街行く人8.男性3人組
出会った場所:ケープタウン、Woodstock
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグ(ときどきケープタウン)で出会った人々に聞いてみました。
男性左
もちろんあるよ。僕は80年代頭、アパルトヘイト終盤の、社会的にかなり緊張していた時期(※1)に生まれたから、本当にたくさんの経験をした。
父親は国でも有数の腕のいいコックだったから、いろんなところに呼ばれて料理を振る舞っていたんだ。
いつだったかパーティの料理を作るために、父親が白人の家に呼ばれたことがあって。僕も招待されたから、一緒に連れられた。
でも、黒人の子どもがいるのを快く思わなかった人から怒鳴られ、離れた部屋に閉じ込められた。
そこで一日中、外からの楽しそうな声を聞きながらただひたすら待っていたんだ。今でも覚えている、辛い思い出だね。
小さい頃は、何人か白人の友達がいたんだ。彼らの両親の中には、僕を養子にしようとした人もいた。
でも、母親がいない家庭で、一人で自分を育ててくれた父親と別れることは考えられなかったよ。
時代も時代で、僕の住んでいたタウンシップではANC(アフリカ民族会議。ネルソン・マンデラも所属していた現与党)とPAC(パンアフリカニスト会議)の二つの勢力が争っていて、多くの人が亡くなっていたんだ。
そんな中、父親と離れるなんてできなかった。
そんな感じで、ある程度白人の家庭とも交流があったから、子どもだった自分は、黒人と白人の社会的な違いを理解していなかったんだ。ところがある日、肌の色の違いの意味を思い知らされる出来事があった。
いつも仲良くしてもらった白人の家族と一緒に、白人の子どもたちが集まる広場に行った時だ。
僕が遊具に向かって走ると、なぜが他の子どもたちが逃げていくんだ。その場にはたくさん子どもがいるのに、自分の周りはみんなが避けるんだ。6歳か7歳の子どもだった自分には、それがなぜだかわからなかった。
そしたら周りの親たちが何か叫んでいるんだ。大勢の人が、僕をそこに連れてきた白人の母親に文句を言った。
誰かが通報したらしく、係員の人は僕を殴ろうとして、彼女はなんとか守ってくれた。
家に帰って、その日の出来事を父親に話した時、はじめて人種について聞かされたんだ。
「すべては肌の色の違いなんだよ」、って。色が違うから、大人になったら一緒に遊んだりすることはできない、ってね。
彼らの中には、黒人をサルだって言う人もいるんだよ、って。
このとき始めて憎悪の感情をいだいたよ。怒りも覚えたし、どうしていいのかわからなかった。
他にも本当にいろいろな出来事があった。とてもじゃないけど話しきれないよ。
極めつけの体験は、自分たちが住んでいたタウンシップ(※2)での出来事だ。
僕らが住んでいたタウンシップの上に、政府のヘリコプターが飛んでくることもよくあった。
そのヘリコプターは、タウンシップの上空でお菓子を落としてくれたんだ。だから、ヘリコプターが来たら子どもたちは喜んだ。
でも、ある日悲劇が起きたんだ。ヘリコプターから落ちてきたお菓子に毒が含まれていて、それを食べた子どもがみんな死んだ。
僕は幸いその場にいなかったけど、ある日気がついたら友達がみんな死んでいたんだ。
このときはもはや怒りすら湧かなかった。人生で一番悲しい出来事だった。
これまではアパルトヘイト時代の話だけど、今でも差別があるよ。
肌の色によって人々を分けるシステムはまだ生きている。
たとえば、就職活動をするとして、同じ学歴・同じ条件で肌の色だけ違ったとしようか。
約束するけど、仕事をとるのは肌が白い方だ。たとえ黒人の方が経験があったとしても、仕事を得ることはできない。
自分自身の経験から言い切れるよ。
男性中央
今はアパルトヘイトが終わったといっても、ここはケープタウンさ。格差や差別はまだまだ残っているよ。肌の色で判断されることはまだまだ多いんだ。
本当に人間としてお互いをみることはまだできていないんじゃないかな。
男性右
ケープタウンは特に遅れてる。こうしてカフェに座っている人の中に、黒人はどのくらいいる?
人口のマジョリティは黒人だけど、こうしたお店(※3)に来れる人は、まだまだ少ない。
アパルトヘイトが残したものは大きいよ。今でも人の心の中には、差別感情が残っている。意識的じゃないにしても。
前に、仕事の関係で白人の学生をレストランに連れて行ったことがあるんだ。
彼女たちが食べ終わったから、僕が支払いを頼んだ。そしたら、伝票は白人の学生のところにいくんだ。
だから「誰が伝票を頼みましたか?」と聞くんだ。そしたら「いや、それは・・・」と困っていたね。無意識に、経済的格差から、レストランで支払いをするのは白人のほうだ、という思い込みがある。そのウエイター自身は黒人だったんだけどね(笑)。
今でも多くの人の中に、白人はこういうものだ、黒人はこういうものだ、という思い込みが存在しているってことだ。
ダウンタウンでミーティングをしていた男性3人組に話を聞きました。
彼らはタウンシップに生まれ、アパルトヘイトを経験しています。
にわかに信じられないような経験談を聞いて驚くと同時に、アパルトヘイトに対する大規模な抵抗運動は歴史として語り継がれるものの、まだまだ多くのストーリーが眠っていることを実感しました。公に語り継がれなくとも、人々の心の中には、いまだ深いトラウマがあるようです。
アパルトヘイト抵抗運動の象徴、ネルソン・マンデラ氏は、差別的な政策を行ってきた政権や白人を赦し、共存していく政策をとりましたが、中には白人の追放を支持していた人もいたといいます。
彼らは壮絶な差別体験を話してくれましたが、最後には「是非白人のひとにも話をきいてみて」といいます。今回インタビューした彼らと同年代の白人の人の中には、“加害者”側として、プレッシャーを感じながら生きている人もいると言います。
大切なのは、黒人だからこう思っている、白人だからこう思っている、という枠にはめることなく、個人個人の経験や想いに光を当てることかも知れません。
彼らは今、自分たちの出身地であるタウンシップのツアーを運営しています。
人々は未だ肌の色によって分断されています。しかし、ケープタウンには、観光客も多くいます。まずは観光客から、タウンシップに来て、そこに住む人と交流してもらい、リアルを知ってもらう。
格差や差別などネガティブなことも含め、今、現実に起こっていることを直視してこそ、民主主義が機能する、と彼らは言っていました。
そんな彼らのツアーのお問い合わせはこちら(英語のみ)
btmachaphela@gmail.com
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チャリツモライターで南アフリカ在住のばんと、同じくチャリツモライターでイランに留学中のえな。
仲良しだけど、今は遠く離れているふたり。
そんな二人の文通を、ゆるゆるとご紹介するこのコーナー。
今回は、南アフリカのばんから、宗教や食事についての手紙が届きました。
サラーム(※) ばんちゃん!
