男女共同参画許すまじ!?
今年5月、世論調査で“選択的夫婦別姓”に賛成する人が6割を超えるという結果が出て、“家族のあり方”が変わる兆しを感じさせる一方、「夫婦別姓は家族の絆を破壊する。子どもの姓が異なることで混乱が生じる」などと主張し、選択的夫婦別姓に反対する政治家は少なくありません。
じつは私たち国民の中でも、意見はさまざま。
冒頭で紹介した世論調査では、たしかに6割超の人が夫婦別姓に賛成していました。しかし、2017年に内閣府が行った世論調査※の結果を見ると、8割近くの人が「名字(姓)が違っても、配偶者の父母との関係には影響はないと思う」と回答しつつも、6割以上の人が「子どもにとって好ましくない影響があると思う」と答えています。
夫婦は自由にすればいいが子どもがいる場合は別だと考える人が多くいるようで、やはり家族が同じ姓であることに重きを置く人は少なくないようです。
同一の姓であることが「良い」とする考え、姓の統一が家族にとって重要なものであるという価値観の背景には、一体何があるのでしょうか。
かつて「男女参画許すまじ!」だっためふぃ~☆たん
今回インタビューするのは、女性装でダンスパフォーマンスを行うめふぃ~☆たん。
とあるイベントバーで出会った時、かつて保守系の政治団体に所属し、2001〜02年にかけて、男女共同参画の推進に携わる施設に頻繁に抗議を行っていたというお話を聞かせてくれました。いわゆる右派の団体の人に出会ったのは初めてだったので、大変驚きました。
“男女共同参画”とは固定的な性別役割分業(「男 or 女はこうあるべき」というような性別に基づく役割の決めつけ)にとらわれずに、だれもが活躍できる社会を目指す取り組みのこと。その取り組みの一貫として、家族のあり方に関わる法律も見直すべきものとされてきました。
1999年に公布・施行された「男女共同参画社会基本法」により発足した男女共同参画局では、選択的夫婦別姓についても世論調査などをもとに検討され、男女共同参画基本計画にも議論を深めるべき課題として記されていました。
めふぃ~☆たんが抗議活動をしていた当時は、男女共同参画基本法が施行されたばかりで反発も大きく、「ジェンダーバックラッシュ」という男女平等や男女共同参画に対する反対運動が起こり、「ジェンダーフリー」という言葉を使えなくなったり、図書館からジェンダー関連の資料が撤去されたりしていた時期。
そのころは選択的夫婦別姓についても反対していたというめふぃ~☆たん。当時、どのような思いを抱いて抗議したのか、夫婦同姓を含め「正しい家族」はどういったものなのか。伝統的な家族像を良しとする考えやその背景にあるものの一端を知りたく思い、めふぃ~☆たんに聞いてみました。
プロフィール
-
インタビューのお相手
めふぃ~☆たん戦後の平和教育と管理教育や校内暴力との矛盾への反発などから、97年頃保守系の政治団体に所属。現代の若者やマイノリティーを見下す姿勢に違和感を覚え、2006年に脱退。現在は大阪・ミナミを拠点にダンスパフォーマンスなどを行う。
-
ライタープロフィール
谷町邦子大阪の地下鉄谷町線沿線で生を受け、今は石川県に住むライター。
ウェブを中心に活動するも、トピックが短期間で炎上、またはバズり、忘れ去られていくSNSの現状に疑問や不安を感じる今日この頃。
「話題沸騰中の出来事」、「みんなが忘れかけているアノ事」を、現場の人との対話で深掘りしていきます。
インタビューは
ここから!
夫婦同姓は家族の絆を守る日本人の根本的価値観?!
