ハーフ学者ふたりが語る、ニッポンのレイシズム 第3回
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第3回。“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話しします。
プロフィール
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阿部 大樹 精神科医・翻訳家 -
精神科医。医師として臨床に携わる傍ら、翻訳家としても活躍。
2019年に刊行した初の翻訳書「精神病理学私記」(日本評論社)が日本翻訳大賞を受賞。同書は現代精神医療の基礎を築いたアメリカの精神科医H・S・サリヴァンが生前に書き下ろした唯一の著作で、サリヴァン自身の性指向とアルコール耽溺を参照軸としつつ、スキゾフレニア、パラノイア、そして同性愛などを語る内容となっている。
また、翌2020年に出版した2冊目の訳書「レイシズム」(講談社学術文庫)は、日本人論の古典「菊と刀」でも知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「RACE AND RACISM」の新訳書。1940年に発表され、「レイシズム」という言葉が広く知らるキッカケとなった本作を、多くの人に読んでもらえるよう平易な言葉で新たに訳し下ろした。
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ケイン
樹里安 社会学者 -
社会学者・大阪市立大学 都市文化研究センター 研究員。主たる研究テーマは「ハーフ」と「よさこい踊り」。
2019年に出版した「ふれる社会学」(北樹出版)は、メディア、家族、労働、余暇、ジェンダー、セクシュアリティ、差別、人種などの視点から、身近でエッジのきいた14のテーマを読み解くことを通して、社会の大きな仕組みにふれる入門書。飯テロやスニーカーといった題材から、日本初「ハーフ」の章がある社会学の入門書としても注目されている。刊行後、たちまち4刷。
た・い・だ・ん
スタート!
欧米系のルーツをもつ “ハーフ” として
僕は研究者ですが、マスメディアに呼ばれたらそれなりにフットワークよく出るようにしています。それは意識的にやっています。
以前、ある記者の方に「なぜあの話題であの方のインタビューを掲載したのですか?」と思い切って聞いたら「専門の研究者に断られたからなんです…」と言われたことが心に残ってまして…。それ以来、「僕が断ったことで “有名ではあるかもしれないけれど専門家とはいえない人”が出てきたらそれはそれで困ったことになるかもしれない」と思うようになりまして。
“専門家ではない人”が、“ハーフ”や海外にルーツをもつ人についてマスメディアで語るのはちょっと怖いな、と。
そのぶん、本当にこの話題にこたえるのは自分でいいのか、と常に考えていますし、学び続けねば、とも思います。
で、個人的に今は踏ん張り時だと思っているんです。いろんな人々の個別の仕事や活動が結びつこうとしている機運もあるので、自分にできることはやっていきたいな、と思っています。
一方で、すべての人がそうというわけではありませんが、研究者や批評家、支援者の方々が「主語の大きい言い回し」をするときもあるので、どこかに登壇するときには身構えることも多々あります。
「ハーフっていうのは可哀想なんですよ」
「ハーフへの差別はないよね」
「ハーフは新しい日本人なんだよ」
などと言う人とかもいて。
「おぉ、勝手に決めちゃった!すごいな!」って思って聞いているんですけど(笑)。 「なんで新しいの?なんで可哀そうなの?」って、違和感がハンパないわけです。
“ハーフ”語りでしばしば置き去りにされる、東アジア系の人たち
もうひとつの違和感は、多くの“ハーフ”についての語りに、いわゆる「東アジア的な見た目」をしている人の経験が全く入っていないことです。
研究をしていく中で、日中ハーフの人や、日韓ハーフの人のライフヒストリーを聞くことがあるんですが、いわゆる「欧米白人系」のハーフのストーリーとまた異なります。
アジア系だと、自分のルーツについて話すことがいじめの対象になる可能性があるから語れないことも多くて、自己紹介で語らないことがリスク管理になっている側面もある。