お手紙ありがとう。南アフリカの宗教の話もすごく面白そうだね!
「宗教」とか「神様」って、日本ではなかなか感じることが少ないけど、多くの国ではあたりまえに信仰されているものなんだよね。多くの人々にとっては身近な存在なんだなと、日本を出てみるといつも思うなあ。
いろいろな国の宗教についてもっと知りたいなと最近は思っています。今度いろんなところの宗教について、ゆっくりお話しできたらいいな!
そして、こちらイランではペルシャ語の勉強が大変で、毎日毎日ヒーヒー言ってます。
今イランは夏本番。イラン人たちは「道路で目玉焼きが美味しく焼けるよ!」なんて言ってます。
だんだんわかってきたんだけど、イラン人は冗談が大好きみたいでいつも私たちを和ませてくれるんです。
言語の習得は大変だけど、もっと彼らの文化を知りたいなと思って頑張っています。
話は変わるけど、私は留学前にずっと不安に思ってたことが2つあったんだよね…。
それは、半年間お酒が飲めないこととラマダン月(断食月)があること!(※)
ばんちゃんは知ってると思うけど、私は食べることもお酒を飲むことも大大大好きなのでどうなっちゃうんだろうと、とっても不安でした。
これまでの海外経験はどれも短くて、最長で3週間くらい。だから海外のご飯も楽しめてたし、日本食なんて微塵も恋しくなかったけど…、イランに来て3ヶ月が経った今は、ちょっとだけ恋しいです。
今日はばんちゃんも手紙で書いてくれたラマダン月とか、「食」の話を書いていこうかなぁと思います。
まずはばんちゃんも手紙で書いてくれてたラマダンの話からしようかな。
日本でもよく知られているラマダン。よく誤解をされがちみたいなんだけど、ラマダンというのはイスラム暦の月の名前であって、ラマダン=断食ではないみたいなんだよね。
実はラマダン月中ではもっといろんなことをしなくちゃいけなくて、例えば寝ない、暴言を吐かないとか…そのうちの一つが断食なんだって。
ややこしいけど、さらに断食の期間中は喫煙、性行為なども禁止されているみたい。
あとは宗派によって断食の日数も違って、中には3日とか、1週間しか断食を行わないところもあるみたい。
ここはシーア派の中でも12イマーム派という宗派を信仰していて、断食期間は約一ヶ月ありました。
結果から言うと、私たち日本人留学生はイスラム教徒じゃないから断食はしなくていいよ!と言われました。しかも、日本人のためだけに特別に昼ご飯を作ってくれたので、食事には困りませんでした。
ただ、せっかくイランに来てラマダン月が被っているんだったら私もやってみたい!と思い断食を体験してみることにしました!
断食をした時の、私の1日の流れはこんな感じ。
ラマダンでの断食といえば、日が出てる間はご飯を食べてはいけないとありますが、正確な合図は1日に3回流れるアザーンです。 朝のアザーンがその日の断食始まりの合図で、夜のアザーンがその日の断食終了の合図になるのです。
私がいた地域コム(Qom)では、朝の4時半ごろに朝のアザーンが鳴り、20時半ごろに夜のアザーンが鳴るので、約16時間の断食をしなくちゃいけません。
やってみた感想は、とにかく暑いからご飯は割と食べなくても大丈夫だけど、喉がめっちゃ乾く!
そして朝ごはんのサハリを食べるための早起きが大事で、寝坊すると朝ごはんを食べ損ねるので大変です。初日に一生懸命食べていたら、ホテルのスタッフの人がもう食べちゃダメだよ!と言って食べ物を全部片付けられちゃったのは悲しかったなあ。
喋ったり、歩いたりしたら水分が飛んじゃう気がしちゃうし、一回喉が渇いたかも?って思っちゃうと、ずっとお水のことしか考えられません。ちなみに断食の最中は、喉を潤す目的で唾を飲み込むことも禁止されているらしいのです…。
あとは朝ごはんを食べるために早朝に起きるので、寝不足になります。授業が普通にあったので、眠いのが辛かったなぁ。
それでも断食の後にご飯を食べると、本当に美味しいと思えるし、でもまぁとにかくお水!お水に感謝ですね。水分はとても大切だと改めて感じました。
軽い好奇心で始めた私は、結局2日で断念しちゃいました。
言い訳をしちゃうと、断食期間中はみんなあまり働かないし、授業もほとんどないらしいのですが、私たち日本人留学生には特別に昼食が出されるし、通常授業だったんですね!(よくよく考えると先生も辛かったのかも…ありがとう先生!)
そんななか断食をしていると体力的にも厳しいし、勉強にも集中できなくなっちゃったの。
実際、シーア派の教えの中では体の健康が第一として、風邪のひと、生理、妊娠中のひとは断食を行うことを逆に禁止しているそうです。無理をしないのが大事みたいだよ。
それ以外にも旅行中の人も断食はしないとか、いろいろと細かい決まりがあるんだって。
そして断食をしてみて感じたのは、まわりのみんなと「一緒に」断食をすることがラマダンを乗り切る秘訣なんじゃないかっていうこと。
私はなんだかんだ日本人しかいない部屋で生活していたし、周りの日本人留学生は好きにジュースを飲んだりお菓子を食べたりしてたし、ご飯は学校から配給されるものだったから、豪華なイフタール(※)をみんなで食べることもなかった。そして私は信仰心もないから、続けるのが厳しかったんだよね。
だけどイラン全体で見れば、昼間はお店もどこもやっていないし、周りの人もみんな断食をしていて頑張ろうと思えるし、夜にはお店が始まって賑わってくるし、お家で過ごす時も家族や親戚が集まってイフタールを食べて、ワイワイするのがとっても楽しい!