今年に入って、選択的夫婦別姓について話題になることが多いけど、めふぃ~☆たんは政治活動していた頃、なんで夫婦別姓に反対してたんですか。
選択的夫婦別姓は家族の絆を失わせる左翼の策動であるから、という理屈で断固反対でしたね。
選択的夫婦別姓により、戦後のGHQによる民法改正※で破壊されてしまった“家制度”の名残りを、最期まで破壊し尽くされると思いました。
信用ならないリベラルや左派とかいう連中に、最も大切な国や民族の根幹、生殖のあり方、墓のあり方、日本人の生死観さえいじられることへの不安があったのです。
私たちにとって選択的夫婦別姓に反対することは、天皇中心の国のあり方を守る「國體(国体)護持」の一環だったのです。
今考えるとナショナリストとしては失格であり、日本国の矮小化だったとは思います。
なぜなら夫婦別姓で日本が沈むなんて、どれだけ脆弱な国なんだと思いますし、別姓だった時代に、すでに沈んでないとおかしいわけでして。※
ただ、「選択」とは言うものの、男女共同参画社会基本法も成立し、学校でも「従来の性役割意識に沿わない生き方が正しい」と意識改革を伴う教育をされているので、同姓を求める保守は「遅れた人間」として教育されることに正当性を与えるのではないかと思っていました。
そのような教育で育った女性から、結婚にあたり別姓要求がなされる世の中になりますと、保守派の男性は伴侶が得にくくなると考え、私たち反対派は未来において淘汰されかねない少数派に転落することを恐れていました。
社会人女性からすれば別姓は利便性が高く、選択別姓が成立した社会では結婚相談所において、男性から同姓を要求すると不利になるのは想像できます。
「もしこの戦いに負けたならば保守派、同姓派に配慮なんかされるわけがない」と思うほど、人権教育やリベラルは信用していませんでした。
選択的夫婦別姓など、旧来の日本の制度ではない家族観は戦後のGHQによるもので、賛同する人は洗脳されているという認識ですか。
敗戦という出来事は私たち保守からすれば象徴的なんてす。
戦争に負けたから、民主化の名の下に占領政策を受け入れざるを得なかった、これは民族の屈辱であると。
私個人はこの世界の全ての教育は所詮は洗脳と考えていました。 私たちが勝ち、私たちの教育をする。こちらとて洗脳の権利を勝ち取りかたったわけです。
家庭こそが女性の居場所
男女共同参画は、女性の職場への進出を後押しする要素もありますよね。
働く母親については、どのように考えていましたか。
「女たちよ、家庭に帰れ」とまでは言いませんが、私は資本主義が女性を労働力として利用する事を嫌悪していました。
産業戦士の地獄は男だけでよい、だから専業主婦が理想でした。
しかし、財界は女性を労働力として期待していて、自民党は資本主義の党ですし、我々の要求は結局通らないわけなんですが。
そして、子はあくまで父親ではなく母親や祖父母の豊かな愛に育まれて育つのだから、子育ての社会化(子どもを家庭内だけではなく、保育所など公共サービスの中で育てること)は阻止せねばならない、とも考えていました。
サザエさんのような、三世代同居の大家族で、母親が専業主婦という家庭が理想でしたね。 とはいえ漫画版のサザエさんに、サザエさんがウーマンリブ活動に参加したエピソードがあると知った時は、笑うしかなかったです。
私は、「男は外で働き、有事には女を守って真っ先に死ぬ“鴻毛(ルビ:こうもう)の命”(吹けば飛ぶような鳥の羽のように軽い命。正義のために命を捨てるのは、少しも惜しくないという意味)で、男たるもの兵隊アリで良い!」と考えていました。
ですが、現実は私自身病弱で、その様に生きられないやましさ、後ろめたさがありました。
シングルマザーについてはどう思われていましたか。
私は当時、シングルマザーの存在はもちろん否定はしないけど、離婚は悲劇と捉えました。
私たちは女性を企業の奴隷として酷使されたくなかったのです。女性が男たちの庇護の元で穏やかな日常を送る幸せこそ、日本人の目指す家族の姿だと思っていました。
ただ、保守的な価値観で「女性を保護する」と言う時には裏があります。甘える権限が欲しい、子どもを生んで欲しい、自分の支配下に置きたいなどの男性側の気持ちがあるとは思います。
背景には体罰を伴う教育と、厳しい父への反発
めふぃ〜たんが「左翼」などの言葉で敵視する戦後民主主義的な価値観に反発を覚えるようになったのはなぜですか?
