元プロサッカー選手がシリア訪問で気付いた、サッカーをする意味(スポーツのチカラ vol.2)
連載スポーツのチカラ
開催か中止か、有観客か無観客か、最後まで揉めにもめた東京五輪が、ついに無観客開催というカタチでスタートしました。
世界的なパンデミックで、社会が混乱する中、開催に躍起だった日本政府や大会関係者は“スポーツのチカラ”という言葉を何度も繰り返し発信し、五輪の意義を訴え続けてきました。
しかし、何度も耳にするうちに、「そもそも“スポーツのチカラ”って、なに?」なんて疑問を抱いた人は少なくないのではないでしょうか。
この言葉が多用され、その効力が徐々に薄れ始めた頃、私たちが出会ったのが、レバノンのシャティーラ難民キャンプにあるサッカークラブ“パレスチナ・ユース・クラブ”を支えるメンバーのみなさんです。
中東・レバノンで暮らす難民の子どもたちに、サッカーできる環境を届ける。そんな活動を続ける彼らの語りの中で見えてきたものこそ、まぎれもないスポーツのチカラでした。
シャティーラ難民キャンプのサッカークラブを支える大人たち
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法貴潤子さん普段日本にいる林さんと、シャティーラ難民キャンプをつなぐパイプ役。レバノン在住の日本人を含めた外国人を交流試合に連れて行くコーディネート業務も担当。
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林一章さん日本でサッカーコーチやサッカー選手としてプレーしながらチャリティイベントを開催し資金を集めている。2019年にはシャティーラ難民キャンプを訪れ、子どもたちと交流。
- マジディさんシャティーラ難民キャンプ・サッカー教室のコーチ。自身もパレスチナ難民。
ここから連載2回目
スタート!
スポーツのチカラ vol.2サッカーコートでは、だれもが同じ“ひと”なんだと感じられる
第2回目は、シャティーラ難民キャンプのサッカークラブを日本から支援している元Jリーガーのカズさんにインタビュー!
カズさんは大学在学中に単身ブラジルへ留学、現地でサッカー選手デビューした後、日本に帰国してJリーグ選手に。その後、教育の世界に転身し、社会科教師として教壇に立ちながらサッカー部の指導をしていたことも。
現在は、伊賀FCくノ一三重・鈴鹿ポイントゲッターズでのコーチ業や、一般社団法人津市スポーツアカデミーMaravilhaの代表を務めるかたわら、チャリティサッカーイベントなどを開いて寄付を集め、レバノン、ヨルダン、ブラジルなど、さまざまな国でサッカーを通じた支援活動をしています。
カズさんを社会貢献に突き動かすモノはなんなのか?
彼が思う「スポーツのチカラ」とはなんなのか?
じっくりうかがっていきましょう〜☆
プロフィール
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林 一章 三重県津市出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。
中央大学在学時に単身ブラジルに渡りプロデビュー。帰国後は、JリーグのFC東京や水戸ホーリーホックや、社会人サッカークラブ「デッツォーラ島根」などでプレー。
その後、高校で社会科教師をしながらサッカー部を指導。三重高校や麻布大学附属渕野辺高等学校をインターハイに出場させた。
現在は、地元三重の女子サッカークラブ「伊賀フットボールクラブくノ一」コーチを務めるほか、津市スポーツアカデミー「MARAVILHA」の代表もしている。 「サッカーを通して学んだことを、今度は次世代に伝えるのが自分の役割」だと考えていて、学校・企業・団体などに講演や授業をすることもある。(講演や授業についてはJFAこころのプロジェクトをご覧ください)
ブログはこちら。
取材メンバー
- つむじ
- ふなかわ
- ばんゆかこ
難民キャンプの子どもたちに、サッカーの機会を
本日は、サッカーを通して、世界の子どもたちに支援をしている元Jリーガー・林一章さん(愛称はカズさん)にお話を伺います。宜しくお願いします。
まずはじめに、カズさんがやってる“サッカーを通じた国際支援”って、具体的にはなにをしているんですか?