そうやってみんなで協力しながら、この一ヶ月を過ごしているのかな。
(そうすると、日本で暮らしているイスラム教の人たちは、どうやってラマダン月をこなしているんだろう…?)
さっきも書いたけど、断食明けの食事であるイフタールの時は、毎日のようにお家に親しい友人や親戚を招待してみんなで食べるのが習慣らしく、私も2回ほどイラン人の友達に呼ばれてイフタールに参加しました。
その人のおうちは大家族で、60人以上親戚が集まっていました…!びっくりだよね。
私は女性が集まるお部屋に連れてってもらって、そこで同世代のイラン人の女の子とワイワイ楽しくお話をしながらイフタールを食べました。
そういえばそのとき、みんなでお庭に出てスイカを食べながら、留学組の中にいる男の子の中で誰が一番かっこいい?彼の名前はなんていうの?なんてガールズトークで盛り上がったりもしたよ。 どこの国の人も変わらないなぁと嬉しくも思えた日でした。
今度イランの家族についても話せたらいいな。
ラマダンの話でいっぱいになっちゃった。
次は食事の話をしようかな。
今回は、ラマダンのお話でした。
手紙を書いているうちに、2人は気が付いてきましたが、えなちゃんのいるイランと、ばんちゃんが学生のこと旅をしたアラブ首長国連邦やヨルダンなどアラブ諸国のイスラム教には違いがあるようです。
イランの人々の多くが信仰しているのはシーア派。その中の12イマーム派です。今回のえなちゃんの手紙には、一日に礼拝(お祈りのアザーンの数)を3回すると書かれています。
それを読んで「あれ?」とおもったばん。彼女が知っているイスラム教徒の友達は、一日に5回礼拝をしているからです。
どうやら、スンニ派と呼ばれる宗派を信仰している人々は、一日に5回礼拝をするようです。
同じイスラム教ですが、いろいろ違いがありそうですね。
実は、ひとことでイスラム教と言っても、さまざまな宗派があります。大きくはスンニ派、シーア派に別れていますが、スンニ派・シーア派それぞれの中でも、さらに細かく宗派が分かれています。またこうした宗派を信仰している人からは「異端」とされていますが、イスラム教に系譜をもつ宗教(宗派)もあります。ドゥルーズ教やアラウィ―教などがそうです。
細かい宗派を扱うと日が暮れてしまうので、ここではシーア派とスンニ派の違いをお話しします。
シーア派を信仰している人は、世界にいるイスラム教徒のうちの10-13%だといわれています。残りの9割ほどがスンニ派です。シーア派の信者が多いのが、イラン、そしてイラク、レバノン、イエメンなどです。
イスラム教が、シーア派とスンニ派に別れたのは、預言者であるムハンマドの死後、6世紀ごろといわれています。ムハンマド亡き後のイスラム教の指導者を決める際に、ムハンマドの血筋を重視したのがシーア派、血統を重視しなかったのがスンニ派の始まりだといわれています。
そのため、おもな違いは指導者の考え方。教義自体にはそれほど変わりはないともいわれています。
違いのひとつとして「礼拝の数」があります。スンニ派では1日に5回礼拝するところ、シーア派では1日に3回。シーア派は礼拝の数が少ないですが、回数ではなく信仰心が重要だとされているといいます。
チャリツモライターで南アフリカ在住のばんと、同じくチャリツモライターでイランに留学中のえな。 仲良しだけど、今は遠く離れているふたり。 そんな二人の文通を、ゆるゆるとご紹介するこのコーナー。 今回は、南アフリカのばんから…
チャリツモライターで南アフリカ在住のばんと、同じくチャリツモライターでイランに留学中のえな。
仲良しだけど、今は遠く離れているふたり。
そんな二人の文通を、ゆるゆるとご紹介するこのコーナー。
今回は、南アフリカのばんから、宗教や食事についての手紙が届きました。
えなちゃん
お手紙ありがとう!
洋服の話、とっても興味深かったです。
私が行ったことのある国でも、日常的にヒジャブをしている人も、していない人もいて、本当に国、地域、人それぞれなんだなあ、と思いました。同じ中東地域でも、いろんな形があっておもしろい!
