小さな物語を観察し、普遍性を描く/若手アーティストのアタマん中_03
若手アーティストのアタマん中とは
こんにちは。チャリツモライターのばんです。
ビジネス界や教育現場で、クリエイティブシンキングやアート思考が話題になって久しいこの頃。
社会的企業やNPOなどいわゆる“ソーシャル”な領域では「ソーシャルエンゲージドアート」というのがHOTなキーワードになっているんだそうです。
チャリツモでも“アートと社会の関係性”について、一度きちんと考えたいなと思っていました。
そんな時にお会いしたのが、今回対談をセッティングさせていただいた2人の若手アーティスト、團上祐志(だんがみ・ゆうし)さんと久保田徹(くぼた・とおる)さん。
次世代のクリエイター育成を目的とした「クマ財団」の奨学生であり、“実践的な創作活動を通して、現代社会に向き合い&訴えかけている”という共通点がある2人。
いまをトキメく2人のアーティストは、現代社会をどんなふうに見ているのでしょう?彼らの対談を通して、見えてくるものを一緒に観察しませんか?
対談者プロフィール
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團上祐志Yushi Dangami
1995年生まれ。株式会社STILLLFE代表取締役、クマ財団二期生。
愛媛県大洲市でベンチャー企業を経営する傍ら、美大生やアーティストとして、3足のわらじを履いて活動。
Web : YUSHI DANGAMI -
久保田徹Toru Kubota
1996年生まれ。ドキュメンタリー監督。クマ財団一期生。慶應義塾大学在学中よりYahoo!やVICEなどのメディアにて映像を制作。ロンドン芸術大学修士課程進学予定。
Web : Toru Kubota
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なぜテレビという媒体を使わないスタイルを選んだの?
フリーランスの映像作家として、ロヒンギャ難民など海外の人々を映像に納めてきた久保田さん。
主な作品発表の場は、インターネット。
久保田さんは、なぜ今の表現のスタイルに落ち着いたのでしょう。
テレビに頼らない、次世代のドキュメンタリーへ
自分がWeb上で作品を発表しているのも、将来こうなっていくんだろうなあ、っていう変化を読んで選択した結果ですね。
日本では、ドキュメンタリーというとテレビ、となりますよね。でも今後は、ウェブ上でドキュメンタリーをみる機会が増えると思います。
いくつか理由が挙げられますが、まず一つは、同じ時間にみんなが同じものを見るっていうスタイルが少なくなっているじゃないですか。今は人々の生き方が多様化していて、必ず夜8時にこれを見る!っていうライフスタイルではなく、オンデマンドで見る時代。
ただ、ライブ配信は別だと思います。
ライブで映すっていう意味において、テレビの役割は残るはず。ニュースの速報性とかは必要です。
他に残る役割としては、ワールドカップとか紅白歌合戦野ような「みんなで観ている感覚」が特に重要なもの。
あとずっと流しっぱなしにしているからこそ、ときどき出てくる「おもしろい!」というもの。そういうセレンディピティ※を供給する媒体としてのテレビは生き残ると思います。
だけど、それ以外はすべてオンデマンドに吸収されると思います。
ちゃんとコンテンツを楽しみたい場合は、オンデマンドの方がいい。
イギリスでは既に、BBCなどのテレビチャンネルはインターネットに繋がっていて、コンテンツを選んで見るスタイルになっています。
ただコンテンツを流すより、観る側が主体的にコンテンツを選ぶので、より鑑賞にコミットするんです。なので、コンテンツを作る側としても、内容をより凝ったものに出来るんです。
日本のテレビのコンテンツは、流し観することが前提に作られているので、同じような説明やテロップを繰り返して、過剰にわかりやすくしていると思います。
これからの映像コンテンツは、オンデマンドに流れていくトレンドになっていくので、従来のテレビのわかりやすさ至上主義では適応出来ないと思います。そうしたトレンドの中で、これからはもっとコンテンツが多様化していくはずです。
