“神さま”を利用した支配。〜わたしが生まれた教会の話〜
こんにちは。初めて記事を書かせていただきます「遠山公子」と申します。
「牧師」という言葉から、皆さんは何を思い浮かべますか?にこにこした優しそうな人、威厳のある人、すごく真面目な人…。
では、「牧師の子ども」については考えたことがあるでしょうか?立派な子、愛情をたくさん注がれて幸せに育っている子…、そんなイメージをお持ちでしょうか。
私は小さな教会の牧師のもとに生まれ、自然と神様を信じるようになっていました。
でも両親からは、様々な虐待を受けていました。
「牧師が虐待なんてするの?」そんなふうに思う方もいるかもしれません。
牧師というのは、プレッシャーを感じたりして、それなりに多くのストレスを抱えることがある職業なのです。そうしてストレスを感じた牧師が、信徒や自らの子どもに支配的、暴力的になることがあるのです。
体罰、心理的虐待…最も許せないのは、父からのセクハラでした。
父には9歳の時、胸がふくらんできたことをからかわれました。その後も、同じような発言をしたり、私のことでデリケートな話になると口を押さえて笑う、目で追ってくる、しつこく写真を撮ってくるなど、嫌らしく感じられることがたくさんありました。
元々体罰を受けていたこともあり、怒られると嫌なので、父の言動に対して「嫌だ」とはっきり言うことができませんでした。
そして、無言で父のことを避けるようになり、そのことで父にも母にも叱られ続けました。
母は同じ女性として私の気持ちを全く理解しないどころか、私に対して「変な興味はない」という父の言葉を無条件に信じ、父と私との関わりを強引に促し続けました。
父は私にアイコンタクトや「普通に」しゃべること、笑顔を見せることまで執拗に求め続けてきました。
父の視線や態度に支配欲や威圧感などが感じられ、むやみに見られたり話しかけられたりするのも、私にとっては体を触られるのと同じようなものでした。
両親は、そもそもセクハラだとは全く自覚しておらず、親としての愛情をもっての行動だと思い込んでいます。
私の認識がおかしいと言うばかりで、「悪い霊が(私の中に)いる」「正しい信仰を持て」などと何度も言われ、教会内で私の振る舞いを笑いの種にすることもありました。
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うちの家族は、表向きには男女平等を唱えつつ、男尊女卑がとても根強く残っています。
家でも教会でも事実上父が頂点に立ち、父の上に立って父を諭したりする人がいません。
天の神様を礼拝するはずの場所で、父が神様になってしまっていると言っても過言ではありませんでした。
私は、家の中でも教会でも、ボロボロに傷つけられていました。
一方で、教会に来る人たちが次々と結婚し自分の家庭を築き、みんなにちやほやされて幸せそうにしているのを見てきました。
「私はいつまでこの家で耐えてなきゃいけないのか。私だって早くここを出て新しい世界で生きていきたい、自分の家庭を持ちたい…」そんな私の心境になんて、誰も見向きもしませんでした。
親からは食べ物やお金は十分に与えられてきたし、お出かけに連れていってもらったり、おもちゃを買ってもらったりしてきました。私が黙っている限り、外から見れば「健全な家庭」「恵まれた家庭」に他ならなかったでしょう。
虐待やセクハラに抗議する私に対して、両親はこのように私にしてきた「良いこと」を振りかざしてきます。
良いこともたくさんしてくれたのは事実です。
ただ、親がしてくれた良いことに目を向けることで、虐待など間違っていることが隠されたり肯定されたりしてしまうようなことは、絶対にあってはならないと思います。
子どもには体罰が必要だと唱え、「小6までげんこつ」といった恥ずかしいことを週報に書く教会。
家庭の中で理不尽に権力を振るい、周りの家庭で問題が起こっている理由を「妻の方が年上」「親が離婚している」などとして、「両親ともいる」自分の家庭を正当化する父親。
妻に当たり散らし、息子に強くなることを強要し、娘にセクハラして何とも思わない父親。そんな人間が牧師をしている教会に、なぜ喜んで通う人がこんなにもいるのだろう…。
特に辛かったことの一つは、教会に来る方々の何気ない発言でした。
「先生方のお子さんはみんな素晴らしいですね、先生方は立派な子育てをしておられます」
「ご両親がたくさん愛情を注いでおられるのですね」
ほとんどの場合、私が直接それを聞いたのではなく、「誰々がこう言っていた」というのを親自身から聞かされていたのです。
両親は、こうした周りの人の何気ない発言をも、子どもを支配するため利用しているように思われました。
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あまりにもひどいので、名指しでの告発も考えました。 でも、今のところはそのつもりはありません。