カンタンに言うと、「チャリティフットサル」というみんなでフットサルして寄付もしようというイベントを、地元三重県で開催しています。そこで集めた寄付金を支援地に送って、サッカークラブの運営費など子どもたちがサッカーできる環境づくりに使ってもらっています。
日本のサッカーファンから集めたお金で、世界の子どもたちがサッカーを楽しめる活動なんですね。その支援先のひとつがレバノンのシャティーラ難民キャンプなんですか。
そうです。潤子さんのいるレバノンですね。
(法貴潤子さんへのインタビューはこちら→スポーツのチカラ vol.1)
ほかにも、ヨルダン、ブラジルにも支援をしています。
カズさんも、レバノンのシャティーラ難民キャンプに行ったことがあるんですよね?
はい。2019年の1月に現地に行きました。
そのとき見たキャンプの様子はどうでしたか?
何か特別な感じはなくて、すごく“普通”でした。
難民キャンプというと、暗いところを想像するかもしれませんが、子どもたちを見る限りは、そんなふうに見えません。
もちろん、私たちが見えないところで、いろんなことがあるのかもしれません。でも、少なくとも一緒にサッカーをしている間は、どこにでもいる子ども達です。みんな楽しそうにボールを追いかけていましたね。
キャンプの子ども達にとって、「サッカー」はどんなものなんでしょうか。
本当のところは本人たちに聞かないと分かりませんので、ここからは僕の希望というか願いとして聞いてください。
難民キャンプに住む人は、どうしてもいろんな制約がある中で生きています。
例えば、いつか大きくなったらサッカー選手になって、世界中で活躍したいという夢を持ってる難民の子がいたとします。でも実際は、就労規制や渡航規制など、さまざまな壁があり、そうした壁が彼らの夢を挫いていきます。“難民である”ということだけで、平等に扱われない現実に直面しているんです。
でも、サッカーをしているときだけは違う。
当たり前ですけど、サッカーというスポーツにはルールがあって、そのルールの中では難民の人であろうとそうでない人であろうと、みんな同じルールのもとで平等なんです。
「サッカーコートの中では、みんな同じ“ひと”だ」ってことを、彼らも感じていると思うし、僕らも感じられるんです。
高3で将来の進路を考えたとき、浮かんできたのが「サッカーやりたい」だった
なるほど、とても素敵な取り組みですね。
ここからはカズさんのライフストーリーについて、お聞かせください。まずサッカーを始めたきっかけを教えてもらいたいです。
僕がサッカーを始めたのは小学5年生の時です。特別な動機はなくて、周りの友達に誘われたからはじめました。
当時(1987年)は、今みたいにサッカーが人気な時代でもなかったですから。自分から「サッカーがしたい!」って言うほどの思いはなかったですね。
その時はまだそんなにサッカーは浸透してなかったんですか?
「キャプテン翼」って言うアニメを知ってますか?少なくとも僕の地域では、テレビでサッカーがやってるって言ったら、週に1回「キャプテン翼」が放送されてたくらいです。またJリーグもなかったですし。
今みたいにみんなでサッカーワールドカップを見て、って感じじゃなかったんですね。
全然違いますね。Jリーグが始まったのが1993年。日本がサッカーワールドカップに初出場したのが1998年ですから。
サッカーが人気になったのって、ほんの最近なんですね。
そうですよ。
今の子どもは、「サッカー選手になりたい」って夢を持ったとして、何かしら思い描けるものがあると思います。テレビをつければサッカー選手がいて、サッカーで世界に行けるんだってことを知っている。
けれど、僕らの頃はアニメのなかのお話でした。
小学校5年生から、ずっとサッカーひと筋でやってきたんですか?
