めぐみのひとつぶ vol.2「自然食を伝え続けた、茶色い母の味」
こんにちは。関根愛(めぐみ)です。
朝干した洗濯物が昼前には乾いたり、素足で踏む床の冷たさが心地良く感じたりするようになりました。初夏の陽気を感じる頃ですね。
さて、明日は母の日。
私にとって母という存在は、ちょっと一筋縄ではいかない(?)人。
ひとことで表すのはとてもむずかしい。
私を自然食で育て、また自然食を教えてくれた人でもあります。
今日はそんな母についてお話します。
ひとんちの食卓が羨ましい
私のきょうだいは重度の食物アレルギーでした。幼い頃から肉や乳製品、卵、小麦など代表的なアレルゲンのみならず、主食である米さえ食べられませんでした。
毎日の食事に相当気を配らなければならなかった我が家において、素朴な自然食はその根幹をなすものでした。
食卓には質のよい野菜で作られた、味のうすい地味なおかずが並ぶ日々。
友達の話に出てくる「ハンバーグ、ウインナー、唐揚げ、餃子、焼肉」の出番はありません。
レストランでの外食や出前も一切なし。
「また昨日も回転寿司だった」「また出前ピザだった」とごねる友達に、「いいじゃん、贅沢じゃん」と内心すねていました。
よその食卓の様子を聞くたび「美味しいんだろうな、食べてみたいな」と悔しくて、羨ましくてたまりません。当然、母の料理に感謝をすることはありませんでした。
幼かった当時、「何かの罰ゲームの最中なんだ」と自分に暗示をかけるくらい、ただただ家の地味な食事が嫌でした。
母は我が子のアトピー治癒のために、とにかく抜け目なく、必死にがんばっていました。その必死さもまた私にとってはつらかったのです。
そんな母も、たまにふたりきりで地元のデパートに行くと「あの子には内緒ね」と言ってお茶屋さんの抹茶ソフトクリームを買ってくれました。
罪悪感から心いっぱい味わえず、親子ふたり妙な気持ちでアイスクリームを食べていたのを覚えています。
広がる母との距離
地味な自然食への不満が募るとともに、アトピーに苦しむきょうだいと健康でなんの不自由もない自分をしょっちゅう比べられることがきっかけで、いつの間にか私は母とあらゆる面で対立するようになっていきました。
手がかかるけどお利口なきょうだいとは対照的に、生意気で意見の合わない私に対して、母は厳しく、素っ気なく接することが多く思えたのです。
鮮明に覚えているエピソードがあります。
私が小学校高学年の頃、バラエティ番組で「友だち親子」が流行っていました。
親子だけど友達のようにおそろいの格好をしたり、腕を組んで買い物に行ってはしゃいだり、恋バナをしたりする、とても親密な親子のことです。
うちにはありえないスタイルだと遠く感じる反面、羨ましくもありました。
とくに恋の話をざっくばらんする親子の姿に新鮮な衝撃を受け、こんなふうにあれたら気が楽でいいなと思っていたのです。
ある日、母の気を引きたくて思わず「いいなあ。たのしそう」とつぶやいてしまいました。少し離れたところで聞いていた母がつぶやき返した言葉は、
「やだこんなの、きもちわるい。お母さんは絶対ごめんだね」
普段感情を押し殺しがちな母が、きれいに感情を込めて吐き捨てるように言ったとき、私はまずゾッとし、それからしばらくして心の中に北風が吹き、とても淋しくなりました。
私という存在を拒否されたのだと思い、母と親密になることは一生ないのだなと確信した瞬間でした。
お弁当コンプレックスの幕開け
中学になってお弁当が始まると、私の「お弁当コンプレックス」が始まります。
だれもが楽しみにしていたランチタイム。嬉々としてお弁当のふたをあけていく皆を横目に気分が沈む私。
ミートソーススパゲッティに、はちきれそうな肉団子。発色のいいウインナーに、つやつやの卵焼き。「また昨日の残り物」と嘆く友人を尻目に「いやなら私の地味弁と交換してくれ」と内心よだれを垂らす私。でも、お弁当を見せるのが恥ずかしくて言えません。
無邪気な友人に「今日のおかずなに?」とお弁当箱をのぞきこまれることが恐怖で、ふたを盾のように立てて中身を隠し、周りから見えないようにコソコソ食べてランチタイムをやりすごしていました。
人とちがうお弁当なんて恥ずかしい。
見渡す限り、どのお弁当にも茶色く染みた大根の煮物なんて入ってない。
切干大根なんておばあちゃんの食べもの(と思っていた)も、もちろんない。
