしまったのです。
当時の権力者も、「まさか本当に朝鮮人が井戸に毒入れたりしないよな」と思いながら、「もしかしたら」という想いがあったのでしょう。
明治以降の朝鮮植民地化の過程、そして10年近く続けた武断統治の後に起こった関東大震災、と時系列で見ていくと分かります。公権力は独立を求める朝鮮人を恐怖の対象、敵とみなしていたといえます。
いつか朝鮮人が独立を求めて暴動を起こすのでは、という恐怖心がはじめからあったんですね。その裏には、自分たちが植民地支配で無茶苦茶なことをしている、という後ろ暗さが見え隠れしますね。
そうかもしれません。自分たちがやってきたからこそ、相手も同様のことをやるのでは、と考えるんですね。
後に読売新聞のオーナーとなる正力松太郎は、当時は特高警察のトップだった。彼の手記には、あまりにも多くの報告(デマ)を部下から聞いて、もしやこれが本当の事実ではないかと信じてしまったと書かれています。嘘の積み重ねがまるで真実のように見えてしまい、誰もが騙されてしまうよい例ですが、その背後には植民地で自分たちがしてきたことの暴力性を認識していたことがある。そしてもちろん、デマを拡散したマスコミも、日本の植民地政策の実態を知っていた。
そうした後ろ暗さや恐怖をもともと抱えていた警察、軍隊、マスコミが、デマを真実だと思い込み行動した。そんなふうにも見えますね。
虐殺を「なかったこと」にしようとする人々
虐殺事件からもうすぐ一世紀が経とうとしています。この間、日本社会一般の認識としては、きちんと虐殺の事実を認め、謝罪し、自分たちの犯した過ちを歴史として語り継ごうとしてきたと思います。
しかし近年、少し流れが変わってしまいました。そうした自らの過ちの歴史を否定する人々が現れた。
「朝鮮人虐殺はなかった」と主張する内容の本が本屋に並んだり、そうした発言がSNS上に溢れたり。
去年の9月1日にYouTube上で、とある代議士がわざわざ朝鮮人慰霊碑の前で「朝鮮人虐殺は捏造だ」と訴える動画をアップしているのを見つけて寒気がしましたよ。
そうした主張をする政治家がいることは悲しいことです。なによりも、東京都の都知事がそうした考え方を持っていることに危機感を覚えています。
1973年、関東大震災から50周年の年に、両国の都立横網町公園に慰霊堂が建てられてました。そこはもともと関東大震災と空襲の慰霊の場所だったのですが、そこにはじめて朝鮮人の追悼碑が作られたのです。東京都の議会の全会派が、全員賛同して決定されたんです。
その翌年から毎年9月1日に、虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式典がこの慰霊碑の前で開かれてきました。そしてこの式典に、毎年、都知事が追悼文を送るという慣習ができていたんです。
しかし、その慣習を破ったのが小池百合子都知事です。
彼女はそれまで誰が都知事になろうと続いてきた追悼文の慣習を2017年にやめてしまいました。その後一度も追悼文を送っていません。
朝鮮人虐殺に関しての見解を問われた際も、「様々な見方がある」などと曖昧な答え方をしています。行政のトップが、こうした過去の過ちを“なかったこと”にしようとする態度には、怒りと恐怖を感じます。
ずっと続いてきた慣習を「止める」という行為が、どんな意味を持つのか、よく考えなければなりませんね。過ちを繰り返さないためには、過去の事実にきちんと向き合い続けて、忘れずにいようと努力し続けなきゃいけませんから。
ここから
今日の感想
おはなしを聞いて
歴史の語り口は、時の権力者によって異なります。
現代という時代を生きている人同士でも、生まれた環境、経験、そしてその人の所属によって、見える世界が全く異なるものです。同じように、時間的に距離がある、歴史上の出来事であっても、立場によって、経験や意味合いは全く変わってくることを思い知らされました。
「関東大震災の時、デマによって多くの朝鮮人の人たちが虐殺された」
史実としては、1行で語られてしまうことが多いですが、その裏には、亡くなった方やその家族、そして非情にも殺害に加担してしまった方やその家族、それぞれの人生があるはずです。
歴史を振り返る立場にある私たちは、そこから何を感じ、学ぶことができるのか、考えさせられました。
(by ライター・ばん)
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(インタビュー収録:2021年3月)