「自分は殺される側」だと知った日/9月1日の悲劇から、 私たちは何を学ぶのか vol.2
関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺の被害者を追悼する活動を続ける団体「一般社団法人ほうせんか」の理事・慎民子(シン・ミンジャ)さんへのインタビューの第2回目です。
前回は、1923年9月1日に発生した関東大震災のさなかで軍隊・警察などの公権力や一般民衆がおこなった朝鮮人虐殺にまつわるお話をお聞きしました。
今回は、慎さんがほうせんかの活動に参加することになった経緯や、自身が在日コリアンとして生きてきた中で経験した差別のお話をうかがい、日本社会の根深いレイシズムに関して考えてみたいと思います。
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(インタビュー収録:2021年3月)
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インタビュー
「自分は殺される側の人間だ」
慎さんが、ほうせんかの活動に関わるようになったのは、いつ頃ですか?
私は立ち上げメンバーではないので、後から参加しました。はじめて「ほうせんか」の活動を知ったのは、新聞です。「朝鮮人の遺骨を発掘する」という記事が、新聞に大きく出ていたんです。荒川の近くに住んでいたものの、子どものころから日本人に対する不信感が強かったので、「なんか訳の分かんない人が活動をしている日本人がいるな」と思っていました。
実際に活動に関わるようになったのは、それから5〜6年ほどたった、30歳半ばくらいの時です。
何がきっかけだったのでしょうか。
子ども時代、私は日本の学校に行って日本の教育を受けて来ました。関東大震災のことも、ただなんとなく授業で聞いていたんです。
だけども20歳になって(朝鮮人の)同胞と出会って、朝鮮人の歴史について勉強を始めました。その時に、関東大震災の問題は簡単なことでないと気づいてしまった。
「自分は殺される側の人間だ」ということに、20代にして気づいたんです。
何かあったら、自分も兄弟も、もしかしたらわたしに子どもができたたらその子どもも、友人もみんな殺されてしまう。そんな恐怖に駆られました。
特に私の20代の頃って、日韓関係がけっこう新聞をにぎわせていたので、そんなことも影響していると思います。朝鮮学校と日本の学校の対立なんかもありました。
映画『パッチギ』みたいな感じですか?
そうそう。そんなイメージです笑。 それまでずっと日本の学校の中で生きづらさや差別を感じていたので、「私は殺される側の人間だったから、生きづらかったんだな」ということに合点がいったのです。
「殺されないためにはどうするか」ということを考え、私は顔の見える朝鮮人になることにしました。日本の社会の中で、朝鮮人として顔を見せながら生きていく。そのことで「私たちは、私たちは共に生きる仲間だし、フツーの隣人ですよ」というメッセージを伝えたいのです。
そのあとに墨田区に越してきて、「ほうせんか」に出会い、さらに学びが深まりました。 自警団や消防団など、街中の一般市民が朝鮮人を殺した、と教科書では説明されていましたが、それだけじゃなく、軍隊や警官も大きく関与していたこと。そして戒厳令を出していく経緯とかも知っていくと、一般市民だけでなく、国を挙げて朝鮮人を虐殺していることを知りました。それを知った時の恐怖たるや、言葉にできません。
北にも南にも、それらが象徴する男社会にもとらわれず。わたしはピンで生きる
慎さんこれまでの人生で感じた生きづらさについてもう少し聞かせてもらえますか?
私は「朝鮮部落」の出身です。なので、周りには他にも朝鮮人がいる環境で育ちました。同級生には他に4人も朝鮮人がいて、上級生にもいたので、学校の中で悲惨な差別やいじめはなかった。特に、すごく強い朝鮮人の男の子がいたこともありますね。
他の地域の話を聞いていると、「〇ね」と言われたりね、ものを投げられたり、いろんな差別を受けてきた人がいます。私がそこまで悲惨なことを体験せずにすんだのは、仲間に守られていたからだなと、今は思います。
それでも、「自己主張してはいけない」「あなたは外国人でよそ者」「なんで日本に住んでいるの」っていうような空気感を、ひしひしとこの社会から感じるんです。そういう排外されている空気を、子どもながらに感じたんですね。
私は8人兄弟の7番目。上にたくさんいるんです。差別とかいじめについてを兄弟で話したことはないんですけど、「どうせ頑張ったってこの国では就職できない」とか、「商売やったけど銀行から融資を受けられない」とか、そういう状況を見てきました。昔は国民健康保険にも入れませんでしたしね。
在日コリアンは健康保険に入れないんですか?