イランの服装は、イスラム教の影響が大きいんだよね。日本で宗教と聞くと、なんだかいろいろ決まりがあって、窮屈そうという印象を持つ人も多いと思うけど、それぞれが納得して選択しているとしたら、それもその人の自己表現の一つなのかな、と思います。
イランではイスラム教徒が多いと思うけど、私の住むヨハネスブルグでは、さまざまな宗教を信仰している人がいます。
南アフリカでは、多数派の人がキリスト教を信仰しているけど、街にはヒンドゥー教の寺院も、イスラム教のモスクも、ユダヤ教のシナゴーグもあります。キリスト教徒といっても、アフリカ土着の祖先信仰と混じったものも多いです。もちろん、人によっては、まったく宗教的じゃないことも。
えなちゃんと初めて会った、インドにもいろんな宗教の人がいたね。リクシャー(三輪タクシー)の運転手が、運転席にヒンドゥー教の神様のシールを張っていたり、イスラム教を表す緑地に月と星のマークがついていたり、十字架をぶら下げていたり…。
いろいろな宗教を信仰している人が一緒に暮らしていると、信仰そのものがそれぞれのアイデンティティにもなっているのかなあ、と感じました。
宗教といえば、服装だけでなく、他にも生活について、独特の決まり事や教えがあることがあるよね。例えば食事とか。
私が初めてパレスチナ自治区に行ったときは、イスラム教の断食月である「ラマダン」の初日でした。
日中太陽が出ている間は、食べ物も飲み物も摂取しないと聞いて「ものすごくストイック!」と思ったのだけど、ラマダン用の飾りつけをしたり、特別な料理やお菓子を食べて、お祭りモード。子どもたちも、いつもと違って夜更かしできるからか、うきうきした雰囲気が伝わってきて、ラマダンを楽しんでいる様子が印象的でした。
UAE(アラブ首長国連邦)人の友人の一人は、ラマダン月が終わった後も、自主的に断食を延長していて、なんでか聞いたら「健康にいいし、自分自身のためにやっているんだ」と答えてくれました。断食をすることで、貧者の気持ちを知り、自分自身を清めることになるんだとか。
そういえば、東京に住んでいた時、職場の近くにあったイラン料理屋さんに何度か行ったことがあるのだけど、独特の香辛料が効いたあの料理、結構好きでした。
えなちゃんは毎日、どんな食べ物をたべているの?それに、イランのラマダンの様子も知りたいな。
今回はこのくらいで。
それでは。
イスラム教には、イスラム教徒が果たすべき義務「五行」があります。サウジアラビアにあるメッカに巡礼することや、困窮している人に対して寄付をすることなど、5つの行いが定められており、その一つが「サウム」と呼ばれる断食です。
サウムを行う月のことを、日本語ではラマダン、ラマダーン、ラマザンなどと呼び、ラマダン月の間、断食を行います。
断食といっても1か月何も食べないわけではありません。日の出から日没までの間、飲食を断つのです。敬虔な人は、自分の唾さえ飲まないといいます。
ただし、日の入りの後、太陽が昇るまでの間は断食をしなくて良いので、その間に1日分の飲食をします。
日没のお祈りの後に食べる、断食明けの食事のことを「イフタール」といいます。家族や友人などが集まり、大勢で食べる特別な食事です。また、日の出のお祈りの前に食べる食事のことを「スフール」(※)と言います。
イスラム教の暦は、太陽暦ではなく、月の満ち欠けによって決まる太陰暦。そのため、毎年少しづつラマダンの時期はずれていきます。
ラマダンの時期は、イスラム教徒にとって最も神聖な月といわれており、日中の飲食だけでなく、喫煙や性行為も禁止されるとか。
この時期、日中は営業していない店も多いのですが、どのくらい厳しいかは、国や都市によっても、そしてもちろん個人によっても差があるようです。
チャリツモライターで南アフリカ在住のばんと、同じくチャリツモライターでイランに留学中のえな。 仲良しだけど、今は遠く離れているふたり。 そんな二人の文通を、ゆるゆるとご紹介するこのコーナー。 今回は、南アフリカのばんから…
チャリツモライターで南アフリカ在住のばんと、同じくチャリツモライターでイランに留学中のえな。
仲良しだけど、今は遠く離れているふたり。
このコーナーでは、そんなふたりがときどき交わす、手紙のやり取りを記録していきます。
今回のお便りは3通目。イランに留学中のえなちゃんからのお便りです。
ばんちゃんへ
お返事ありがとう。
お手紙を書くのは昔から大好きだったけど、ばんちゃんとこうやってゆっくりお話ができるのは不思議な気持ち。
とっても嬉しいな。
イランは最近はだんだんと暑くなってきてます。でも、コム※は砂漠地帯なのでカラッとしていて、日差しを避ければ日本より過ごしやすいです。
この辺は、あちこちに美味しいフルーツジュース屋さんがあります。ラマザン※も終わったので、お昼休みに時々買いに行ったりしてるんだ。
学校のお庭の木陰でメロンジュースとかイチゴジュースとかを飲みながら、ぼーっと過ごすのがとっても気持ちよくて、贅沢な時間です。
今日は、お手紙でチャドル※について聞いてくれたので、イランの服装の話をしようかなと思います。
この国の決まりではざっくり言うと、女性は髪の毛と体のラインは隠さなきゃいけないという法律があります。
なので、私も手首と顔以外はほとんど布で隠された状態で、さらにお尻と胸は形が見えないように、上着を着たりダボっとしたズボンを履いたりして隠しています。
イランには体を隠すグッズが何個もあって、チャドル、マグナエ、ルサリー、ショール…などなど大混乱です。
でも前に手紙で書いていたアバヤというのはここの国では聞かないなあ…きっと他の国でもいろんな名前のものがたくさんあるんだろうね。
イランでは、こうした体や頭を隠すグッズを、「ヒジャーブ」と言います。もともとはアラビア語から来ているみたいで、意味はそのまま「覆い隠すもの」だそうです。
チャドルはね、実は私、二着も買っちゃいました。
前にも書いたけれど、このコムという街はイランのなかでも特殊で、ほとんどの女性がチャドルを着ているので、この街にいるときだけは私も真っ黒なチャドルを着て颯爽と歩いています。
とは言っても、体のラインと髪の毛を隠す布は別に黒くなくて大丈夫。
一緒に来た日本の留学生たちや、時々学校に来るパキスタン人やアゼルバイジャン人などは、それぞれ好きな色のスカーフを、お洋服と合わせて身につけていてとても可愛いです。
ちなみに、ほかの都市だと、チャドルを着ていない女性もたくさんいます。
コムでの生活に慣れた頃に、初めてテヘラン観光に行った時は驚きました。
チャドルをつけている人はほとんどいないし、なんなら髪の毛もほとんど隠していなくて、ふわっと頭に乗せてるだけとか、肩にかけてるだけの人がたくさんいるんです。