うーん、サッカーひと筋かどうか…。大学以降は“サッカーひと筋”と言っていいのかもしれません。
大学進学の時は、サッカーが強そうなところを上から当たっていきました。上から順に、自分ができる教科と比べて決めたんです。
サッカーの他には、なぜか昔から国際的なことに興味があったので、中央大学の国際経済学部に入学しました。経済の前に“国際”っていう形容詞的なのがついてたから、それだけです。
サッカーで大学を選ぶくらいまでは、中高生のころはサッカーに打ち込んでたんですね。
いや、正直な話、じつはまるで打ち込んでなかったんです。
情けない話かもしれないけど、高校生の頃まで「将来何になりたい?」って言われて、思い描けるものがありませんでした。
高3で進路選びを迫られた時、「俺はこの先、いったい何がしたいんだろう」とぼ〜っと思い巡らせたなか浮かんできたのが「サッカーやれたら良いな」って単純な想いだったんです。
将来について考えるタイミングで、自分にとってサッカーが重要だったことに気づいたと。
高校進学の時の後悔を引きずっていたのもあると思います。
地元の三重県には四日市中央高校というサッカーが強い学校があったのですが、そこに行くことを自分であきらめて、違う高校を選んでしまった経験があるんです。
挑戦することさえ辞めて、逃げてしまった。そんな経緯で入学した高校で将来のことを考えたとき、何になりたいかわかんないけど、一度もトライすることなく、サッカーと離れていくのは嫌だと思って。
人生で一度くらいはサッカーに没頭する時があってもいいんじゃないか、という考えで、単純にサッカーが強いところ(大学)を選ぼうと思いました。
大学のサッカー部から入部拒否。意地とプライドで単身ブラジルへ
そうなんですね。では、大学ではサッカー漬けだったんですか?
いや、実はですね。大学ではサッカー部に入部できなかったんです。
え?というと?
大学のサッカー部にはスポーツ推薦でない人は入部できなかったんです。
え〜!?
それが、僕のサッカー熱に火をつけたといっても過言ではないですね。
それまで、たいしてサッカーに打ち込んでなかったくせに、大学で入部拒否されたことが悔しくて…、そこから本気になったんです。
不思議なタイミングで本気になったんですね。
意地とプライドですよね。
サッカー部に入れなかった僕は、自分なりにトレーニングしたり、いろんなチームでプレーしたりしました。でも、そのまま卒業までプレーをしていても、何も達成できない。
大学3年になり、周りの友達が就職活動というを始めるなか、「僕の“就職活動”ってなんだろう」と考えた末に出た答えが、単身ブラジル留学でした。自分がサッカー選手として“就職”するためには外国に行くしか道はないと思ったんです。
ブラジルに留学するって、当時は大変だったんじゃないですか?
まず、とにかく情報収集が大変したね。今と違ってインターネットのない時代ですから。
サッカーに関する情報と言ったら、「キャプテン翼」の世界か、当時プロサッカー選手のキングカズ(※)さんが、ブラジルでサッカー選手になったらしい、ということを聞いていたくらいです。
なぜブラジルを選んだんですか?
外国でサッカーと言って思いついたのは、ブラジルか、ドイツとかのヨーロッパの国でした。
その中で、何もないところからスタートできる場所、何ものでもない人でも受け入れてもらえる場所は、ブラジルだ!と思ったわけです。
ブラジルでは、現地の大学に行ったんですか?
違います。中央大学を休学したまま、サッカーするためだけにブラジルに行きました。だから簡単にいうと、就職活動です。
プロになるための就職活動ですか?
そうです。サッカーすることを仕事にしたかったので、ブラジルで就職活動してきました。
プロサッカーの就職活動って、どんな感じなんですか?
普通の企業の就職活動に例えれば、中途採用とかで入るのと同じ感じじゃないですかね。違うかな?
履歴書を送るのはもちろん、あとはコネクションも大事です。チームから声がかかって、そこで実際にプレーしてみて採用不採用が決まることもあります。
僕の場合は、ブラジルのサンパウロっていう街から80キロくらい離れた町でプロになりました。
ブラジルはサッカー大国なので、アマチュアリーグがすごく盛んなんです。どの街にもサッカーチームがあって、アマチュアリーグでもラジオ放送がされているようなところ。
その当時のブラジルでは、「日本人はサッカーがへたくそだ」と思われていたんですが、それが功を奏したところがあります。きっとブラジル人が同じプレーをしても何とも思われないところを、日本人の僕がやるとすごいと思われることがあって。
アマチュアリーグでプレーしているうちに、だんだんラジオとかでも名前が知れ渡るようになり、プロチームの監督に関心を持ってもらえるようになって、プロ入りすることになりました。
すごい…。その時はどんな気持ちだったんですか?
