【最終回】ハーフ学者ふたりが語る、ニッポンのレイシズム 第4回
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第4回(最終回)。
“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話ししてきたこの連載。最終回の今回は、イベント終盤に行われた参加者からの質疑応答の場面の様子をお伝えします。
プロフィール
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阿部 大樹 精神科医・翻訳家 -
精神科医。医師として臨床に携わる傍ら、翻訳家としても活躍。
2019年に刊行した初の翻訳書「精神病理学私記」(日本評論社)が日本翻訳大賞を受賞。同書は現代精神医療の基礎を築いたアメリカの精神科医H・S・サリヴァンが生前に書き下ろした唯一の著作で、サリヴァン自身の性指向とアルコール耽溺を参照軸としつつ、スキゾフレニア、パラノイア、そして同性愛などを語る内容となっている。
また、翌2020年に出版した2冊目の訳書「レイシズム」(講談社学術文庫)は、日本人論の古典「菊と刀」でも知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「RACE AND RACISM」の新訳書。1940年に発表され、「レイシズム」という言葉が広く知らるキッカケとなった本作を、多くの人に読んでもらえるよう平易な言葉で新たに訳し下ろした。
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ケイン
樹里安 社会学者 -
社会学者・大阪市立大学 都市文化研究センター 研究員。主たる研究テーマは「ハーフ」と「よさこい踊り」。
2019年に出版した「ふれる社会学」(北樹出版)は、メディア、家族、労働、余暇、ジェンダー、セクシュアリティ、差別、人種などの視点から、身近でエッジのきいた14のテーマを読み解くことを通して、社会の大きな仕組みにふれる入門書。飯テロやスニーカーといった題材から、日本初「ハーフ」の章がある社会学の入門書としても注目されている。刊行後、たちまち4刷。
た・い・だ・ん
スタート!
“ハーフ”=美しい?
私が個人的に気になっているのは、“ハーフ”という言葉がもつ「美しい」「デキる」「かっこいい」というようなポジティブな意味合いについてです。
以前読んだある本に「(絶対的な)美しさなんて存在しない」と書かれていて、自分も共感ししたのですが、一方でハーフの人に対して「美しい」と感じる感覚が自分の中にあることも事実です。美しいと感じているのか、感じさせられているのかわかりませんが…。
これって「ルッキズム※」にも繋がると思うんですが、こうしたポジティブな思い込みについてお二人の考えを聞きたいです。
理想の身体ってありますよね。ある種の理想の体形とか、顔とか。今日僕はヒゲを剃ってここに来たわけですが、それは僕自身が「ヒゲがないほうがマシだ」と思っているから、剃ってきたんですよね。
「美の神話」という言葉もありますが、今の自分が持っている美の感覚って、急にポッと出てきたものではありませんよね。全員に共通にシェアされているものでもない。この社会で暮らすなかで、いつのまにやら自分が身に着けた価値観なんです。
例えば「平安美人って、今の日本の美人の基準と一緒?」って考えてみるとわかりやすいかもしれません。美しさの基準は常に変容しているし、社会的に作られるものなんです。
「美しさはない」って言葉の裏にあるものはそれで、自分が囚われている美しさは、社会的に構築されたものだってこと。
この「美しい」というのはただ作られるだけじゃなく、人間には「かっこいい」だったり「かわいい」って言われたい欲望があるじゃないですか。なんだかんだそう言われると嬉しい。でも「美しい」とされるものは常に変遷してきたんです。
現在は、ハーフモデルやハーフアイドルが「容姿端麗な欧米白人系」の美しさと結びつけられた構造が、残存している状況です。
90年代と2000年代に、ハーフモデルブームが2回あったんですけど、その度に白人系と結びつけられた美の基準がリマインドされました。
でも、一方で「オルチャンメイク」が流行ったりと、美の基準はいくつかあって、どれも何度か流行となってリマインドされるんです。
そうした美の基準に人種が重なっているのが「ハーフブーム」と言えますね。
“ハーフ”って言葉が流行った頃、あるモデル事務所に所属しようとした日系ブラジル人の女性が「ブラジルハーフ」として名乗るように促された経緯について書かれた論考があります。「日系」って言葉を使うと、労働者のイメージがつくから、「ハーフ」って言葉を使え、と。言葉の使い方でも、美しさは構築されるんです。
大学で授業をしていても、さんざん“ハーフ”について話したのに「それでもハーフになりたいです」って言う人もいるんです。その時は「君がなりたいハーフってだあれ?」って聞くようにしてるんですけどね。
理屈で分かっていても、ルッキズムに向かってしまう自分の欲望と、どう向き合うのかは、難しいところです。重要なのは、美の神話性を知ることで、自分の思っている以外の美しさもあり得るという余白に気づくこと。