私が若かった昭和は、上の世代にまだ戦争を知る人がいたし、学校は荒れた時代でした。
暴力は今よりもっと身近だったんです。
暴力で平和や人権を叩き込むという矛盾した行為に対して反感を覚えました。
私は教師からタンバリンで殴られたことがあるのですが、吐き気がする偽善だと思いました。
では、どんなきっかけで右翼的な国家観に魅力を感じましたか。
高校時代、「悪徳資本家追放」と書いてある右翼の街宣車を見かけたのがきっかけです。
自◯党に所属する父親がバリバリの資本主義者で、反発していた私は右翼も反資本主義なんだと初めて知り、大層気に入って自分の自転車にそのスローガンを書きました。
敗戦後、右翼には資本家に追従した人ばかりでなく、農本主義に立ち返る人々もいたのですから、資本主義に対抗する右翼もいたのは当たり前です。
父親は青くなって「消せ!」と言いました。
それが私と右派的世界観との出会いです。
それから、日章旗や旭日旗を買ってきて自転車に取り付けるようになりました。
勇ましさ、大きなものに殉ずることへのあこがれ
高校卒業する頃には「別冊宝島編集部 平成元年の右翼―右翼の未来はあるか?!」(JICC出版局 1989)に載っていた「天皇陛下の元に団結せよ」のノボリを立てた老右翼の写真に強烈な印象を受けました。
20代に失恋して世界に失望した時には「悪」に憧れる気持ちでアドルフ・ヒトラーの「わが闘争―民族主義的世界観 上・下」(角川文庫 1973)を読んで、暴力と暴力が激突する突撃隊の政治闘争のダイナミズム、プロパガンダの張り方に感心しましたね。
ただ人種主義(レイシズム)には同意できませんでした。
天沼俊先生の漫画「戦空の魂」はなすべき事に忠誠で純粋で、敵にも礼儀正しい理想の日本人の姿が描かれていると思いました。
戦争は悲惨なればこそ、靖國の英霊に対して資本主義に塗れて飽食に生きる己のやましさを感じました。
ドイツの軍人、ハンス=ウルリッヒ・ルーデルの戦記「急降下爆撃機」(学研M文庫 2002)や、世界初のロケット戦闘機のテストパイロット、ヴォルフガング・シュペーテの戦記「ドイツのロケット彗星―Me163実験飛行隊、コクピットの真実 」(大日本絵画 1993)を読み、その勇ましさに胸を躍らせ、目的の為に命を惜しげもなく使うという価値観に憧れました。
零戦パイロットの坂井三郎さんの「大空のサムライーかえらざる零戦隊」 (光人社NF文庫 1994)の家族観には感銘を受けました。
戦闘中、重傷を負った坂井三郎は持ち前のど根性を生還の為に使うのですが、坂井を育てたのがガキ大将との喧嘩を心ゆくまでやらせる愛情深くも厳しい肝っ玉かぁちゃんなんです。
私はその時、日本は本来こういった家庭であるべきと考えました。
そんな美しい家制度の頂点に天皇陛下がおられる、そう私は解釈しました。
個人主義が跋扈(ばっこ)し、家族を顧みなくなった現代には、残酷な自由がある故に苦しみ孤独を感じる。
それに対して、宿命の中に脈々と生き、見合いで結婚し女は家に入り男は戦う。そうした文化の中で大切にされてきた皇室や戦前の家族観を、私は「民族のゆりかご」のように考えました。
…ただ、こうやって振り返っているうちに気づいたのですが、私はそれほど天皇主義でもなかったのかもしれません。最後まで何故天皇陛下が有難いのか、認識してませんでした。「有難いから有難いんだ」と、問答無用だったんです。
平和なはずの現代への深い悲しみと憤りが起爆剤
実際に政治的な運動に足を踏み入れることになったきっかけのようなことはあったんですか?
私が始めて交際した女性は、16歳で妊娠中絶を2度経験していました。
次に交際した人は高校時代、親は不在で家は溜まり場になりシンナー吸っていた妹の彼氏に自宅でレイプされていました。
「親は何をしているのか?」
私が感じた疑問です。
戦争に負け、自由になった世界で人は幸せになったか?
退屈な世界で、堕落した自由が人を苦しめているではないか!
そうだ私は社会を変えよう、私が不遇のまま死んだっていいじゃないか!
そう考えていたとき、当時手伝っていたお店のお客さんから運動に誘われました。
これが政治運動に関わるようになった直接のきっかけです。
左翼思想の催しに税金を使うな!と抗議
男女共同参画に関わる施設に抗議に行ったと聞いたのですが、具体的にはどんな施設だったんですか?
主に市役所です。左派の強い地域に、重点的に抗議に行きました。
何度も抗議に行き、男女共同参画課と毎回大激論になった市役所や、組織で監視対象としていた男女共同参画センターもありました。
1人で行くのが不安だったとか?
