「美しい社会」とは/若手アーティストのアタマん中_06

若手アーティストのアタマん中とは
こんにちは。チャリツモライターのばんです。
ビジネス界や教育現場で、クリエイティブシンキングやアート思考が話題になって久しいこの頃。
社会的企業やNPOなどいわゆる“ソーシャル”な領域では「ソーシャルエンゲージドアート」というのがHOTなキーワードになっているんだそうです。
チャリツモでも“アートと社会の関係性”について、一度きちんと考えたいなと思っていました。
そんな時にお会いしたのが、今回対談をセッティングさせていただいた2人の若手アーティスト、團上祐志(だんがみ・ゆうし)さんと久保田徹(くぼた・とおる)さん。
次世代のクリエイター育成を目的とした「クマ財団」の奨学生であり、“実践的な創作活動を通して、現代社会に向き合い&訴えかけている”という共通点がある2人。
いまをトキメく2人のアーティストは、現代社会をどんなふうに見ているのでしょう?彼らの対談を通して、見えてくるものを一緒に観察しませんか?
対談者プロフィール
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團上祐志Yushi Dangami
1995年生まれ。株式会社STILLLFE代表取締役、クマ財団二期生。
愛媛県大洲市でベンチャー企業を経営する傍ら、美大生やアーティストとして、3足のわらじを履いて活動。
Web : YUSHI DANGAMI -
久保田徹Toru Kubota
1996年生まれ。ドキュメンタリー監督。クマ財団一期生。慶應義塾大学在学中よりYahoo!やVICEなどのメディアにて映像を制作。ロンドン芸術大学修士課程進学予定。
Web : Toru Kubota
Twitter / Instagram
2人が描く「美しい社会」とは?
以前、團上さんは「美しいものを生み出すのがアートだ」と語ってくれたことがあります。
ではアーティストである2人にとって、“美しい社会/国/コミュニティ”とはどんなものなのでしょうか?

これ、すごく難しいのですが、美しい社会というのは、描けない。美しさとは何か、ということを日々考えている人たちが生きて、その結果として最終的に生まれるものなのだと思う。
描けない未来を認める、という考えにシフトすることが大事なのかも知れません。
例えば美術とか音楽とか、自分が好きなものがあるじゃないですか。僕が思う美しい社会は、自分が好きなものを、それが何で好きなのか、自分で把握していて、話せる人がいっぱいいたらいいなと思います。
今は「みんなが好きって言ってるもの」を漠然と好きって言う人が多いと思います。そんな中で、「自分はこれが好きだ」「それはアーティストが生まれたこういう背景があるから好きだ」「だから彼のこういう思想が好きだ」みたいな感じに、話せる人が増えたらいいなって。オタク気質って言われちゃうのかもしれないけど。こういうことが当たり前になる社会は美しいと思う。
あと美しいものって裏も表も美しいと思います。だからこそ、美しい。裏側を見せることができる社会っていうのは、美しいのかもしれませんね。
例えばごみ問題みたいに、問題があることが見え透いているのに、表面的にはきれいでおしゃれでっていうの。そういうのってめっちゃ美しくない。

あとは、世界の複雑さを愛せる人がたくさんいる世界。それは美しいと思う。
シンプルなものを求めたり、ある種の正しさを求めることもあるかもしれない。だけどそれは少し怖い部分もあって…。だって、本当は世の中は複雑なんです!僕が取材している民族問題とかだって、ものすごく複雑です。まずその複雑さを受け入れたうえで、自分なりの答えが出せる人。そういう人がいる社会がいいな、って思います。
自分なりととは言いましたが、社会的な正しさを求めることをやめるのではなくて、概念的な正しさを求める姿勢はものすごく大事だと思います。
あまり好きな言葉ではないですが、「真善美」という言葉があります。正しいことと、良いことと美しさが理想とされている。正しいことや良いことだけじゃない、美しさが社会には存在しています。存在しているけれど定義できないもの、それが美しさなのかもしれません。
根本にある想いとしては、想像力が豊かな世界は美しいと思う。
知らない世界を知ることで、人は少し優しくなれると思うし、その想像力を与えることがアートの役割じゃないかなと思います。

最初の話題に回帰して。
社会×アートの可能性について。
アーティストって、本来は社会にアプローチしている存在であるべきなんです。
僕もそうだと思っています。
アートが社会と切り離した学問として、または余暇のようなものとなったのは、ここ数十年の世界があまりにも安定していたからです。 本来は、すべての学問が社会に還元されなければおかしいんです。でも、今は“学問のための学問”みたいになってしまっていて、それは単純に社会がものすこく安定していたからなんです。

僕はジャーナリズムの要素が含まれている映像制作をしていますが、海外の奨学金とかを見ていると、そういった作品もアートの中に含まれていることが多いです。ヨーロッパでアーティストビザを取ることも出来るって聞きます。
でも、日本語で話しているときに、僕は自分のやっていることをアートって言いたくないんですよ。日本語のアートは「自己表現」というニュアンスが強い。 僕の作品は、現実の存在する人を扱っていて、それが実際に助けを求めている人だから、「困っている人を使って自己表現をしているのか!」ってなっちゃうんです。だから、日本語ではアーティストっていうことに抵抗があります。
日本語のアートと英語のARTって、全然違うんですよね。
もちろん、自己表現を追求したようなアートもたくさんありますし、それはそれでいいと思います。
ただ、本来のARTは全然違うものだったんです。 繰り返しますが、やはり単純に、社会が安定しすぎていた。そのため、アートは社会の安定構造の中にある「余暇」になったのでしょう。
昔、ミャンマーの子どもたちに対して、音楽を使って内なるものを表現してもらうワークショップをしている団体を取材したことがあります。そのワークショップで子供たちが生み出した音楽が、もの凄かった。 紛争を経験した人は、その経験を語るし、政府批判もする。これまで抑圧されてきた人に、音楽というツールをあたえることで、音楽が音楽としての機能を果たそうとしているのを感じました。そういう社会が安定していないところでは、生々しい表現が生まれてきます。その時、本来のアートを感じた気がしました。

人間性の回復のアートというのでしょうかね。
今の日本で商業的な音楽が溢れている状況と、対象的ですね。
もうひとつの問題意識として、日本では、アートとビジネスと経済がつながっていないことがあると思います。
僕は、アーティストをやりながら、ベンチャーに取り組んでいます。ビジネスサイドに言いたいことは、「アートによる独創性と多様性を重ね合わせることで、社会は成長する」ということ。
お金や生産性を増やすことで経済成長、というのではなく、多様性や独創性が新たな価値体系を増殖させていくんじゃないかと思っています。
こういう思考の開き方ができると、社会が変わっていくのではないでしょうか。

今回感じたこと
アートに向き合い、表現を続ける2人の話はいかがでしたでしょうか?
インタビュー中、一度電気のブレーカーが落ちる瞬間がありました。日中だったので、真っ暗闇にはなりませんでしたが、視界を一瞬奪われ、静寂が訪れる。普段、光や雑音で見えないものを見た気がしました。
アートとは何か。普段何気なく聞いたり使ったりしている言葉ですが、いまいちつかめない言葉です。しかし、どの文化圏にも、音楽や絵画、造形など、一見生命活動とは無縁の創作があります。 今、自分が存在している世界にないものを創造する営みを、支えるのは想像力。創造/想像することができるのは、人間の特権です。
同じ時代を生きているのに、人それぞれ、見ているものは異なります。今までの位置から少し背伸びをして、見えないものを見る想像力を働かせてみると、世界が面白くなるかもしれない、と感じさせられた時間でした。