今は入れるようになりました。1982年に難民条約に加入してから、私たちも対象になったんです。でも、それまでは健康保険や国民年金には入れませんでしたし、こうした現実を見ていたので、自分がどうやって生きていくのか、自分はいったい何者なのかというのを、常日頃考えざるをえない子ども時代でしたね。
日本の学校に通っていたということですが、通える範囲に朝鮮学校はあったのでしょうか?
ありましたが、行きませんでした。南北の問題もありましたしね。子どもながらに影響を受けました。それはもう悲惨でね。朝鮮部落の中でも、分断が起きたんです。同じクラスにいた同級生の子は、中学校から朝鮮学校に行きました。
ひとことでは言えないんですが、日本と朝鮮だけでなくて、朝鮮戦争で南北の分断が起こったとき、在日の中でも分断があったんです。
辛いですね。
辛いです。兄弟や親子の中でも分断があったと聞いてます。
うちの場合はそこまで激しいことはなかったけれど、「これは一体どういうことなんだ」と常に考えました。
北と南で派閥が分かれた人々は、その後も別離したままなのでしょうか。
大きな分断があった後、1972年には南北共同声明があったり、首脳会談が実現したり、南北の距離が近くなった時がありました。朝鮮半島で融合することは難しいけれど、私たち在日は、北からも南からも来ているわけだから、統一をすすめようよ、という動きがあったので、完全に別離はしていません。
私個人の想いとしては、北にも南にもとらわれたくないのです。特に男社会にとらわれるのが嫌なんです。
そのころは特に、日本はいまだにそうだけども、あらゆるところで男集団が牛耳っていたんです。そういう分断もあった中で、私はどこにも交わらずにピンで生きようと思っていました。
在日コリアンの中の強烈な男社会というと、『血と骨』という映画にも描かれていましたね。
朝鮮学校をターゲットにした差別、子どもたちに浴びせられるヘイトスピーチ
在日コリアンに対する制度的な差別は、今も残っているのでしょうか。
制度上はだいぶ改善されました。都営住宅にも住めるようになりましたしね。それでもまだ残っています。大きい例としては、高校無償化ですかね。
日本の高校はみんな無償化するというタイミングで、朝鮮学校を対象から外したんです。
税金は、朝鮮人でも韓国人でも働いてればみんな同じように払っています。商売をしていれば、みんな同じように納税義務があります。義務は同じでも、そういう恩恵的な部分に対しては、朝鮮学校を排除する。
小中学校に対しても、日本の学校に比べると微々たるものですが、朝鮮学校に対してもかつては補助金が出ていましたが、今はそれもカットされています。学校運営はとてもお金がかかりますし、補助金がなくなったことで運営が難しくなっています。
同じように幼稚園・保育園の無償化でも、朝鮮系の施設は無償化の対象外です。
また、日本国籍がないので、選挙権がありません。国レベルの選挙権は要求してないけれど、地方参政権については要求し続けているのですが、それもまだないのが現状ですね。
とはいえ、いろんな戦いの中で、少しずつ克服してきているとは思っています。
そのほかの日常生活での生きづらさは、どんなものがありますか?