あと、アフリカ(とひとくちに言っても広すぎますが)にルーツをもつ方も別のストーリーを持っています。
歴史的に見たら、「ハーフ」の人たちの大多数はいわゆる在日コリアンの人たちですね。「ハーフ」という言葉自体が、60年代に欧米系の親を持つ女性モデルを売り出すために普及させられたという経緯もあって、忘れられがちだけども。
そういう点からも、「ハーフ」であることを他人からどう言われるか、見られるかということの体験は、まったく一様じゃないですね。すごくばらつきがある。
ここで注意しないといけないのは、かと言って自分たち(欧米系のハーフ)と東アジア系のハーフは違うものとして別々のアイデンティティを主張しましょう、ってことではなくて、共通の困りごとについては助け合っていきましょう、って風にしないと。均一性の高い小集団にまとまろうとすると、キリがないから…
「ダブル」「ミックス」「外国につながる子ども」をはじめとして、呼称をめぐる問題もありますし、おそらくやろうと思えばどこまでも問題が細分化してしまう可能性がありますものね。
レイシャライゼーション(人種化)という言葉を使いたいのはそこ。同じハーフでも、共通項と違いがある。でも、どちらも人種化されていることは一緒だよね。このポイントで、「共通の困りごと」に立ち向かうことはできると思います。
裏を返せば、外国にルーツをもっていない「いわゆる日本人と呼ばれる人々」が「日本人にはみんな和の心があって、集団行動ができて、災害の時はちゃんと列に並ぶんです」って思っていることも人種化。
日本人自身の人種化。そして、ナショナルアイデンティティについては、大学や専門学校の授業であえてしっかりと触れるようにしているんだけど、すごく重要だと思ってる。
どういうことかと言うと、人種化は特定のひとだけの問題じゃないということ。そこから完全に逃れらる人はいないんです。
学生の中には「俺は(人種化から)逃れる」って宣言する人もいるし、逃れられることを願っている人もいるけど、完全に自由になることは難しいと思う。
そうですよね。
これだけ気をつけているはずの僕らだって、何かの拍子や周りの雰囲気にのまれて、ぽろっと「人種」とか「血」とか言っちゃうかもしれないし。これこそが罠だと思います。
在日◯世と言われ続ける在日コリアン
こうした話をする際には、個別でしか語れないことはあるし、もうちょっと大きな枠組みで語りたいこともある。話のレイヤー、解像度によって変わってくるものがある。 Twitterとかの議論でも、たまに話のレイヤー違いで話しているから、戦っているようで戦ってすらいない状況が起こっているよね(笑)
解像度、レイヤーの話で思い出したけど、この前在日コリアン5世の患者さんと話してて、気が付いたことがあります。
「阿部先生はフランス人との“ハーフ”でしょ?子どもが生まれてもクオーター。でもその下はもう呼ばれない。でも、僕たち在日は3世でも4世でも、いつまでも言われ続けて、きっと10世になっても言われ続けるんですよね。」って。
同じ話をしていても、解像度が全然違うんです。
あー、なるほど。ハーフって「何世」って言わないもんね。何かのイベントのときに「移民二世」という括りでコメントするように促されて、ちょっと戸惑いを感じたことがあったなぁ。
その話を聞いたときに思ったのは、私たちはものすごく言葉で定義されているということ。言葉が変わると同時に、解像度も変わっていく。言葉が変わることで経験も変わってくるよね。
どの言葉で名乗るのか、呼ばれるのか。
「半分なんでしょ?」「4分の1なんでしょ?」って言われながら「日本人らしさ」をジャッジされる“ハーフ”や“クオーター”の経験。そして、植民地主義に端を発する構造的差別に抵抗するなかで「民族」と「個人」との関係性を模索してきた人々を取り巻く歴史的経緯。※
その言葉を選択する、あるいは、その言葉で呼びかけられる歴史的経緯や問題状況に目を向ける必要がありますよね。
(在日コリアンの人々が)自分たちの居場所を確保することは、自分たちだけでなく、次の世代を意識した取り組みでもあるのですよね。そうする必要があった。
一方、”ハーフ”の子をもつ親御さんに話を聞くと、「片方の親の言葉をどう伝えていくか」って話を聞くことがありますが、そのときに想定されている「次の世代」に、絶妙な違いがあるようにも思いますが、それはやはり、構造的差別のありようの差異でもあるわけですよね。