コムという街が、イランの中でもイランではないとよく言われる意味がわかりました。
間違えて、コム以外の街でチャドルを着て行ってしまうと「あなたは何でチャドルを来ているの??」と、いろんな人に質問されてしまいます。
言い訳が大変で、「楽ちんだからですよ」と答えると、だいたいの人は「絶対に楽じゃないよ!大変じゃん!」といってくるのがなんだか面白いです。
宗教的にもっと大事なものだと勝手に思っていたので、なんだか意外だなぁという感じです。
私は案外、チャドルを気に入っていて、中はノースリーブにレギンスとか、Tシャツに短パンとか、誰にも見えないから好き放題の格好をしてます。 なんなら起きてすぐ、パジャマのままチャドルをかぶって買い物に行ったりしちゃいます。
チャドルは同じ黒い布でもたくさん種類があって、流行りとかもあるみたい。
私も2着買っちゃったのには訳があって、1着目に買った伝統的なチャドルは、生地が分厚くで動きにくかったので、2着目はチャックとか袖が付いてる現代的なチャドルを買い直したの。現代的なものはとっても薄い生地でできてて夏でも涼しく、動きやすいです。見比べたらきっと面白いので、帰国したら見て欲しいな。
チャドルを着て暮らしてみた感想は、やっぱりあっちこっち気を使わなくていいのはとても楽ということ。全身布に包まれてると安心感があって、日本にいる時以上に神経質にならなくて済むのかなぁと思います。でも、おしゃれが好きな私としては、自由な格好や髪型で外に出れないことの悲しさを感じるときもあります。
チャドルの大変なところは、裾を踏んでころんじゃうことや、種類によってはリュックが背負えないこと、あとは慣れてないからか、裾を引きずってとれちゃったこともあります。着こなせるようになるまで、結構時間がかかるんですね。
はじめのころは、バスから降りる瞬間に後ろの人に裾を踏まれて、頭から派手に転んだことがありました。「くそう、ヒジャーブの洗礼を受けてしまった…」と、しばらく痛かったけど、階段やステップでは、ドレスみたいに裾を引っ張って歩かないといけないことを学びました。
学校の先生に、なぜ女性は体や髪の毛を隠さなきゃいけないのかと聞けば、「それは美しいものは隠すことが美徳だからですよ。」とか「女性は男性の目を惹きつけてしまうものだから隠した方が安全なんです。」とか、「コーランに書いてあるからです。」とか色々な返事が返ってきます。
「体を隠さなければいけないなんて大変だなぁ。自由におしゃれすればいいのに。」と思う人もいるのかもしれませんが、この国の人たち(特にコムの人たち)からすれば「美しいものを大切な人以外に見せるなんてもったいないなぁ。隠したらいいのに。」と思うのかもしれませんね。
自分が当たり前だと思っていた価値観が全部じゃないなあ、と日々思い知らされているけど、この服装に関してもそのうちの一つだなと思いました。
長くなっちゃったので、今日はここまで。
まだまだたくさん話したいことがあるなぁ。
みんなとの再会を楽しみにしてます。
それじゃあまた。
お元気で。
えな
イスラム教の教えが書かれているコーラン(クルアーンとも呼ばれる)には「女性の美しい部分を隠すように」と読み取れる部分があります。
そのため、体のラインや髪の毛を隠す人も多いです。一部の国では、女性の露出について法律で定められていて、イランもその一つです。
文中に出てきたアバヤというのは、アラビア半島(サウジアラビアやアラブ首長国連邦、カタールやクエートなど)の伝統衣装のこと。チャドルのように、女性の体のラインを隠す服ですが、頭の上から被るのではなく、首から下を隠します。頭部は、ヒジャブと呼ばれるスカーフを付けることが多いです。
また、ブルカという服も聞いたことがあるかもしれません。ブルカは顔全体を覆うもので、現在はアフガニスタンなどの中央アジアでよく見られます。
一言でイスラム教、イスラム教の女性の服装といっても、地域や文化、家庭、個人によって異なります。同じ国でも時代によって流行り・廃りもあるんだとか。
ちなみに、イスラム教を信じる国に行ったら、外国人もヒジャブなどを着用しないといけないのでしょうか?
それは、国によって法律が違います。
外国人にも自国民にも寛容な国もあれば、イランやサウジアラビアのように、外国人であれ、髪の毛や肌の露出を禁じている国もあります。
また、どの国でも、モスクなどの宗教施設の入るときは、ヒジャブの着用を求められることが多いようです。
私自身も、いくつかのアラブ諸国に旅した際に、ヒジャブを付けて歩いたことがありますが、日差しが強く、砂っぽい気候の中で付けるヒジャブは、思ったよりも快適で、確かに人目を気にしなくてよいので、心地よいように感じることもありました。
ちなみに、髪の毛を見せていけないのは、親戚以外の男性のみ。なので、女性同士だと髪の毛を出していてもいいのです。
女の子だけで女子会をしているときは、みんな思い思いの格好で、ガールズトークを楽しむことも多いんですよ!
チャリツモライターで南アフリカ在住のばんと、同じくチャリツモライターでイランに留学中のえな。 仲良しだけど、今は遠く離れているふたり。 このコーナーでは、そんなふたりがときどき交わす、手紙のやり取りを記録していきます。 …
街行く人9.Akiko
出会った場所:ケープタウン、Stellenbosch
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイト(1948年に法制化され、1994年まで続いた人種隔離政策)やネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグ(ときどきケープタウン)で出会った人々に聞いてみました。
私自身、以前は自分のことを南アフリカ人として思っていなかったけど、入学以来、肌の色の違いを実感させられることが多かったかな。ここには、強い白人コミュニティがあって、カラード(混血)である私は、常に阻害されている感じを受けるようになった。
肌の色のせいで「ここは自分の居場所じゃない」と感じることが重なって、何度か逃げ出したいと思ったこともあるなあ。
私たちは女子寮に住んでいるんだけど、たまに男子寮と女子寮の交流会がある。でも、その交流会では、言葉では言われないけど、有色人種である自分たちがその場にいるのを好ましく思われていないのを肌で感じた。白人の女の子しか歓迎されていないような雰囲気だったの。
あと、今住んでいる寮では寮長をやっているのだけど、大学の歴史上はじめてのムスリムリーダーだそう。