いいえ。むしろ、私が過激すぎて味方に怒られたり止められる事が多々ありましたした。
ジェンダーフリー的な政策に対する抗議では婦人部10人ぐらいを連れて男女共同参画課にいったことあります。男性にお茶出されて猛反発が起き、婦人部の人がそれを取り上げて「私がやります!」なんてやりとりもありましたね。
どんな方法で抗議したのでしょうか。
2000年代は抗議の方法として、FAXや公開質問状が盛んでしたが、私たちは市役所や女性センター、フェミニストの講演に乗り込み質疑時間にバトルを仕掛ける方法でした。
右派というと街宣車で抗議、という印象があるのですが。
街宣車を使い特定の建物の前で抗議すると、威力業務妨害などで逮捕されるので、直接乗りつけることはなかったです。
私たちが街宣車に乗ったのは、情宣(情報宣伝)の時です。 街宣車に乗って、たとえば、家族や男女のあり方については「夫婦別姓に反対しましょう、家族の絆を守りましょう、男は男らしく女は女らしく」など自分たちの主張を流しました。
ただ、私は婚外子で親と姓が違うし、法事で疎外されたりして育ちました。戦後の焼け跡世代の父は厳格過ぎて、関係も良いとは言えなかった。そんな事情もあって、私自身は気持ちが冷めていました。
「男らしくあれ」というホモソーシャルでマッチョな社会では私に居場所はない。
しかし、憎い左派が苦しむなら奴らもろともだと自分を奮い立たせました。
強い敵意と憎しみをもって市役所や男女共同参画センターに赴いた様子が伝わって来るようですが、いったいどういう理屈で抗議したのでしょうか。
男女共同参画に関係するフェミニズムや、メンズリブの人たちによる公的な施設でのイベントについて、「開催するのは勝手だが、税金で運営されている行政が支援するな」と反対しました。
メンズリブは「男らしさ」を問い直し、生きづらさからの解放を目指していたと思うのですが、どういったイメージを持たれていましたか。
フェミニズムに同調、屈服する人たちだと思っていました。 「税金で左派的な価値観や運動を支援するな」という抗議は、2000年前後に私たち世代が反フェミニズム運動で使った手法でした。
エンパワーメントの名の下に行われるフェミニズムへの資金や優遇の流れを断つ必要がありましたので、脇が甘いフェミニストが、市町村の講演会のレジュメの奥付に自然食品などのお店の宣伝を記すなど個人的なビジネスを紛れ込ませていようもんなら一点突破でそこを突きましたね。
ただ、この手法には反省点もあります。敵の中で隙がある叩きやすい人を叩く、そこにはアドレナリンを放出するような快楽があります。
今のネットの保守派は、何か核になる思想があるわけではなく、リベラルの政策や意見の隙を見つけてひたすら阻止するアンチリベラル勢力になってしまっていますね。
そしてそのような批判の仕方のせいで、かえって自分たちも社会のビジョンを出しづらくなりました。下手な提案をすれば、脇が甘い人が吊るされ叩かれますから。
リベラルやフェミニズムのネット運動家だって、いずれ一部の人は正義感を暴走させ保守から生まれたネット右翼と似たような結果になっていきそうだと私は見ています。
左翼的な要素がある催しに税金や公的な施設が使われることについて、今はどう考えていますか。
保守から距離を置き15年以上が過ぎた今も批判的です。しかし、当時とは意味合いが変わりました。
正当な利用料を支払って会議室などの施設利用だけならどうでもいいんですが、どのような運動や芸術であれ、国家権力や体制により協賛支援されたなら、“変革”は資本主義において正しい範疇に収まり無害化、つまり体制に回収される危険があると思います。
革命を起こすのを諦めた左派やリベラルが穏健な保守と連帯し、より伝統主義的でタカ派の保守と税金の使途をめぐって主導権争いをし、新しい日本の「正しい」保守勢力になろうとしているのではないか。
それならば私は体制に認められることのない、「悪」の側に付きたい。
たとえば、街おこしアートであっても同じです。
政府や行政に承認されないような、急進的なものが好きな私は、そこ(公的に認められたイベント)に期待できないのです。
ラディカルであれば、私は左右問わずリスペクトします。
行為にユーモアがあればなお好きです。
政治活動のなかで感じた、排除と見下し。そして、「男らしさ」からの脱却へ
先程「15年前から保守と距離をおいている」言っていたけれど、どうして距離を置くようになったんですか?