もうそれはね、なんて表現したらいいかわかんないすね。ここでは、それはちょっと表現できないです。
まず大学のサッカー部にも入れてもらえず、このままではサッカーを辞めるしかった人間に、自分の職業、居場所、そうしたものがはじめて生まれた瞬間だったんです。しかもそれがプロサッカー選手。
なんだろうな…表現できないです、本当に。
ブラジルでプロになり、帰国してJリーグへ
カズさんの年代で、ブラジルに渡ってそこでプロになった日本人は、他にもいたんでしょうか?
ブラジル国内ではたくさんいたと思いますよ。
ブラジルはサッカーの国っていうだけあって、チーム数がすごく多いんです。だからレベルも様々だし、もらえるお金の額も本当にピンからキリまであって、日本よりもプロになるチャンスがありますから。
でも、日本に帰国して、日本のリーグでプロになったという人は、数えるくらいしかいないと思います。
そうなんですね。どんなタイミングで日本でプレーしようと思ったのでしょうか?
プロサッカー選手になるということは、職業としてサッカーをするということなので、外国人の場合は労働ビザをもらうんです。ということは、外国人選手はチームからしてわざわざ労働ビザを出すくらいメリットがないと、続けていけないんです。
僕の場合、ハッキリ言うと、ビザを出してもらえなくなったんです。そのあと、他にプレーできるところを探しましたが、結局ビザが出なかった。
そうなると、日本に帰らないといけないですよね。6か月くらい粘ったのですが、仕方ない。南米でサッカーをしている人にとっては当然のことですが、ビザが出なければプレーもできないし、日本に帰国しなければなりませんでした。
ブラジルから帰国されて、日本でプロとして活躍されたんですね。
活躍したかどうかはわかりませんが、FC東京に入れることになりました。それもまた、言葉にできないくらいの喜びでしたね。そこで1年くらいプレーしました。
シリアへの渡航をきっかけに、国際活動へ
プロとして一線を退いたあとは、コーチ業や国際活動をされているんですよね。国際活動を始めたのには、なにかきっかけがあったのでしょうか。
Jリーグを離れてからは、まず高校で社会科の教師として働いてサッカー部の指導をしていました。その後、コーチとして活動をしています。国際活動をスタートしたのは2013年ですね。
一番のきっかけは、2007年にJICA(国際協力機構)の活動でシリアに行ったことです。もともと小さいころから世界に興味があったので、シリア行きの話が出たときは、大喜びで渡航しました。
シリアに行く前に、学校で先生していた時、少し違和感があったんですよね。本に書いてあることをただ生徒に話したところで説得力がないし、少なくとも上手く伝わってないな、と感じていたんです。
そもそも自分自身が現場を知らない。そんな状態で何を伝えられるんだろうって気持ちが引っかかっていたんです。実体験がなくても生徒にしっかりと伝えられるのが、本当の先生なのかもしれないですが。
そんな中、元東京ヴェルディの選手・北澤豪さんに誘っていただいて、JICAがシリアで行っていたサッカー関係のプロジェクトに関わる機会がありました。そこで、シリアにあるパレスチナ難民キャンプのチームが集まるサッカー大会の運営をサポートしたんです。
難民キャンプで生まれ育つと、なかなか将来への希望や夢を持ちにくいので、子どもたちが打ち込めることとしてスポーツを、ということで実現したプロジェクトでした。
自分も好きなサッカーをして、それが他の人の喜びにつながる。そして何かしらの形で社会のためになる。それが実現したら素晴らしいじゃないですか。スポーツを通じて、現地の人や日本の人に何か伝えることができる。これこそ本当の意味で、社会科の伝えるべき姿なのかもしれないと思ったんです。
シリアでの活動を終えたときには、具体的に何ができるのかまだ分からなかったものの、自分の興味関心とできることが繋がった感覚がありました。
その後、シリアでは2011年に内戦が始まりました。
この内戦を受け、2007年のシリア訪問で知り合った人たちが支援団体を立ち上げて、現地のために活動をはじめたことがきっかけになって、日本でチャリティフットサルを開催し、現地に活動資金を寄付することを思いつきました。実際に2013年に三重県津市ではじめて開催してから、現在まで活動が続いています。
シリアの子どもたちと、サッカーをして見えたもの
シリアで子どもたちと一緒にサッカーをすることで、何を感じましたか?