そうした些細かもしれないけれど、重要なポイントに気がついて、声をあげることが大切なのではないかと思います。
「日本は同質的な社会」という神話
日本って同調圧力が強いですよね。ハーフ論が成り立つのは、日本だからだと思います。アメリカだとそれほど成り立ちにくいと思うんです。移民社会ですし、“ハーフ”ばかりです。それに比べると、日本は同質性が高いと思います。
うなずきがたいところもありますが…。
空気を読むことが大事な社会で、周りに合わせないと生きていけない。こうした風潮が一番の問題なのではないでしょうか。
まず、日本が同質的な社会だというのは「神話」だと思っています。
例えば「日本人は無宗教だよね」というのは、そうでない人たちは弾圧され、殺されてきたからです。キリスト教徒を厳しく取り締まっていた時代もありますし。
一方で、文化庁の宗教統計調査の結果をみると、さまざまな宗教の信者数の合計が日本の総人口を上回る※という大変興味深いデータもありまして、僕たちの思い描いている「日本人イメージ」はけっこう根拠があやしかったりします。
また「日本人が集団主義的だ」というのも、立ち止まる必要があるように思います。
これだけ自己責任論が人気を博して、異議申し立てや助け合いの芽を摘もうとしてしまう言説があふれていることをどう考えればよいか…とは思いますが(笑)
では、アメリカで「ハーフ論」なるものがあるかというと、Mixed Race Study(ミクスド・レイス・スタディ)というものがあります。
ハワイ語では「半分」という意味のHapa(ハパ)という言葉も使われます。
ハーフに類する言葉があるのは、日本だけではないんです。
ちなみに日本には「ハーフ論」はありません。なぜないかというと、それだけ無視され続けてきたということです。ないからこそ、あえて「ハーフ・スタディーズ」という看板を掲げてもよいとは思いますが、挑戦的に受け取られるように思います。めげずにやろうとは思いますが(笑)
歴史を遡れば、織田信長に仕えたアフリカ系の侍・弥助だっていました。いつの時代にも、多様なルーツをもつ人々はいたのに、「同質的だ」という言葉で抑え込んで、歴史を作り変えてきているんです。この同調圧力的なものは、日本社会の根本にあるものではなく、前提にあるものでもありません。それを維持させようとする力がどう働いているのか、注目する必要があります。「均質的な日本」と言った時に、在日コリアンの差別の歴史とか、沖縄の地政学的なものを消し去っているような気がするんです。
均質的じゃないけど、均質にしようとしてきた社会なんだってことなんですよね。
そしてそれは、日本だけに言えることなんですかね?
同質性が高いのは人間、人類そのものだと思います。千年前の人類も、二千年後の人類も、大きく変わらない。
均質性を求めるのが人類だとしたら、それをどのように乗り越えるのかを考えないといけないね。
均質的な社会だからどうのこうのって話ではなくて、放っておくと人間の間では同調圧力が働くのではないでしょうか。その同調圧力が悪いほうに働けば、差別やレイシズムになる。
社会学が生まれたのは、都市ができてからなんです。都市化するなかで、人間関係やパーソナリティが変わってきたことへの気づきがきっかけで生まれた学問です。
都市よりも小規模の村だったら、特定のスペースで人に会ったら「おはよう」って言っていたのに、ある一定の規模以上になる(都市化する)としなくなる。規模が大きすぎると同調圧力が働かなくなります。
同調圧力が働かない大きな規模の社会をむりやりまとめようとすると、数々の規律訓練を入れたりしないといけなくなるんです。戦時中の日本がさまざまなメディアを介して「日本らしさ」を喧伝したり、暴力によって市民を弾圧していたことがわかりやすい例かもしれません。
そういう意味で、“同質性の高い日本”は、人為的に作られていると思う。
日本以外の所でも、条件がそろえば同じことが言えるよね。
同じ失敗を繰り返すのはクールじゃないし、私たちは歴史から学ぶ必要があると思うな。
人を傷つける余計な行為をやめよう
年齢のことを聞くことについては「そんなこと聞いたら失礼かな」と配慮するのに、“ハーフ”や海外にルーツを持つ人に対しては、そのルーツに関してストレートに質問をすることがあるなと思いつつ、その間にあるものは何だろうと考えていました。
配慮できるのかできないのか、その違いを生むのは個人なのか、その環境なのか…。うまく言葉にできませんが、ずっとモヤモヤしています。
多分、構造としてはシンプルだと思う。
「え、ハーフなの?」って初対面で聞く人は、“ハーフ”であることを売りにしているタレント、たとえばベッキーとかウエンツ瑛士とか、そういうイメージがあって、基本的には「良いこと」だと捉えているんだよね。基本的にはこれが原因だと思う。“ハーフ”はかっこいいと思っていることがポイント。
でもその一方で、言われる方の当事者は、「いやそんな単純な話じゃないんだよ」と思ってる。ハーフって言っても色々あるからね。
社会的に「ハーフってかっこいい」と思っていることと、当事者の認識に乖離がある。その対立だと思う。
そうだね。
