メキシコへ渡った日本からの移民/タコスとお寿司の夫婦の会話
はじめに
『タコスとお寿司の夫婦の会話』とは、高校で社会科を教えるメキシコ人の夫とイラストやデザインを生業とする日本人の私の、なんでもない日常の夫婦の会話をご紹介する連載です。
日本やメキシコ、その他の国で起こる様々な出来事に、育った環境や文化、受けた教育、職業も違う私たちが、それぞれどう感じ、何を話し合ったかをここに記録します。
メキシコへ渡った日本からの移民
うちのお母さんのおじいさんは日本人だったからね。
うん、でもなんでその時代に日本人がメキシコにいたんだろうね。第二次世界大戦よりも前でしょ?
うちのお母さんに話を聞いてみれば?
なんでも聞いて!
お母さんはいつから自分に日本人の血が入ってるって知っていたの?
物心ついたときからよ。おじいさんとは近所に住んでいてほとんど一緒に生活していたから。
へえ。どんな人だったの?
見た目は、背が小さくて、痩せた、東洋人のおじいさん。毎日、99%は日本食かはわからないけど、アジアの食事をしていたのよ。私達も白いごはんやお味噌汁を一緒に食べてた。おじいさんの家にはいつも船便で日本のものが届いていたの。
お寿司とか食べてたの?
田舎だから、当時生のシーフードはほとんど手に入らなかったけど、缶詰の魚を食べていたわよ。海苔も船便で届いて。
そっかぁ。おじいさんは優しかった?
ほとんどしゃべらない、静かな人で、いつも船便で届く日本の新聞を読んでいたのを覚えてる。でも、よく私たち孫の写真を撮ってくれたのよ。
スペイン語は、理解はできたけど、話すのはすごく苦手だったみたい。でも仕事ではなんとかスペイン語でコミュニケーションしていたのね。
何のお仕事?
おじいさんはお医者さんだったのよ。
当時(1915年に渡航)、日本の医師免許があればメキシコでも医者として働けるという協定があって、メキシコは医者の移民を募集していたの。革命が終わったばかりで、傷付いた人がたくさんいて、医者が足りなかったのよね。
おじいさんは、私たちの村で唯一のお医者さんで、みんなから慕われていたのよ。
おじいさんは、お医者さんとして村に送られてきたの?
ううん、最初はね、移民の船に乗ってメキシコについたものの、医者どころか、何の仕事も、住むところもなかったの。
えー?住むところも?
何も。船の中で知り合った他に日本人が、北の方のシナロア州に行くっていうのでついていったそうなんだけど、彼は親戚と合流して、そうしたら、「じゃあさようなら」って言われてしまって、ひとりポツンと立ち尽くしたと言っていたわ。
うそ!?何のあてもないのにメキシコに行っちゃったってこと?
おじいさんは移民募集のポスターを見て、応募したの。私もポスターを見たことがあるけど、そこには、メキシコに行けば、ものすごくいい暮らしが簡単にできるような、夢物語が書いてあるのね。ちょっとその辺の土を払えば、すぐに金がたくさん出てくるって。もちろん嘘なんだけど。
それで、騙されて?
移民の手続きや旅費だって、とっても高額だったのよ。うちのおじいさんには、もう既にロサンゼルスに移民として渡ったお兄さんがいたから、お兄さんがお金を送ってくれたそうなんだけど、多くの人は借金をしてまで、夢のメキシコへ渡ったの。
最初にメキシコに渡った日本人のグループはもっと南の方のチアパス州に送られたのね。コーヒー農園で厳しい労働をして、僅かな食費を除いては全て借金の返済でとられてしまうから、別の仕事やチャンスを模索したり日本に帰ることもできないのよね。騙されたと気付いても、時既に遅しというわけ。
なんかその話、日本にベトナムやカンボジアから日本に行った技能実習生の話と重なり合うね・・・
今は日本は反対の立場になったのよね。チアパスに渡った日本人の多くは、全く慣れない熱帯の気候と厳しい労働で、食事だってそれまでに慣れ親しんできたものとは全然違うし、弱って死んでしまった人が多かったと聞いたわ。農地開拓要員として移民した日本人たちは、現地のメキシコ人との交流も許されなかったそうなの。
奴隷みたいに隔離されていたってこと?
そう、奴隷のような扱いよね。
タコスママのおじいさんは、ひとりぼっちになってから、どうやって生き延びたの?
助けてくれそうな日本人を探したんですって。当時、アメリカに渡って、そこからメキシコに水源を探しにきていた日本人のグループがいて、なんとかそこに合流できたみたいなの。
それで?そこからどうやってお医者さんとして定住することになったの?
当時はゴールドラッシュで、あちこちの鉱山から金や銀を掘っていたのを知ってる?だから、鉱山へ行って仕事をすることにしたの。でもね、金や銀を掘るのではなくて、掘りに来ているたくさんの人たちに、お弁当やなんかを売る売店を始めたのね。そのお客さんのひとりと親しくなって。それが、私のおばあさんのお兄さんだったの。
それが縁で結婚したの?