一番感じたことは、「言葉はいらない」ということですかね。
僕は別にアラビア語喋れるわけじゃないし、子どもたちも英語、ましてや日本語が話せるわけではない。共通の言葉が話せなかったら、どうしても人と人との距離って遠くなっちゃいますよね。
でも、サッカーがよく「世界の共通語」と言われるように、サッカーをすることによってお互いに目が合うんです。そして笑いあえる。そうすることで、人と人との距離が近づくことができる。国籍、性別、年齢、いろんな違いはあっても、そんなの関係なく繋がれる。そこに言葉はいらないんだってことを一番感じました。
それによって何かが大きく変わったとか、その出会いが彼らにとってプラスになったかはわかりません。
でも、「また1日1日、目標を持って生きていこう」っていう小さな想いから、その人たちの生活は変わっていくと僕は思うし、そう信じたいです。
そういう想いを持つことができる場所を作ることって、すごく大切だなと思っています。そんなきっかけ作りが、今も続けている活動の原点になっているのだと思います。
サッカーをすることで、世界中の人が言語を超えて繋がることができるという実感が持てたんですね。
カズさんの中で、それまでプロとしてやってきたサッカーに対する意味や意義は変わりましたか。
大きく変わりました。
Jリーガーとしてやっている時は、まず第一に気にするのは、やっぱり上手いか下手か、勝つか負けるか、でした。
2007年にシリアに行った時には、既にプレイヤーとしては一線を退いて、それよりもサッカーを伝える側として、スキルはもちろんサッカーをする意味合いや、プレーを通して学べることを意識するようになっていました。
シリアでの体験を踏まえて、改めてサッカーやスポーツをすることの背景にある素晴らしいもの、本当の大切さをもう一度知ることができました。勝ち負けやスキルだけでない、サッカーの持つ力をより感じるようになったんです。
コーチとしての教え方にも影響がありましたか?
コーチの内容も明らかに変わりましたね。
例えば声かけの仕方ですが、サッカーの用語を使うことよりも、サッカーをすることと社会生活やライフスキルとのつながりを意識するようになりました。
サッカーから、普段の私生活の中で活かせるものって結構あるんです。例えば、サッカーって素早く物事を判断して、自分の決断が間違ったら自分で責任を取る、ということが大切です。自ら判断をして、責任をとる。これってサッカー以外でも大切なことです。
今もサッカーの指導者として、勝ちを求められるのは事実ですが、そういう人間として大切な部分をより重視にするようになりました。
シリアでの体験が、指導者としてのカズさんに大きな影響を与えたんですね。
そうですね。
スポーツって一瞬一瞬が大切で、ためらいがあったり、悩んだりすると、その瞬間に失敗して、負けに繋がります。「ためらいからは何も産まれない。何があってもまずは一歩踏み出せ」というような声かけをしています。正統派な声かけなら「そのプレイを早くしろ」とか「もっと強いパスを出せ」といった言葉をかけるところなんでしょうけど。
僕は「立ち止まって逃げてない?」「後ろに下がってるんじゃないの?」というような声かけをしながら、自分自身にも言い聞かせているんだと思います。自分の中にも怖いと思っている部分は当然ありますが、立ち止まっていたら何も変わらないですから。
プロのサッカーコーチの声かけとしては間違ってる、と言われるかもしれません。間違いなく正統派な声かけではないことは言えます。でも、この声かけの中には、正しいか間違っているかより、選手の人生にとって必要なものがあると信じています。
故郷で始めたチャリティーフットサル。ジモトと世界がつながった
カズさんがやっているチャリティーフットサルやその後の国際活動についても、詳しく聞きたいです。
チャリティーフットサルは、僕の地元である三重県津市で、月に1回行っている草サッカーです。草フットサルっていうんですかね。
誰でも参加出来るけど、参加するには参加費が必要で、集めた参加費を世界各地のサッカーチームの活動に使ってもらっています。
最初の支援地は、シリアの隣にあるヨルダンという国。そこにシリア難民がいたので、寄付することにしました。
国際活動って、なんとなく興味があっても、自分とは遠い世界のことだと思ったり、何をしていいかわからなくて、一歩が踏み出せない人が多いと思うんです。