当時、活動を共にした方が保守論壇誌にメンズリブのイベントを批判する記事を執筆していました。
その記事の中で、変わった格好の参加者を「異形」と嘲笑する記述に、私はわずかに違和感を感じていました。
この違和感は私の中でターニングポイントでした。
この後です、私が活動から離れ今の形になったのは。
「変わった格好」とは、男性らしくない服装や髪型をした人という意味ですか。
はい、ドラァグクイーンぽかったです。
当時、私は男性として生き、男らしく振る舞っていました。
しかし、意識はしていなかったものの、「男らしさ」から降りたいという気持ちはあったでしょう。
東京で会った宗教右派の人に、「コーヒーカップ持つとき小指が立っていた」とか「随所が男らしさに欠ける」と注意されてましたし。
あれから17年が過ぎ、今言うならば私も結果的に自らが所属した勢力が言う「異形」だったわけです。
ただ、紙一重の運命の悪戯で私は保守側にいただけだったのです。
かつて私は戦記を読み、現代の堕落しきった社会で生きることについて、戦前を生きた人や英霊にやましさを感じていました。
それだって、どこか間違っていたのかもしれません。
私のいた組織は宣伝映像で若者の不可解な行動を引き合いに出し、モラルの劣化と断じていました。
しかし、それは、私たち世代の大人の堕落、精神の貧困の証だと、今は思います。
今を生きる人には今の戦場があると知るのはさらに後年、私が運動をやめて女装家になってからです。
自由や平等が「良いこと」とされる世の中が信じられなくて保守系の政治運動にたどり着いたのに、そこでも居心地が悪くなってしまったのですね。
何を信じて、どんな集団にいても、「生きづらさ」から解放されるのは難しいのでしょうか。
私が反フェミニズム的な活動をしていた当時から「フェミニズム的な世界で上手くやれない女性が保守系に回り反対している」という批判が敵側からありました。
そして、それは当たっている面もあります。
事実、私と共に運動していた女性は、若い頃はフェミニスト的な考えだったそうです。
フェミニズムの考え方からすると男社会の罪によるものだと言われてしまうかもしれませんが、敗戦時の満州など悲惨です。
「強国なればこそ女性や子どもを守れる」という考えからネット右翼に目覚める女性もいて当然でしょう。
「不安なときに出会った人や情報。そうしたものに誘導されて、私たちは思想や主義に没頭していく」と、めふぃ~☆たんは言います。
今回は保守の元活動家、反フェミニストとしてインタビューしましたが、最後に「じつは皆、立ち位置など“紙一重”なのかもしれませんね」と語りました。
あとがき
めふぃ~☆たんが学生だった昭和50年代末期は、日教組(日本教職員組合)の組織率が5割近くあった時代。※1
日教組は労働者としての教職員の権利を守るだけでなく、平和や反差別、護憲などの主張を掲げることが多く、左翼的な団体とされていました。
同時に、1980年代は校内暴力が問題視された時代でもあります。※2
教師たちが平和や人権を掲げていても、学校には暴力が横行するという環境で、めふぃ~☆たんの怒りは左翼に向けられていったようです。
高校時代に見た街宣車や、戦記は、めふぃ~☆たんの心を高揚させ、自分の命を省みないほど勇敢で、国家という大きな存在に殉ずる登場人物は憧れの対象になります。天皇を中心とした国で、性役割分業に疑いを差しはさまず人生を全うする戦前の「ヒーロー」の姿が、めふぃ~☆たんの国家観や家族観を形作ったようです。
同時に、右翼的なモチーフを身につけることは、厳しい父親に反発できる、自己表現でもありました。
そして、敗戦により古い制度から解き放たれたはずの現代日本も、堕落し、弱いものが虐げられる世界に思え、めふぃ~☆たんは保守系の政治運動に身を投じ、2000年代初頭、「バックラッシュ」とも呼ばれる抗議行動を展開しました。
今回の記事は、保守系の政治運動に参加した、一個人のあゆみについてのインタビューですが、戦後から現在にかけての社会のあり方の矛盾や、それによる痛みや怒りをそのまま体現しているかのようです。
若い頃のめふぃ~☆たんを暴力で苦しめた学校や社会は、自由や平等、反戦などの「正しさ」を掲げていました。活躍の場を求めた保守系の政治団体は、伝統的な家族や男女のあり方といった「正しさ」の復権を求めながら、マイノリティや若者を差別しました。
めふぃ~☆たんは時代に翻弄されながら、それらに逆らい、逃れるように生きて来たように思えます。「自由」や「平等」が求められるなかで、無視される苦痛や怒りがあり、それが人を追いやったり、極端な行動に駆り立てたりするのかもしれません。
現在、めふい~☆たんは、「今を生きる人には今の戦場がある」と自分と違う立場の人の痛みにも思いを馳せており、かつて自分が抱いた戦後民主主義への怒りや、戦前への憧れを絶対視せず、少し距離を置いて眺めているようにも思えました。