“何世”って呼ばれる人、“ハーフ”と呼ばれる人、みんな個別に違う経験をしていて、それを包括して人種化(レイシャライゼーション)って言葉で把握しようと試みるときに、構造的差別や歴史的経緯に注意しながら、共通性と差異を適切に理解しないといけないですね。
言語によって変わる解像度
解像度に関連して、翻訳の話をするね。この前英語から日本語への翻訳をしていて気づいたんだけど、英語と日本語の人称って、似ているようで違うんだよね。
僕は、日本語と英語とフランス語も少し使うんだけど、英語の「We」を訳すのが難しいと感じているんだ。
日本語の場合、「私」を複数くっつけると「私たち」になるイメージなんだよね。つまり、「私たち」は「私」の複数形。
でも、英語の「We」がそれと同じ概念かというと、なんか違うなあって思ってね。
なるほど、それはたしかに面白いね。
そう、「We」と「私たち」はぜんぜん違うんですよ。
日本語の「私たち」は「私」の複数形だから、英語で言うと「Is(アイズ)」みたいな感じかな。この「私たち」は示す範囲が曖昧なので、何にについて話しているのかが抽象的になってしまうんです。
その話に関連して思い出したけど、震災の時などに顕著になるけど、「私たち」の意味が日本人のことに限定されることがあると思うんです。
「私たち」と言った時に、「そこにいる人、住んでいる人」ではなく、「日本人」を示している。留学生や実習生、駐在員などなど、日本に住む多くの外国人や外国にルーツを持つ人々もともにあの震災を経験していたはずなんですが…。
そういえば、英語だと「American(アメリカン)」って言葉は、「アメリカ国籍の人」っていう意味だけでなく、「アメリカに住んでいる人」っていう意味もあるんですよね。
「Londoner(ロンドナー)」って言葉もありますが、ロンドンに住んでいる人という意味です。ロンドン国籍なんてものはないですしね。
英語の「American」って言葉を見せると、99%くらいの学生が「アメリカ人」と訳す。
逆に「日本人」って言葉を英語に訳した「Japanese」って単語には、「日本国籍の人」に加えて「日本に住んでいる人」っていう意味も含まれることになる。でも、もともとの「日本人」には「(外国籍の人を含む)日本に住んでいる人」っていう意味はないよね。
言語によって解像度はぜんぜん違ってくるし、それによって、私たちの考えは結構制約されているってことですね。
日本人、国民、市民…言葉の使い方がどんな影響を与える?
日本語だと、国籍を持っている人の話をしているのか、そうでないのかが明確な言葉が多い。「日本国民」とか「国民の権利」って言葉は使われがちだけど、その場合日本国籍がない人は疎外されちゃう。
一時期、民主党政権の時ですが、公的文書には基本的に「市民」という言葉を使おうとしたことがあります。
相当意識してますね。
そうだね。今でもリベラルな自治体であれば、声明文とかに「市民」という言葉を使うんですよ。
僕は名古屋生まれなんですが、名古屋では行政の書類上で、「外国人住人」の定義に「外国にルーツを持つ人」というのを入れたんです。※
たとえ日本国籍を持っていても、外国にルーツがある人は日本人ではないんだって。「僕、今も名古屋に住んでたら日本人じゃないんだなー」と思いました。
このあたりの言葉のチョイスは、もうセンスに任せるだけじゃダメだよね。市民とか住民とか国民って言葉の指す範囲はそれぞれ違って難しいんだけど、上手い言葉の使い方とか、言葉によって自分の言動が拘束されていることに気づかないといけない。
例えば“クオーター”の子がいたとして、その子を「クオーター」と呼ぶか「外国人児童」と呼ぶか、「日本人」か「外国にルーツをもつ子ども」か。どれが正解かなんてないんですけど、あなたがどの言葉を選ぶかによって、その子どもに与える影響がある。
この子どもの自己認識、自分のことを外国人と思うか、日本人と思うかに、あなたの言葉が影響するということを忘れないでほしいんですよね。
次回の記事に
つづく!
チャーリーのひとこと
言葉は、本当に不思議です。
私たちは言葉を使って考えたりコミュニケーションをとっているけれど、使っている言葉の定義に、思考が制限されてしまうこともあると思います。
ある特定の環境や立場の人を想定してデザインされた言葉は、知らぬ間に人を傷つけ、排除しているかもしれない…。
そのことに、意識的でありたいですね。