日本人に傷つけられた。それを癒すのも日本人だった/9月1日の悲劇から、 私たちは何を学ぶのか vol.3
関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺の被害者を追悼する活動を続ける団体「一般社団法人ほうせんか」の理事・慎民子(シン・ミンジャ)さんへのインタビューの第3回(最終回)。
第1回は1923年9月1日に起きた関東大震災のさなかで行われた一般民衆や公権力による朝鮮人虐殺にまつわるお話を、
第2回は慎さん自身が日本社会で経験してきた在日コリアンに対する差別についてのお話をうかがいました。
最終回の今回は、いまだ日本社会にはびこるレイシズムを克服するためにどうすればいいのかについてお話をお聞きしました。
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(インタビュー収録:2021年3月)
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インタビュー
傷つけ、傷つき。そして癒やされ。
前回は差別を恐れて、子どもにも出自を教えないというお話がありました。自分が日本人だと思い込んで育った子が、朝鮮人のルーツを持つことを知って急変してしまったというお話はとても印象的でした。
慎さんも自分は「一体なにもの」なのかという葛藤があったおっしゃっていましたが、今は出自や民族にまつわる差別に対してどう解釈していますか?
実はね、子どものころ、いじめたことがあるんです。前に話した通り、朝鮮人集住地域に住んでいたのだけれど、近所の女の子に『あいのこ』と言ってしまったの。お父さんが朝鮮人でお母さんが日本人の子に『あいのこ』って言ったことが、ずーっと私の傷になっています。
誰もが差別はするし、されること。自分だっていつでも差別をしてしまう側になる可能性があるということを常に考えながら、人と付き合っていくことが大切だと思います。
そうですね。誰もが加害性を持っている。
もう一つポイントは、私は日本人と同じ見た目を持っているため、見た目で見分けはできないということ。だからまみれることができるということです。
子どものころはそれが嫌で、言わなくてもいいから、朝鮮人ってわかるような印、目の色とか髪の色とかがほしいと思ったんです。
私がわざわざ「朝鮮人です」と言わなくても、周りが気付いてくれて「違うけどどうなの?」って話せるようになったらいいな、って思ってたんです。
だけど、そのあとアメリカの黒人差別の話を知った時に、自分の傲慢さを感じました。
私は電車に乗っても街中歩いてても、日本人にまみれることができる。肌の色のように見た目が違う人は常にさらされているわけですから。
私は日本名で学校に通っていました。6人の上の兄弟も、みんな日本名を使っていて、私には、朝鮮人であることを恥ずかしいと思っているように感じられました。
日本人に見られたくないと思った当時の私は、なんとかして本名を名乗ろうと思って、本名で都立高校に行くことにしたんです。
そしたら、姉と父親が「なんてことをするんだ!」「そんな恐ろしいことはやめろ」って大反対。あまりの反対に私も怖くなっちゃって、高校の担任に伝えたら、さっさと日本名に変えてくれました。
でもそうやって日本名で学校生活を送っていると、高校で親しい友達ができたとき、友達をだましているような気になって、自分が朝鮮人であることに日々悩むわけです。
まみれたらまみれたで、また苦しむんですね。
そして二十歳を過ぎた頃、同胞と出会って、本名を名乗って前面に出して生きていくようになります。
それでも最初の20年間は、肩ひじ張っていました。私が「いい朝鮮人」でいないといけない気がして、働き者で、仕事ができる朝鮮人を一生懸命演じていて、疲れてしまったんです。
そんな中、保育園での仕事を始めて、ゼロ歳の赤ん坊といっぱい出会いました。
もう、ゼロ歳児なんか何もないんです!民族とか国籍とかは関係ない。
その子たちと触れ合う中で、民族で区分けすることの愚かさを、年月かけて身をもって体験して気づいていきました。
もちろんその間にも、やっぱり日本社会に傷つけられる。でも、日本人に傷つけられた傷を癒してくれるのもまた日本人なわけです。その無認可の保育園で出会った子どもたちや、いろんなところで出会う日本人たちに力をもらって、学んで、癒されてきました。
40歳になった時には、とても嬉しかったんです。2度目の成人式がきて、これからまた青春だ!って思いました。
若い世代に希望―強さをもって生きる
現代の若者の中には、韓国に対してポジティブな印象を持つ人が増えていて、在日コリアンへの差別に反対する若者も多いと聞きます。慎さんが子どものころと比べて、変化はありますか?