ただ、そうすると観る側の趣味嗜好によって、視野が狭まってしまうので、プラットフォーム側がコンテンツを広く取ってくる必要がありますよね。
大きなできごとの中にある、小さな物語を伝えたい
社会問題とかは、大きな物語として伝えられがちですけど、もっと個人の小さな物語に落とし込むと、人は受け入れることが出来るし、視点を向けることができるんです。
インターネット上では、観た人の感想も上がってきます。
いろんなコメントを読んで思うことは、一人の人間をちゃんと描くことが出来た作品に対してはディスる人はあまりいないんです。
移民や難民の話もそう。たぶん、日韓の問題もそうだと思う。大きな話をされると反発する人は多いけれど、等身大の人間の姿を描くことで、人はもっとソフトになれる。そういう作品を作っていきたいです。
ドキュメンタリーの役割は、問題を知ってもらうだけでなく、そこから普遍的なテーマを見いだしてもらうことだと思います。
大きな問題を伝えようとしたとき、ものごとをシンプルにするプロセスが絶対にあるんです。そのプロセスのうちに、そぎ落とされてしまう部分が絶対にあって、そこに光を当てていきたい。
ロヒンギャの例を使ってみると、例えば「ロヒンギャについて何が一番問題だと思うか」って聞かれたら、ミャンマー国民のネグレクト(無関心)、つまり誰も助けようとしないことだと答えます。
なぜ誰も助けないかというと、彼らのロヒンギャに関する事実認識が、国際社会の事実認識と180度違うからだと思います。
ロヒンギャ問題に限らず、国際社会のニュースと国内ニュースの認識が違うことって、結構あると思いますが、それってひとりひとりに責任があることですよね。
「メディアリテラシー」っていうと、簡単に聞こえちゃうんですけど。でも究極には、ロヒンギャ問題は、ミャンマー国民が物事を批判的にとらえられていなかったがために、起こった問題じゃないかと思います。
これって、他の国や問題にも当てはまる普遍的なことで、日本人だってヒトゴトではないと思います。
あと、ミャンマー国民がロヒンギャをネグレクトしている状況で、ロヒンギャを助けているミャンマー人も撮影しました。そこに映し出すことが出来たのは、その人の人間性とか、家族を思う気持ちとか、別の観点の普遍性。
僕はこの社会的普遍性と人間としての普遍性の2つを描くために映像をやっています。
ちなみに、こうした普遍性を描くために、英語で言うオブザべーショナルドキュメンタリースタイルという手法を使って映像をつくっています。このスタイルは英語圏では結構主流で、ナレーションなどを一切入れず、観察的に表現します。
今日本のテレビで放映されているドキュメンタリーでは、だいたいナレーションが入っています。僕はそれによって、被写体の言葉よりもむしろ、作り手の言葉が強く出すぎてしまうことを懸念しています。そうした手法に偏るとストーリーが予定調和的に見えるし、何よりももっと当事者たちの声が前面に出た方がリアリティが出て、心に響くものが出来ると思うんです。
僕自身がドキュメンタリーを撮るときは、当事者たちの言葉だけで作品を創りたいと思っています。
今回感じたこと
一つのことを突き詰めることと、分野横断的な視点をもつこと。
専門分野の視点や言語で固めてしまうのではなく、線引きされていない、世の中の事象をありのままに受け取り、描写することは、言うのは簡単でも、なかなか実現するのは難しいことです。
特に、年をとるにつれ、ある特定の枠組みの中でのみ通じる「当たり前」の中から抜け出すことは、難しくなっていくように感じます。
若者は経験や知識が浅い、と揶揄されがちですが、固定観念が少ない分、物事を素直に受け入れる柔軟さを持っている傾向もあると思います。
しかし、十分な(そもそも何をもって”十分”となるのでしょう?)経験がないと、そうした国際問題にかかわれないのでしょうか?問題を語ってはいけないのでしょうか? それこそが、無関心やとっかかりにくさを助長することになってしまうのかもしれません。