ケープタウン全体はムスリム人口が比較的多い(※2)のに、ここには本当に少ない。
たくさんお店があるスチューデントラウンジでハラル(※3)メニューを提供しているのはたったのひとつだけ。だから、大学ではベジタリアンメニューを選ぶことが多いかな。ダウンタウンに行けば、たくさんのハラルのお店があるに・・・といつも思う。
言語の問題もある。この大学のあるウエスタンケープ州の公用語は、英語とアフリカーンス語、そしてコサ語の3つ。その中で、この大学ではアフリカーンス語が一番優遇されていると思うの。
大学寮の重要な説明がアフリカーンス語でしかされないとか、一部の授業がアフリカーンス語だけで開講されるとか。これって、アフリカーンス語が母語ではない肌の色が黒い人の方が、学業でハンデを負うことになる。
国際的に使われていて、話者が一番多い英語よりもアフリカーンス語が広く使われているのは、旧体制の権力構造が影響しているように感じる。
こうした制度によって不利益を被る有色人種の学生は、大学の中ではまだ少数派。
国全体の人口比でいうと、白人は少数派だけど、大学のような高等教育の場になると、まだまだ多数を占めている。
アパルトヘイトが残した構造的な問題で、もともと苦しい生活をしている人が多い有色人種にとって、大学に入ることは大変なこと。
それなのにも関わらず、入ってからも不公平に感じることが多いと、少し悲しくなるよね。
大学のネガティブなことばかりあげたけど、これでも昔よりは良くなった。でも、大学側から能動的に変ったことは一度もないはず。すべての変化は、学生運動など当事者の努力によって、勝ち取ってきたものなの。
ケープタウンの西側にある、ステレンボッシュ大学を訪れ、そこに通う日本人とのハーフの学生にインタビューをしました。
カラード(混血)として、大学という場で感じる違和感について話してもらいました。ケープタウンのあるウエスタンケープ州は、黒人よりもカラードが多いのです。
しかし、大学のキャンパスを見渡すと、欧州の一部かと思うほど、ヨーロッパ系白人の学生が多いことに気がつきます。
南アフリカの中でもトップクラスの大学で、国際大学ランキングでも上位にランクインするステレンボッシュ大学。
南アフリカの中でも、アフリカーンス語中心の教育が強く残っていることで有名です。
南アフリカでは、教育と使用言語が話題になることは多々あります。
アパルトヘイトの時代は、白人と黒人が同じ学校に行くことは出来ませんでした。
南アフリカの教育水準は、アフリカの中でもトップクラスです。そのうちレベルの高い大学の多くは、もともとアパルトヘイト下で政権を握っていたアフリカーンス語を話す人たち(主にオランダ系白人)向けのものでした。
制度が廃止された今でも、アフリカーンス語でのみ行われる講義などは、批判の対象となることがあります。
普段の生活で差別を感じることは少なくなっているようですが、学歴やキャリアを積み重ねるほど、公にはなくなったはずの「特権階級」の存在に出会うことが増えて行く。皮肉を感じざるを得ません。
街行く人9.Akiko 出会った場所:ケープタウン、Stellenbosch インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイト(1948年に法制化され、1994年まで続いた人種…
街行く人11.Lushの店員
出会った場所:ヨハネスブルグ、Rosebank
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイト(1948年に法制化され、1994年まで続いた人種隔離政策)やネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
アフリカーナー(※1)とイギリス系の人たちの間で、差別を経験したことがある。一部のアフリカーナーの人たちは、イギリス系の人に対して良い印象を持っていないことがあるの。
私はイギリス系なのだけど、そのことを理由に、ネガティブな対応をされたことがある。もちろん、今の職場ではそんなこと全くないし、個人個人の問題だから、アフリカーナーみんなが差別的だ、ということではないよ。
私自身は、個人的にはないかなあ。どうだろう、難しい。
南アフリカには、インド系やアフリカ系など、本当にいろいろな人がいる。今でも、いわゆる「人種」ごとに、コミュニティが分かれていると思うな。
これだけ多様な社会だから、私にもアフリカ系の友達も、インド系の友達もいる。それでも、人の繋がりは同じ「人種」間の方が強いように感じる。
天気の良い夏の日の午後。同僚同士だという2人に話を聞きました。
一人目の女性が話した、アフリカーナーとイギリス系の人の話。南アフリカと言えば、白人政権による、黒人やそのほか有色人種に対する人種差別的政策、アパルトヘイトが有名ですが、「白人」と呼ばれる人も、大きく分けると2つのグループがいます。初期の宗主国であるオランダ系(オランダ語と現地の言葉が混じって生まれたアフリカーンス語を話す。アフリカーナーと呼ばれる)と、オランダの後に入植したイギリス系の人々です。
南アフリカは、かつてはイギリスの植民地だったものの、1961年に独立を果たします。その独立を勝ち取った中心的な人々が、アフリカーナーです。
それまでも幾度となくイギリスとオランダ系移民は戦争を続けてきた歴史があります。
こうした背景から、アフリカーナーの一部の人は、イギリスに対して良い印象を持っておらず、英語を話すことを嫌がる人もいるといいます。
アパルトヘイト時代から、オランダ系もイギリス系も、共にヨーロッパ人・白人に分類されていたため、正確な数値はわかりませんが、アフリカーナーもイギリス系もほぼ同数暮らしているといわれています。
白人と黒人の分裂が注目されがちな南アフリカですが、白人と呼ばれるひとの中にも、対立があるようです。自分の属するグループと他者のグループにわけて対立するのは、悲しい人間の性なのでしょうか。
街行く人11.Lushの店員 出会った場所:ヨハネスブルグ、Rosebank インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイト(1948年に法制化され、1994年まで続いた人種…
街行く人3.MERUIN MIRWAN MOTAN
出会った場所:ヨハネスブルグ、Melville
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
子どものころは、アパルトヘイトがあったから、「白人専用」のところに入ることができなかった。(※1)
なんか、おかしいだろ?
