人間の想像力を担う“アート”とそれが“くっつかない”日本/若手アーティストのアタマん中_04
若手アーティストのアタマん中とは
こんにちは。チャリツモライターのばんです。
ビジネス界や教育現場で、クリエイティブシンキングやアート思考が話題になって久しいこの頃。
社会的企業やNPOなどいわゆる“ソーシャル”な領域では「ソーシャルエンゲージドアート」というのがHOTなキーワードになっているんだそうです。
チャリツモでも“アートと社会の関係性”について、一度きちんと考えたいなと思っていました。
そんな時にお会いしたのが、今回対談をセッティングさせていただいた2人の若手アーティスト、團上祐志(だんがみ・ゆうし)さんと久保田徹(くぼた・とおる)さん。
次世代のクリエイター育成を目的とした「クマ財団」の奨学生であり、“実践的な創作活動を通して、現代社会に向き合い&訴えかけている”という共通点がある2人。
いまをトキメく2人のアーティストは、現代社会をどんなふうに見ているのでしょう?彼らの対談を通して、見えてくるものを一緒に観察しませんか?
対談者プロフィール
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團上祐志Yushi Dangami
1995年生まれ。株式会社STILLLFE代表取締役、クマ財団二期生。
愛媛県大洲市でベンチャー企業を経営する傍ら、美大生やアーティストとして、3足のわらじを履いて活動。
Web : YUSHI DANGAMI -
久保田徹Toru Kubota
1996年生まれ。ドキュメンタリー監督。クマ財団一期生。慶應義塾大学在学中よりYahoo!やVICEなどのメディアにて映像を制作。ロンドン芸術大学修士課程進学予定。
Web : Toru Kubota
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アートって社会に必要ですか?
アートってなんとなくよくわからない。
絵や写真、音楽や演劇など、いろんなものがあるけれど、アートの意義ってなんなんでしょう。アーティストはなんのためにいるんだろう。
そんな疑問を、率直にぶつけてみました。
人間の想像力を背負う“アーティスト”
アートが社会にどんな影響を及ぼすか、というポイントですが、これは正直難しい。アートと社会はいまだ交わることなく、2層のレイヤーに分かれてしまっているんです。
まず一般的な話として、アートが社会にもたらすものは創造性と独創性です。
アートは、今までなかった価値観とか、人間の可能性を提示するチカラをもっています。つまり、アーティストは人間の想像力を背負っているんです。
お医者さんは人の命を背負っていますよね。だからお医者さんが適当な仕事をすれば、人の命は死んでしまうし、アーティストが適当な仕事をすると、人間の想像力を失わせてしまう。
想像力が欠如すると、戦争の引き金になります。その想像力を創ることが、アーティストの仕事なんですね。
しかし、今はあえて「ソーシャルエンゲージメントアート」※って言わないといけないくらい、アートと社会は結びつきにくくなっていますよね。
でも、ところ変われば、アートと投資、アートと教育が結びついていて、学問の中で体系づけられ、社会の中でしっかりと機能している国もあります。アートと社会が結びついているんです。
でも…それは、なかなか日本では難しいと思います。
日本語の“アート”が意味するものとは
このアートと社会が交わらない問題って、実は日本社会特有だと言ってかまわないと思います。そもそもアルファベットの「ART」は日本に接着していませんから。
なぜ日本でアートが社会に結びつかないかという話ですが、まず、根本的にキリスト教・資本主義・アート、そしてマネーという概念は、日本に“くっつかない”と思っています。
日本では未だに多くの人が「アートは特殊なもので社会とくっつかない」と思っている人が多いことと「お金が生活から切り離されている」ととらえる人が多いことは同じだと思います。どういうことかというと、アートもお金も、社会とは別のところにある“よそ者”だととらえる傾向があるんです。
でも実際はそうではなくて、生活のインフラとしてちゃんと社会の中にあるものです。おそらくこうしたものは、東洋的な価値観から外れてしまっているのでしょう。
そうした言葉(資本主義やアート)が輸入されてから150年経った今も、日本社会に接着しているようで、していない。ドラえもんみたいに、遠くから見るとくっついてるけど、近くで見ると浮いている感じ。ドラえもんって、体がものすごく重いので、実は微妙に地面から浮いている※んですよね。
それと似たように、“言葉はあるけど本当の意味が浸透していないもの”でいうと、「社会」という言葉もそうだと言われてます。
最近「世間学」についての本を読んでいたら、「社会」っていう言葉は、日本語に存在するけど、実は概念として日本に接着していないと書かれていて、なるほどと思いました。
「社会」という言葉が翻訳されたのは、明治時代。社会は、個人を基盤とする共同体で、日本には存在しなかった概念です。
もともと日本にあったのは「世間」であり、それはもっとゆるやかな共同体。そしてその世間の中には、個人ではなく「家」があるんです。
欧州での「家」というと、個人があって、個人のプライベートを守る場所として「家」がある。そして、個人に対するものとしてパブリックソサイエティ(=社会)がある、という概念が成立しています。
一方、日本にはそれがいびつな形で導入されてしまって、日本人が「社会」だと思っているものは、実は「家」の出先機関のような共同体、「世間」だって書いてあったんです。
芸能人なんかが不祥事を起こした際には、我々が「社会」だと思っていたものの化けの皮が剥がれて、「世間」が出てくる。
「世間」に謝罪することは、家制度を中心とした巨大な村社会が存在していることの証拠なんですね。
今回感じたこと
明治時代の偉人たちが訳した数々の外来語たち。
もともと日本社会になかった概念なわけなので、日本に「しっくりこない」ものも多いというのは納得感のあるお話です。
「ある」けど「ない」というのはなんだか不思議な感覚です。