“枠組み”から解き放たれた人々によるアートとは? 岩手・花巻のるんびにい美術館を訪れました
経済活動から自由な人による、自由な意思によって生まれたアート。
そこには、経済性ではない豊かさを伝える力がある
障害者アートを巡る現状について、教えていただけますか?
政府主導の取り組みで、福祉関係者などに向けた研修会や相談窓口、障害のあるアーティストの発掘・評価、そして発信する事業などがあるのですが、制作活動そのものに対する支援というよりは、未知の作者を発見したり作品の発表を促進することに重心があるようです。
日本でも、一部の事業所で積極的に制作・販売活動をしていますが、まだまだこれから、といった印象です。こうした障害者のアート活動の需要は今後もっと増えていくのではないでしょうか。
だた、障害者のアート作品の販売に積極的ではない事業所も多いです。我々の事業所もアート活動をしているものの、販売には消極的なのです。
作家さん本人に販売したいという意思があるわけでなく、自身の表現が経済の中で扱われることの意味についても把握がむずかしい状況で、作品を販売し誰かの所有物にする、ということよりも、より多くの人に目にしてもらえるように保つほうが、現在の社会の中の障害者の立場を考えたときに、より有益だと考えています。
もちろん作品の扱われ方は本来私たち第三者が決めるべきことではなく、作家さんの意向をさぐって定められるべきです。買い取りの強い要望があった場合には、個別で慎重に対応します。
MUKUさんのように、作品の二次的利用に対しては、積極的に行っていこうと思っています。原作を多くの人の目に留まるパブリックなところに残したまま、二次的なものの販売で、貨幣価値を生み出すことは、制作者の収入源にもなることなので、ポジティブに受け止めています。
板垣さんは、障害者アートにはどのような意義があるとお考えですか?
一方で、我々が何を見る時にも常にもっている”経済”という枠組み、貨幣価値に換算する価値観、何かを所有する、という考え方から自由な人が、需要に対する供給としての制作という意識を持たずに表現していることは、実はものすごく重要な恩恵だと思うんです。言葉によって表現できない人の、純粋に個人的な表現活動を通して、経済の枠組みにはおさまらない豊かさという価値観を訴えていきたいと思っています。
編集後記
アートの生まれる現場で見たものは、まるで息をするように作品を作るアーテイスト達の姿です。もっとも彼らには、自分がアーティストである、という自覚はないのかもしれません。
彼らの生み出すものは、障害がある/ないは関係なく、純粋に生まれるべくして誕生したアートなのかのしれません。
世の中には”天才”と言われる人がいます。あらゆる観点で”非凡”である人がいます。中には、そうした人々を、”秀でている”あるいは”劣っている”という言葉で表現されます。
どういう形であれ、”普通”と違った特性や能力を持っている人はたくさんいます。むしろ、”100%普通”という人の方が稀でしょう(そもそも”普通”とは何か、という話でもありますが)。
その人の特性を”良い”ものと”悪い”ものに分けるのは、ある特定の観点に基づいたそれぞれの人の主観でしかないのかもしれません。どんな特性であれ、その捉え方や活かし方によって、良くも悪くもなるのです。
人の能力を測る物差しは一つではありません。世の中は、プラスとマイナスという二次元の軸では理解できないほど、カラフルで奥行きのあるものです。
るんびにい美術館で表現する彼らに出会ったことで、自分の世界のとらえ方に新しい視点が加わった気がします。
彼らのたぐい稀なる表現に触れることができたことを、とても幸運に思う一方、こうした作品に触れる機会が、もっともっと増えることを心から願うのでした。
参考情報
るんびにぃ美術館
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