そう。それで、おばあさんは、ピーナッツの農園をやっていたり、その他にもすごくビジネスアイデアに富んだ人だったから、おばあさんは商売でお金をたくさん稼いで、おじいさんはお医者さんとして地域の人たちを助けたのよ。
おばあさん、よく外国人と結婚したね。おばあさんの血筋はスペイン人100%の白人でしょ?昔だし、東洋人と結婚するの嫌じゃなかったのかな。
おばあさんはいつも、日本がどれだけ素晴らしいか、日本人であるおじいさんがどんなに素敵な人で、それがどれだけ誇らしいかと、親戚中、町中の人に話していたのよ。だから、私も小さい時から日本人の血を引いていることを誇らしく思ってた。
タコスママのお父さんは、日本人とメキシコ人のハーフでしょ?嫌じゃなかったかな?
うちのお父さんも、自分のお父さんが日本人だということをすごく幸運に思ってる。自分には日本人の血が流れているし、2つの文化を知っているから、より多くのチャンスを得ることができたって、いつも言ってる。うちのお父さんの兄弟も同じように考えていると思うわよ。
そうなんだ。日本人だっていうので、嫌な思いはしなかったのかな?
メキシコに来て、名前を変えなければいけなかったということは、悲しかったと思う。
当時のメキシコでは今よりも、もっとカトリック教会の権力が強かったから、住民登録や結婚のような、今は役所がする仕事というのは教会に任されていたのね。だから、ここの村の住民になるなら、教会に登録しないといけない。教会に登録するには、キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名に名前を変えなければいけないと言われたのね。
それでマヌエルになったのね?
そう、もとの名前の「まさお」に一番似ている、カトリック教徒の名前ということで「マヌエル」になったみたい。
私が生まれた時にも、おじいさんは「みちこ」という名前をつけたいという希望があったんだけど、その時代になっても、まだ許されなくて、私はみちこじゃなくて「サンドラ」なのよ。
タコスママの10個くらい下の妹は「ゆり」って日本の名前だよね。
そう、それは10年くらい時代が後なので「マリア・ユリ」って洗礼名とセットにすることで良しとされたみたい。孫の名前はともかく、自分が持っていた名前を奪われるって、きっと喪失感が大きかったと思うわ。
そうだよね。無理に名前を変えられちゃうって、想像もできないな。あと、第二次大戦中には日本人ということで迫害された?
メキシコは第二次大戦では中立の立場をとっていたんだけど、隣国のアメリカから、メキシコにいる日本人を皆アメリカの強制収容所に送るようにプレッシャーをかけられていたのね。
メキシコは日本人や日系人をアメリカに渡すことはしなかったけど、それでもやっぱりアメリカの要求を完全に無視することもできないから、メキシコの中で強制収容所を作って、そこへ日本人を集めたの。
どれくらいの期間、そこにいたの?
うちのおじいさんは9ヶ月くらいね。
村で唯一のお医者さんだったから、村の人はみんな、おじいさんに早く帰ってきてほしくて、おばあさんが署名を集めて政府に直談判したの。他の人はまだ収容所に残っていた中、どういう条件だったのか、仮釈放みたいな形だったのかわからないけど、おじいさんは家に帰してもらえたんですって。
よかったね。でも財産は全てとられてしまったんだね。おばあさんはメキシコ人なのに、夫が日本人だからっておばあさんの財産まで。
そう、また1からやり直したのよ。
タコスママのおじいさんは幸せだったのかな?
幸せでもあったし、悲しくもあったと思う。
メキシコで家族を作って、お医者さんとしてコミュニティからも大切にされていた、という面では幸せだったけど、日本に残してきたお母さんのことがずっと心残りだったみたい。おじいさんはメキシコへ渡った時、21歳だったんだけど、出発の日、お母さんが、まだ赤ちゃんの妹を抱いて、後ろからずっと黙ってついてきたんですって。何も言わないけど、目で引き止めてるのがわかったって。心変わりして日本に残ってくれないかなって、お母さんは期待していたのね。でも、それを振り切って出て行くのが本当に辛かったって、おじいさんが話してたわ。
もう二度とお母さんには会えなかったの?
メキシコに渡ってから、初めて日本へ帰った時には、うちのおじいさんは60歳をとうに過ぎていたから、もうお母さんは生きていなかったのね。
日本への船旅の途中でハワイから、山口県の自分の村へ電報を入れたんですって。「ニシモト家に伝えて欲しい、自分は何月何日から何日まで東京の●●●ホテルにいるから、誰か、この知らせを見たら会いに来て欲しい」って。
誰が来るか、誰も来ないかもわからないまま東京についたんだけど、結局一人だけ、会いに来てくれた家族がいて、それは、出発の日にお母さんが抱いていた、当時赤ちゃんだった妹だったんですって。
21歳から、もう両親にも兄弟にも二度と誰にも会えない遠いところへ行くって、すごい決心だったよね。
本当、すごいこと。それでも、当時はこのまま日本にいても未来がないと考えて、外国へ移民することを決意した人がたくさんいたのよね。
タコスママのおじいさんは、メキシコという国で受け入れられて、結婚した人や子供達、家族みんなが、日本人と家族であることを誇りに思ってくれて、幸せだったね。
そうね。メキシコでは日本人は愛されているけど、アメリカへ渡ったお兄さんは全く違う扱いを受けたかもしれないわね。
たしかに。アメリカに、今お兄さんの子孫のニシモトファミリーがいたとして、日本人として生きているか、それとも、アジア系のアメリカ人という感じで、自分が日系だというルーツをほとんど意識せずに生きているか、わからないよね。
その家族にもいつか会えたらいいけど。見つけられていないのよね。
会ってみたいね。
ねえ、タコスの2つめの苗字は「ニシモト」だよね。