そう思います。心強いことに、「差別をしてはいけない」という考え方が広がっている。
この間も、卒業する小学6年生の生徒が、韓国語で手紙をくれたんです。この子は韓流アイドルが大好きで、見よう見まねでハングルを書いていたところを見たので、話しかけてみたんです。そこから話が広がって仲良くなりました。
韓流が日本に広がったり、ポップカルチャーの流行は力になっています。東京の新大久保には、韓国系のお店がたくさん集まって韓流の街になっていますよね。
残念ながら、そこに人が集まってヘイトスピーチを垂れ流した事件がありました。そしたら、それに対抗して「私は仲良くしたいです」「いじめはやめてください」っていうプラカードを持って、若者たちが新大久保に集まりました。その話を聞いた時はとっても嬉しかったし、心強かった。こういうことを重ねていきたいなって思っています。
熊本や福島で地震があったときもそうでしたが、今でも地震があるたびに、ツイッターなどのSNSには「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とか「外国人が福島の津波の遺体の指を切って指輪を盗んだ」というような、デマが流れるんです。それもあって1923年の虐殺を忘れちゃいけない、と思う人が増えたと思っています。
若者も、大学の教授たちが頑張って教えてくれていることもあって、ずいぶん追悼式に参加するようになっています。ものすごい力、エネルギーとしていただいています。
過去の歴史を学んで、向き合うことは大切ですよね。
ただ、こないだも小学4年生の教室に行って講演をしたんだけど、若い教員のひとりが、日本の植民地支配について初めて聞いたって言うんです。「朝鮮を植民地にしたのはいつですか?戦後ですか?」なんて聞いてきて。…ここは笑うところ!面白いでしょ。
日清戦争、日ロ戦争、明治維新から話をしないといけないのかなあ、と思いましたが、伝えていくことの大切さを痛感しました。
子どもや若者だけでなく、大人のわたしたちこそ、日本と朝鮮の歴史をきちんと学ばなければなりませんね。歴史修正主義に取り込まれないように。
伝え続けていけば、いつかきっとわかり会える。そう信じてポジティブに、生きていきたいと思っています。私たちはね、ヘイトスピーチをしたり、差別をする人たちには負けません。
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今日の感想
おはなしを聞いた感想
アメリカで育ったこともあり、しんさんのアイデンティティ、自分のバックグラウンドとの向き合い方について、とても共感しました。途中すごく涙が出そうになった、この気持ちを忘れないでこれからも頑張って生きていきたいです。(ワークショップ参加者)
すごく貴重なお話をありがとうございました。途中聞いていて涙が出そうになりました。日本社会で生きづらさを抱えつつ、慎さんなりに模索して、生き抜いてきた強さに私自身が励まされました。強さを持っていける女性になりたいです。(ワークショップ参加者)
激動の時代を生き、壁にぶつかりながらも強くたくましく生きる慎さんの姿に、感動と希望という言葉を思い浮かべました。「知る」ということは、エンパシー(共感)の第一歩だと思います。歴史を一面からだけではなく、さまざまな角度から見つめなおしてみること。自分以外の立場から、社会制度を考えてみること。完璧に全てを知ることは難しですし、その過程で目をそむけたくなることにも出会うはずです。それでも、知ろうとする努力を辞めないで、歴史から学び、そして社会を前に進むためにできることを、もがきながら探していきたいです。(by ライター・ばん)
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