まず、この社会に生きるみんなが、加害者の糾弾や非難に走ってほしくはないと思うからです。
隠された問題にきちんと目を向け、みんなで話し合っていける社会になってほしいと思うのです。
それに、小さい頃からお世話になってきた教会の方々が、父が家庭内でしてきたことを聞いてショックを受けたり悲しんだりしている顔を見たくありません。
でも、これまで親の教会を離れていった人たちの中には、この牧師は何かがおかしいと感づいて離れた人もいるのではないかと思います。
私と同じく傷つけられて去っていった人たちもいるかもしれません。
父はそのような都合の悪い人たちに関して「悪魔がついている」などと言っていますが…。
私は自立のために引っ越しをする際、最後に出席した礼拝で、「この教会で受けた恵み」について話をさせられました。そこでも、親からの虐待やセクハラのことは、一切話しませんでした。
本当のことを隠し、綺麗事しか話せないことが、嘘をついているようでものすごく苦しかったです。
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自傷や自殺、繁華街に逃げ込むことなども考えました
でも、それらを実践しようとするにまで至らなかったのは、家の外で私を頼りにしてくれる友達がいたり、小説を書いて自分の世界観を持っていたりしたことがあったからです。
何より、自分のたった一つの体、たった一度の人生は、神様からの大切な贈り物である、神様が必ず助けてくださるという信仰が励みになっていました。
「信仰を持てたのは親のおかげだよね」とお思いになるかもしれません。
もしクリスチャンの交わりが今に至るまで親の教会だけだったら、私はとっくに信仰を捨てていただろうと思います。
大学生になってから、クリスチャンの学生団体に参加するようになり、同年代のクリスチャンの友達がたくさんできました。
「親といざこざがある」と話してはみんなにそのことを祈ってもらい、親からされてきたことを少しずつ詳しく話せるようになっていきました。
教会以外でたくさんのクリスチャンと出会う中で、「神様は体罰やセクハラ、性差別なんて正しいと思わないはずだ。それらのことを正当化しているのはキリスト教ではなく、親たち自身なのだ」ということに気づいていき、神様は私を差別や虐待から必ず救ってくださると信じるようになりました。
クリスチャンをやめるどころか、私はいっそう熱心に神様に助けを求めて祈るようになっていきました。
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私は今、実家から比較的離れたところで大好きな町を見つけ、自立してそこで生活しています。
近くでいい教会が見つかり、そこで虐待の経験について理解してくださる方々と出会っています。
今まで圧し殺されてボロボロにされてきた分、いやその何倍も、幸せになれると信じています。
将来は性差別も虐待もセクハラもない、本当に幸せな家庭を築きたいです。
親のいる実家や教会には、もう二度と足を運びたくありません。
あの教会から差別や暴力がなくなり、誰一人傷つく人がいなくなる日が一日も早く来てほしいと思います。
そして、男女間や親子間の不平等がなくなり、誰もが尊重されてのびのびと生きる社会の実現のため、できる限り尽くしていきたいと思います。
長くて重い内容を、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
同じ傷を抱えている人が、一日も早く苦しみから解放され、癒されますように。必要な助けが与えられて、本当に幸せに生きることができますように。
おわりに
改めましてこんにちは、遠山公子です。
今回書かせていただいた記事については、「宗教」が論点ではなく、無条件に何かを信じること、権威的なものとの関係性やその中に内包される暴力の問題について語りあえるような場所(社会)を作りたいという思いがありました。
何かの宗教を信じている人が少ないと言われる日本。カルトなどの問題はそこそこ知れていても、そうではない、いわゆる「普通」の宗教の中で起きている問題について知る人は非常に少ない。 まして牧師など宗教におけるリーダー的な立場の人の子どもがどのような苦しみを抱えているかということに目を向ける人は、現代日本の中でどのくらいいるでしょうか。
しかし、例えばキリスト教徒は日本では人口の1%と言われています。およそ100万人以上はいるということです。
牧師も、牧師家庭に生まれた子どもも少なからずおり、私と同じような被害を受けている人たちもいると思われます。私は、被害者が10人いれば社会問題だと考えています。
この記事をきっかけに、このような問題や被害者の痛みに目を向ける人が増え、被害当事者が声をあげる勇気を持ち、問題をなくしていきたいという人がつながることができればうれしいです。