アメリカで、セクハラって概念が生まれるきっかけになった裁判があったんだけど、実は同時に「レイシャルハラスメント(人種的偏見に基づく嫌がらせ)」という言葉も定義づけられているんです。レイハラですよね。でも、日本ではセクハラはよく聞いても、レイハラは流行らない。
人種に関して聞くことも、ハラスメントなんです。
まあ、そもそも英語のハラスメントの概念って、日本語のそれとちょっと違うところもあるんですけどね。日本語だと「ちょっとやなことを言う」くらいに変換されちゃっているけど、実際は、ハラスメントは差別の一形態であって、重みが全然異なります。
「唐突に年齢って聞きづらいな」って思う感覚は、数十年かけてゆっくり醸成されてきたものだと思いますが、時間をかけて作られた感覚を無視して、配慮せずズケズケ聞いてくるのは「古い」ことになる。
ルーツについて聞くことに対する感覚も、同じように時間がかかることかもしれない。でも、だからこそ当事者が「やめて!」ってしっかりと伝えていくべきなんだろうね。
とにかく今はまだ、そうした質問をすることが良くないよね、って常識が浸透していない。
「ハーフなんですか?」って質問も“聞いて相手をいい気持ちにさせるフレーズ”の一つとして認識されているんだよね。美的基準とくっついてしまっている。
「スタイルいいですね」って言う位のつもりでいる人が多いですね。
そういえば、ハラスメントといえば、ある芸能人が「きれいになったと言ったらセクハラになるし、ブスになったと言えばパワハラになるし、どうすりゃいいんだよ」と言って、隣にいた芸人が「どっちも言う必要ないですから」って言ったってネットニュースになっていたよね。
言葉を失ったのではなく、人を傷つける可能性のある余計な行為を辞めようってことなんです。
当事者の視点から、言葉を生み出すこと
ケインさんは“ハーフ”や海外ルーツを持つ人々に焦点を当てたwebメディア「ハーフトーク」
マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』という本を読んで、強烈に印象に残っている言葉があります。「再帰的無能感」という言葉です。
現代の人は「何をやってもダメなんだ」っていう経験をしすぎているというものです。
大学で授業をしても、そうした学生によく出会います。
僕はよく「社会を変えようぜ」っていうんですが(笑)、それに対してある学生が「今までそんなこと、真面目に言われたことなかったかも」と言ったんです。それを聞いたときに、(再帰的無能感について)分からなくもないなぁと思ったんです。
「今どきの若者は…」と言われ続けているし、学費稼ぐためにバイトしまくったり、就活で学生生活にかける時間を切り詰められたりと、何かと忙しいですし。何か身近な困ったことに体当たりする余裕もなくて、諦めざるをえない状況にいる人が多いのかもしれません。
「若者は政治に関心がない」と言われているけど、その理由は再帰的無能感を何度も何度も味わっているからだと思うんです。
少し前に「さとり世代」なんて言い方がありましたが、なんかその言葉がしっくりきちゃっているんですよね。本人たちも、自分で「さとり世代」って言ってますよ。
でも興味深いのは、そんな悟っている彼らでも就活はする。流れに逆らうことはせず、髪を黒く染めて、ハラスメントに耐えて。
再帰的無能感の「無能」とはつまり、能力をはく奪されているという意味です。何度も繰り返される中で、悟らされている、つまり牙を抜かれているのだと思います。だけど、牙がないと生き延びることはできない。
「最近の若者は・・・」なんて言ってる大人たちこそ、実は若者の牙を抜いているのかもしれないし、反対に、若者にばかりしっかりと牙をむくよう促して、自分たちはちゃっかりほどほどに生きているのかもしれない。
再帰的無能感を唱えたフィッシャー自身は、最後は自ら命を絶ちました。再帰的無能感の分析のなかで、憂慮の果ての選択なのかもしれません。
それにしても、「再帰的無能感」って秀逸な名前ですよね。
名前を付けることって実は重要。なぜなら人間は、名前がないと認知できないからです。
例えば「セクハラ」って言葉も、名前が付けられる前は、被害を受けているのに、沈黙せざるをえなかったりしたわけです。名前がつくことで、社会的に認知された。
言葉を使って、普及させる。地道だけど身近なところから、行動していく必要があります。私たちは、革命を起こさないといけないんです。
僕ら研究者は特権を持っていて、何かとマイクを握ることが多いんです。そのため、言葉を作って引用したり、流通させることができます。
僕が「ハーフトーク」ってメディアを作ったのも、そうした意味合いがあります。
意識しているのは、これまで注目されていなかったところに、どうやって光を当てて、世の中に流通させるか。
自分自身で言葉をひねり出すことも大切ですが、それと同じくらい、むしろそれ以上に、誰かの耳を傾けられるべき言葉を、ほかの誰かに手渡すきっかけをつくりたいとも思っています。
みんなで団結して社会に働きかける。しんどいことはしんどいって、言える社会にしたいですよね。当事者の視点から、言葉を生み出すこと。メディアを作ったり、メディアに出演するのはこうした意味があると思っています。
ここから
あとがき
あとがき
4回にわたってお送りしてきた「ニッポンのレイシズム」、いかがでしたか?