僕らがやってるチャリティフットサルでは、単純に日本でフットサルをプレーすることが、遠い国の子どもたちにとってプラスになる。そうすると自然と自分とその国とのつながりを感じられるようになると思うんです。これこそ、僕が社会科の先生をやっていたときに、子どもたちに伝えたかったことなんですね。
まずは近くにいる地元の人たちに、もっと国際社会に目を向けて欲しいっていう願い。そして、自分が実際に訪れて出会ってきたシリアの人たちが喜んでくれるお手伝いができる喜び。その2つをまとめて体現したのがチャリティフットサルです。そんな想いで、2013年からコロナで中止になるまではずっと続けて行ってきました。
その活動を続ける中で、法貴さんと出会ったんですね。
そうです。知り合ったのは、2018年の末ぐらい。2019年の1月に、カズさんがレバノンに来ました。
実は、私たちは三重県の同じ高校の同級生だったのですが、高校時代はお互いのことは全然知りませんでした。まさかレバノンで同級生に会うとは思いませんでしたね。
潤子さんのことを紹介してくれたのがシリアで出会った日本人で、彼も三重の人なんです。おかしな話でしょ。
三重県のつながり、やばいですね(笑) そして、その後ふたりはタックを組んで、レバノンでも活動を始めたということですね。
「スポーツを通じて、夢に向かって頑張れる子どもを増やしたい」
すごく興味深いストーリー、ありがとうございます。最後の質問になりますが、カズさんの今後の目標はあるのでしょうか?
僕個人としては、元プロサッカー選手であるものの、活躍はあまりしなかった。なので、今からでも何か活躍してみたいという夢があります。Jリーグのクラブに行って、優勝に立ち合いたいっていう想いもあります。外国に出て外国のサッカークラブで知らない文化の中で活躍もしてみたい。これが自分の職業としての夢ですね。
国際活動は、職業ではないものの、この活動に携わることが自分の誇りになっています。
スポーツを通じて、世界中の人たちが自分の夢に向かって頑張れるような、子どもたちも頑張れば自分の目標に近づけるような、そんな社会になって欲しい。これが一番の夢ですかね。
自分の力だけじゃどうにもできない環境にいる人たちのために、少しでも力になれたら嬉しいです。
ありがとうございます。素晴らしいです。
でも根本は、好きなことやってるだけですからね(笑)
さいごに
今日の感想
チャリツモメンバーの感想
今回カズさんのお話を聞いて、「好きなこと」の大切さを改めて感じました。
私は、現在高3年生で家族にも先生にも初対面の人にでさえ「将来は何がしたいの?何学部に行きたいの?」と聞かれます。何がしたいのか分からない、そんなふうに思っている学生も多いと思います。私自身もやりたいことが見つかったと思ったら、また迷って、結局何がしたいのか分からなくなって、悩む、みたいな繰り返しです。でも、今回かずさんのお話を聞いて、「好きなことで誰かに喜んでもらえることが何より嬉しい」とおっしゃっていたことがとても心に残りました。この言葉が「好きなこと」があることの素晴らしさについて、また自分の「好きなこと」を考え直すきっかけになったと感じています。将来のことを考える高校生の私にとって、今回のインタビューはとてもいい機会でした。ありがとうございました!
(by 書き起こしを担当したチャリツモ・まいまい)
ご支援ください
元プロサッカー選手・林一章さんは、日本でチャリティフットサルなどを開催し、世界の困難を抱える地域に住む子どもたちに、サッカーをする環境を届けるための資金集めをしてきました。しかし、新型コロナによって、1年以上活動休止を余儀なくされています。
子どもたちが思いっきりサッカーを楽しめる環境を守るため、みなさまからのご支援をお待ちしています。
ショッピングで応援する
そんななか、新たにスタートしたのが“Bola de Amizade”というブランド。Tシャツやトートバックなどを販売していて、その収益の一部は、子どもたちがサッカーをするために使われます。
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名義 | 一般社団法人 津市スポーツアカデミーMaravilha |