ゴボウなんて木の枝みたいな姿のものが見当たるわけがない。
なぜ、私のには入っているの。
なぜ、私のお弁当はいつも茶色いの。
皆のお弁当から食欲をそそるにおいが教室いっぱいに広がるのに、私のお弁当からはなんだか古くさい、しみったれた匂いがする。
お弁当を入れている通学かばんの中にも同じ匂いがしみついている。
帰宅後、一生懸命ファブリーズしているのに。
高校生になっても「お弁当コンプレックス」は続きました。
「めぐのお弁当ってさ、なんか茶色いよね」
友人が天真爛漫に言ったひとことがハイライト。
茶色いお弁当は卒業までの6年間、私を苦しめ続けました。
母はどうしてこんなに頑なに自然食なのか。
どうして皆と同じようなお弁当を作ってくれないのか。
自然なんて嫌いだ。
早く独り立ちして好きに自炊して、思いっきり外食に出かけたりしたい。
そう思い続けていました。
茶色は滋養の色。そして、母の勲章の色
そんな私は親元を離れて上京後、自由自堕落な時を経てアトピーになりました。想像だにしなかったことです。
アトピー発症から数年後、精神的にもうあとがないところまで追い詰められ、藁にもすがる思いで真っ先に頼ったのが母でした。
返ってきたアドバイスは「玄米菜食してみたら」。
毛嫌いしていたあの“茶色い食事”。でも、もう打つ手はありません。進むならその道しかないことはわかっていました。
社会生活もままならなくなっていた私のもとへ、作り置きの地味おかずを詰め込んだタッパーを抱えた母が飛んできました。
「これを食べていればそのうち治るから大丈夫」
すっかり弱り切っていた私は、母の言うことが初めてまっとうに聞こえました。
母の汗が染み付いた20年モノの秘伝の書(東城百合子さんの「自然療法」という本。自然食の基本メニューが沢山載っている)も授かりました。
開くと、茶色い景色が一面に浮かぶ本には、かつてよく食べていたおかずたちが並びます。どれも本当に地味な料理。
ページをパラパラとめくると茶色いシミや折れジワ、消えそうな鉛筆の書き込みがいくつもありました。
昔と違うのは、ひとつも嫌な気持ちがしないこと。
この食生活を続けていけばきっと元気になる。回復する。自分の中のどこかがそう信じていました。
茶色は母の勲章であり、そして滋養の色でもあったのです。
ふりかえれば、ほとんどの時間を台所で過ごした
そして私はみるみる元気になりました。
ひどかった顔のアトピーはすっと消えていきました。
あんなに目の敵にしていた自然食に救われ、しこりのようにぎくしゃくしていた母への思いもしだいに溶けていきました。
まぎれもなく母の自然食に育てられ作られた体を、母を否定するかのように痛めつけ、そしてまた自然食で未来を耕し始めた私。自分が逃れようのないサイクルにいるように感じました。
家族を「無条件にすばらしいものだ」とする“家族神話”は信じないし、自分がこの先家族を持つかどうかも分からない。でも、同じ家で同じものを食べて生きてきたもの同士の妙な縁はあるのかもしれないと、今では思います。
そして、ないものねだりを繰り返した先で、本当に必要なものをふたたび教えてくれた母に、心から感謝しています。
外出自粛期間が続く中、スマホに慣れてきた母からよく日常の写真が送られてきます。
その中の一枚に、こんなメッセージが添えられていました。
「台所で過ごす時間が多かった母にとって、ふっと息を抜いて流しから振り返って見るこの景色は、本当に幸せな瞬間だった」
誇りを持っていたであろう通訳という仕事を辞め、子どもの健康を守るため子育てに専念した母。その中心にあったのが自然食であり、母の居場所はいつも台所でした。
想像を超える思いで台所にたち続け、家族の健康を守ってきた母も、四捨五入すれば古希にさしかかります。
怒涛の日々を過ごした台所から振り返って見た景色を「至福」だと言い切るように、いつか人生を振り返る時もまた同じ気持ちであることを願っています。
関根 愛(せきね めぐみ)
「アートがどう社会と関われるか」と「じぶんらしく生きるための食養生」が活動のテーマ。座右の銘は「山動く」。俳優歴10年、アトピーによる自然食を始めてもうすぐ3年。台東区のコレクティブRYUSEN112のメンバー。
Youtubeチャンネル:めぐみのひとつぶ -体と心を癒す自然食-
note:せきねめぐみの食養生コラム
Instagram:megumi___sekine