子どもの頃は、白人じゃないから差別され、今では名前に比べて肌の黒さが十分じゃない、と言われるんだ。
自分が一番心地よいコミュニティは、ムスリム(※2)のコミュニティかな。ここでは信仰で繋がっていて、人種は関係ないからね。
おしゃれなレストランやバーが建ち並ぶメルヴィルのカフェで、水たばこをたしなんでいたグループにお話を伺いました。フランスに生まれ南アフリカに移住したモロッコ系の人、ムスリムの男性と結婚しイスラム教に改宗した白人の女性などが集まっていました。いつも食事や水たばこを一緒に楽しんでいるそうです。このカフェのオーナーがムスリムということもあり、常連さんにはイスラム教徒の方が多いようです。
南アフリカには、植民地時代の宗主国にルーツをもつオランダ系の白人(現地後と混ざってできたアフリカーンス語を話す人が多い)やイギリス系の白人はもちろん、共通の宗主国を持つインドや東南アジアからやってきた人も多くいます。またレバノン系の人など、アラブ諸国にルーツを持つ人も住んでいます。いわゆる”混血”の人が多いのです。
アパルトヘイト時代も、”人種”は白人、黒人、カラード(混血)とアジア人(主にインド系やマレー系の人々)の4つに分けられていましたが、多くの場所は「White(=白人専用)」と「Non-white(=白人以外)」に分けられていたこともあり、彼のような混血の人も白人とは区別されていました。
現在はこうした区別はなくなったものの、長年にわたり居住地が分断されていたため、今でもムスリムが多い地区、インド人が多い地区などが存在します。コミュニティレベルでは、当時の人種同士の繋がりが未だ生きているところもあるようです。
南アフリカと言えば、人種の話になることが多いのですが、これだけ多くの人種がいるため、自然と宗教も多様になります。キリスト教徒が圧倒的多数ですが、プロテスタント、カトリックをはじめとして様々な宗派の人がいます。インド系アジア系の人々の間ではヒンドゥー教やイスラム教も信仰されており、またユダヤ系の人も一定数います。田舎の方では、土着の宗教も信仰されています。
今回話していただいた男性は、見た目だけみると「白人の南アフリカ人」。しかし、話してみると複雑な人生を背負っていました。
人間一人一人が、それぞれのストーリーをもって生きています。
もっとたくさんの人の話を聞いてみたくなりますね。
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街行く人1. Keolebogile
出会った場所:ヨハネスブルグ、Rosebank
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
特にジェンダーに関しては、社会的に「こうあるべき」という期待があるよね。女性はこう、男性はこうあるべき、という感じに。
私は同性愛者だから、そういったことによく直面する。
南アフリカは、いろんな点で発展してきてはいるけれど、ジェンダーに関しては、まだ80年代と変わらない考えをもっている人が多いじゃないかな。
私はメディア業界で働いているけれど、人々がバイアスやステレオタイプをもっていると感じることがよくある。
何でそういうことが起こるのか。単に無関心が原因じゃないかな。世の中に問題はたくさんあるのに、注意を向けない人がすごく多いと思う。
ヨハネスブルグの中心部、小綺麗なモールがある商業地であるローズバングのカフェで出会った女性。カメラとパソコンをテーブルに置いて作業をしていたところ、カメラの話に。フリーランスで映像制作をしている彼女。男性の多いメディア業界で、女性として、同性愛者として、日々疑問をもって生きていると言います。南アフリカはアフリカ大陸で唯一同性婚が認められている(2006年より)一方で、2018年に辞任した前大統領は一夫多妻制を今でも行っており、ジェンダーに関する考え方は、人によって様々です。
「無関心」が問題だという彼女。まずは多様な考え方を知ることが大切、という考えに強く共感しました。黒人・女性・同性愛者として、メディアを通して世界に何を訴えかけているのでしょうか。インタビューを通して、映像を通して社会に発信する、彼女の強さを感じました。
街行く人1. Keolebogile 出会った場所:ヨハネスブルグ、Rosebank インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。…
街行く人2. Lebo
出会った場所:ヨハネスブルグ、Soweto
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
アパルトヘイト下では、黒人と白人が一緒にはなしたら、刑務所行きだったからね。ヨーロッパ人専用、アジア人専用、黒人専用。あらゆるものが分断されていた。今みたいに、黒人とアジア人が、一緒に話すことはできなかった。
制度としての分断は終わったとしても、まだ人々の心の中には、差別や偏見が残っているんだ。法律で罰せられるから、あからさまな差別を受けることは、確かに少なくなったけどね。
同じテーブルで、いろんな人種が混じって会話することはしょっちゅうある。ただ、感情的になると、心の奥底にある差別的な感情が見えるときがある。たとえば、黒人に対して「サル」と言ったりね。白人の雇用主が、黒人の従業員に対して、怒ってバナナを渡すとか(黒人=サルという意味の嫌がらせ)。
心の分断が解消されるには時間がかかる。これがアパルトヘイトが残したものだ。もし自分が差別的な行動にあったら、もちろん声をあげるよ。ここはソウェト(※2)。抵抗の地だ。おかしいと思ったことにだまってはいない。
最初は自分の家でサッカーをやったりパーティーを開催したりしていたんだけど、そこからゲストハウスを運営することにしたんだ。
もっとソウェトの人を知ってもらうために。
南アフリカ最大のタウンシップ、ソウェト唯一のゲストハウスを運営しているLeboさん。このゲストハウスが運営しているソウェトのバイクツアーに参加しました。たまたま話しかけた人が、ゲストハウスのオーナーさんでした。左腕に大きな「SOWETO」のタトゥーを入れていて、自分のふるさとを誇りに思っているのが伝わってきます。
Leboさん曰く、ソウェトに住んでいる人はみんな顔見知り。日中に軽犯罪なんかが起こったものなら、必ず誰かが見ているので、すぐ犯人がわかると言います。アパルトヘイト時代の影響もあり、警察に対する不信感が強く、近所の人同士、助け合っているのだそう。
バイクツアーに参加したときも、地元のガイドの人が道行く人みんなに挨拶をしていました。すれ違ったみなさんもフレンドリーに笑顔で迎えてくださいました。
タウンシップの外に住んでいる南アフリカ人に聞くと、「ソウェトは危ないよ」、「夜は行かない方がいいよ」と言う人が多いです。しかし、実際に行ってみると、スーパーマーケットもあるし、大きな住宅街もあります。ここ数年で新しくできたお店もあるようで、日々変化していっています。
街行く人2. Lebo 出会った場所:ヨハネスブルグ、Soweto インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んで…
街行く人4.NO NAME
出会った場所:ヨハネスブルグ、Melville
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
自分自身のアイデンティティについて、今模索しているところなんだ。宗教も何もかも含め、自分が何者なのか。
今関心があるのは仏教。ただ、ヨハネスブルグには仏教寺院がないから、隣のプレトリアまで行って見ようと思っているんだ。
大学を中退して、今は音楽をやっている。ライブでパフォーマンスをするときは、「NO NAME(=名前なし)」。空白だ。名前に何の意味があるっていうんだ?