日本社会にはびこるレイシズム(人種主義)を、“ハーフ”という当事者性を持つ2人の研究者が丁寧に見える化してくれた今回の対談。この社会で意識的にも無意識的にも差別されている人々に思いを巡らすと同時に、「日本人とは何か」という単純だけれど、答えのない問いを突きつけられたという人も多いのではないでしょうか。
近年、日本では少しずつ、でも着実にレイシズムが社会を蝕み続けてきました。
ネット上では中国・韓国人に対する差別発言が横行し、本屋には大量の嫌中・嫌韓本が並び、過去の日本において行われた朝鮮人虐殺などの負の歴史を否定する「歴史修正主義」が跋扈し、新大久保や川崎をはじめ全国各地で在日コリアンなどに対するヘイトスピーチが路上に溢れ、2020年の東京都知事選ではそのヘイトスピーチデモを先導してきた人物が大量得票しました。
「どうして日本はこんなにギスギスした、憎悪に満ちた社会になってしまったんだろう?」
私がいつも感じていた疑問を解くヒントは、最終回の最後のセクション「再帰的無能感」に関する話の中に隠れていたように思います。
ここ数十年、経済的にも文化的にも衰退を続ける日本はまさに「何をやってもダメ」で、日本人はとことんまで再帰的無能感を味わってきた。そうして牙を抜かれた状況でも、「生きていくために牙を向け」という圧力がかかる。それはときに「愛国心」だとか「自己責任」なんて言葉に現れるのかもしれません。
そして、抜かれた牙をなんとか取り戻そうとする反応が、同じ日本社会で暮らす人々を排除することで自分の正当性や優越性を確認する人種差別につながっているように感じます。
果たして、私たち「日本人」は「人種」という幻の枠組みにすがり(詳しくは阿部さんの訳著「レイシズム」をお読みください)、その枠組から外れた人を排除することでしか自らを定義できないのでしょうか?
そしてもう一つ、この対談を経て感じたことは、レイシズム(人種主義)という悪魔は、突然現れたわけではなく、これまでもずーっと私たちの心の中に巣食ってきたということです。
かつて関東大震災(1923年)の直後、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」などというデマを信じ込んで、民間人が中国人や朝鮮人を虐殺して回った同じ東京の路上で、100年後に在日コリアンに向けてヘイトスピーチが垂れ流されている様子を見るにつけ、私は日本社会に潜む差別意識の根深さを痛切に感じながらも、どこかで「私は違う」という思いを持っていました。
しかし今回、海外ルーツを持つ当事者である阿部さん、ケインさんのお二人が語る「日常の中の差別」に関する話の数々は、私たち一人ひとりが社会の中で植え付けられた差別意識を心の奥底で醸成し続けていることにどれほど無自覚かということに、あらためて気づかせてくれるとともに、誰もその罠から逃れることはできないのだと強く感じました。
対談の最後にケインさんは、再帰的無能感を乗り越え社会変革を諦めないために「当事者の語り」が必要だと言います。では、マジョリティの側にいる人々に求められているものはなんなのでしょう?
私は、当事者の語りに耳を傾けるとともに、その中に見えてくる「日本人=私たち」のあるがままの姿にきちんと向き合い、これからの私たちがどのようにあるべきなのかを自ら考え、だれかと議論を始めることではありませんか?
「レイシズム」の罠からは誰も逃れられないということは、言い換えれば、私たちみんなが語るべき当事者でもあるということなのですから。