たとえば朝鮮学校の生徒はわかりやすいのでターゲットになることがよくあります。
制服を破られたり、電車で髪の毛を着られたり。そうした時代が長くあったので、今は朝鮮学校の生徒も伝統衣装のチマチョゴリではなく、ブレザーの制服に変えている現状があります。それでも、普通の路線バスの運転手さんが、朝鮮学校の子どもに「乗るな」って言うことが、当たり前に起きてるんですよ。信じられないでしょうけど、この東京で。
国が朝鮮学校への補助金を削除するとか、制度として公の差別もある中で、朝鮮学校は差別のターゲットにしていい、という空気も感じます。
京都では、朝鮮学校に対してものすごいヘイトスピーチがあって、子どもたちを恐怖のどん底に陥れた事件もありました※。
自らが在日コリアンであることを知らずに生きる若者たち
こうした事件が多いので、日本の学校に子どもを通わせている朝鮮人の親は、子どもに本当の出自を明かさない、つまり朝鮮人であることを教えない事例も増えていると感じています。
去年の暮れに、在日の若者たちの状況を調べたいという依頼をもらったので、いろんなところを訪ねて調査したんですけど、情報が出てきませんでした。
結論としてわかったのは、本人たちが自分の出自を知らないままに生きている若者たちが増えているということ。
なので、例えば就職や結婚するとき、マンションを買うときになって、はじめて自分が朝鮮人であることを知って驚く。そういうことが、今とても多いんです。
現在の国を挙げた朝鮮人への差別体制が、朝鮮にルーツを持つ親たちに恐怖を与え、それが蔓延している。その結果が今の現状に表れています。
私の20代のころは、(朝鮮名の)本名を名乗っている人たちが結構いたんですけど、今はいませんよね。
去年、うちの息子がアパートを借りるために、不動産屋に行った時、大家さんが「朝鮮人はダメ」といって入居を拒否されたんです。
そんな明らかな差別は、裁判したら勝てたんでしょうけど、そんなことをしている生活の余裕はないので、結局他を当たることにしました。いろいろ探し回って、やっと理解ある大家さんに出会ってアパート借りることができたんですけど、そんなことは日常茶飯事です。
自分の出自を隠さなきゃいけない。子どもにも明かせない。それはとても残酷なことですね。
私が小学校で支援員をやっていて経験した面白い話があります。
私は小学校でも韓国名の慎を名乗っていました。手には「アニョハセヨ」って書かれたバックを持って、「私は韓国人」ってわかるように歩いていたんです。
ある日、小学4年生のすごくやんちゃな男の子が、わたしを見て「俺のじいちゃん、韓国人だぜ」って言ったんです。私と同じ韓国人だから、得意になって言ったんでしょうね。
子どもたちって面白いんですが、日本に生まれて育ったから、自分は日本人だと信じて疑わないわけ。おじいちゃんが韓国人だけど、自分は日本人だって。国籍の違いとか民族の違いとか、まだ4年生だから考えてなかったんでしょうね。
その子に対して、「じゃあ(韓国の)どこの人なの?」って食いついて、いろいろ質問して、「うちに帰って聞いておいでよ」って言ったんです。
その翌日からね、その子が韓国の話をすることはなくなりました。親に止められたんでしょうね。わからないけれど「お前も、韓国人だよ」って言ったのかなって気がしています。
その子は今、中学生になっていて、時々道ですれ違うことがあるんですが、ふっと私を意識しているのがわかるの。こっちも意識しているからでもあるんですけど。
急がないから、もう少し時間が経ったら、大人になったその子と話ができるかなって楽しみにしてるんです。
彼も自分の中でうまく受け止められなかったんでしょうね。なんとか自分のルーツをポジティブに捉えられるようになってほしいな。でも、そういう子はたくさんいるんでしょうね。
祖父母のどちらかが韓国人って子、結構いますよ。その事実を知らないで生きている子も多い。それがその子の人生にどうつながっていくのか、彼らがどう解釈するのかはわからない。
ただ、韓国人の慎先生が学校にいたってことが、彼らがどこかで自分が韓国人であることを知った時の力になればいいかなって思って、71歳になってもまだ小学校で仕事をしてるんです。
私がこうやって慎って名前を出して学校で仕事ができることは、私の人生の大きな目的でもあります。隠さずに生きていけることは、とても幸せです。それができない人がたくさんいますから。
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今日の感想
おはなしを聞いて
同じ社会で暮らしていても、当事者にならないとなかなか見えない構造があるということを、実感させられたストーリーでした。慎さんが、「朝鮮人」であること、自分が何者であるか、という問いに向き合ってきたように、私自身はいったい何者なのか、日本国籍を持って日本に生まれたことの意味は何なのか。目をそむけたくなるようなこともあるかもしれませんが、じっくりと向き合いたいと感じました。
(by ライター・ばん)
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