メルヴィルの路上でギターの演奏をしていた彼。ひょっとしたら南アフリカ人ではなく、近隣のアフリカ諸国からの移民かもしれない、と思いながら話しかけました。南アフリカは、アフリカ南部で最も経済発展をしています。そのため多くの移民が職を求めてやってくる。しかし、彼は南アフリカで生まれ育った南アフリカ人でした。
50年以上続いたアパルトヘイト政策。1994年に廃止されて24年経ちました。
日本でいう”ゆとり世代”以降はアパルトヘイト後の世代となりますが、その親世代はアパルトヘイトの時代を生きてきました。制度として廃止されたとしても、50年間蓄積されてきた差別感情をリセットすることは簡単ではありません。
相手がどんな人か知る前に、その人がどの人種であるかで判断してしまう、ということはどういうことなのでしょうか。部族の違いや宗教の違いは、口に出さないとわからないかも知れませんが、肌の色の違いは一目でわかってしまいます。しかし、それが意味することは何なのでしょうか。両親ともに日本人だとしても、海外で日本人以外の人に育てられたとしたら、どうでしょう。
私たちが、無意識に考えてしまうステレオタイプについて考えさせられました。
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街行く人5.Pravin(仮名・写真NG)
出会った場所:ヨハネスブルグ、Rosebank
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
ダーバンに比べて、ヨハネスブルグの方が、多くの人種が一緒に暮らしている。はじめは驚いたよ。最初の妻はドイツ人だったんだけど、そんな出逢いはダーバンにいた頃にはありえなかったね。
具体的に自分が標的にされて差別をされた、という経験はないのだけれど、差別的に扱われる地域は存在していると思う。ヨハネスブルグはいいところだよ。でもまあ、地域的なことではなくて、自分が年をとって丸くなったからそう感じるのかも知れないけどね。
自分はキリスト教徒だし、個人的にはインド人コミュニティに特別な想いがあるわけではないんだ。自分は南アフリカ人としてのアイデンティティをもっているよ。
カフェでお隣になったインド系の男性にお話を聞きました。
イギリス植民地時代の影響で、南アフリカとインドには、強い繋がりがあります。インド国外で一番インド系人口が多い都市は、ダーバンだといいます。かの有名なマハトマ・ガンジーも、ダーバンに住んでいました。今でも、街の至る所でインド系の人を見かけます。
私自身もヨハネスブルグ内のインド人街に行ってみましたが、南アジアの食品を取り扱う店ではインド系のお客さんばかり。少なくとも白人の人が歩いているのを見かけることはありませんでした。植民地時代から多くの月日が経ち、移民2世・3世になっているのにもかかわず、インドの文化が色濃く残っているのは、アパルトヘイト時代の分離政策の影響があるように思います。
約半世紀も続いたアパルトヘイト下では、白人、黒人、カラード(混血)、アジア人(主にインド人)と、人種ごとに居住区が分断されていたため、今でも人種ごとのコミュニティが強く残っているのです。
さて、今回お話をしてくださった方は、インド系ではありますが宗教的にはキリスト教徒。キリスト教徒は南アフリカ全体では多数派ですが、インド人コミュニティの中ではマイノリティです。こうした状況が、彼のアイデンティティに影響を与えているのかもしれません。彼のような人の存在が、南アフリカ人の多様性、そしてインド系の人の多様性を表しているように感じます。
街行く人5.Pravin(仮名・写真NG) 出会った場所:ヨハネスブルグ、Rosebank インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフ…
街行く人6.Grant
出会った場所:ヨハネスブルグ、Hillbrow
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグで出会った人々に聞いてみました。
自分自身のことでなければ、ここではナイジェリア人がよく差別される。ジンバブエやモザンビークなどの隣接している国の人は、受け入れられやすいけど、ナイジェリアは地理的にも遠いし、ドラッグの密売などで有名なんだ。ナイジェリア人だというだけで、家を借りれなかったり、差別的な扱いを受けることが多い。
ヒルブロウ地区
インタビューをしたヒルブロウ地区は、ヨハネスブルグで最も治安の悪いエリアだと言われています。実際にギャングが住み着いていた時期があったり、廃墟が多かったり、売春宿があったり・・・。
実はこのヒルブロウ、アパルトヘイト時代は白人居住地にあたり、ビジネスの中心地。アパルトヘイト後期には、Mixed Areaとされ、混血の人もアジア人も、そして黒人も居住することが許されました。しかし、他国からの制裁(1)による不況や、非白人居住区の住宅不足などによって、地域に流入する非白人比率が増加し、白人は他の地域に流出します。
次第に警察からも見放され、ギャングが入りびたるように。そして、悪名高い凶悪地区、ヒルブロウが生まれたのです。
現在、ヒルブロウにあるターミナル駅は、ヨハネスブルグに出稼ぎに来る外国人労働者の玄関口になっています。飛行機で入国する場合はヒルブロウを通る必要はありませんが、陸路で入国する場合に、必ずと言っていいほど通過する駅です。そのため、近隣のアフリカ諸国からの移民が多く住んでいます。中には不法滞在している人もいるため、ヒルブロウの正確な住民数は誰にもわかりません。
今回話してくれたグラントさんは、そんなヒルブロウのツアーガイド。悪名高いヒルブロウも、2010年のワールドカップ開催地となったことをきっかけに、徐々に変化していっていると言います。地域の再開発が進められ、治安が回復してきた地域もあるそうです。
彼が子どもの頃は、ヒルブロウで観光客向けのツアーをすることは危険すぎる状況でしたが、今は昼間のツアーを開催できるほどになりました。
それでも、一旦インターネットを通じて広まった凶悪犯罪や治安の悪さの情報は、簡単には消えません。ネットの情報や噂は、その地域の実際の状況と乖離していることは多々あります。
彼はヒルブロウの評判についてこういいます。
「ヒルブロウは”危ない”、という人に限って、ここに来たことがない場合が多いんだ」
彼がガイドするツアーの注意書きにはこうあります。
「偏見は家に置いてきてください」
とても大切な心得だと感じました。
街行く人6.Grant 出会った場所:ヨハネスブルグ、Hillbrow インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住…
街行く人7.Bernadine
出会った場所:ケープタウン、Waterfont
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイトやネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグ(ときどきケープタウン)で出会った人々に聞いてみました。
たとえば、カフェやレストランに行ったとして、カラードである私に対する黒人ウエイターの態度が他の人と異なるように感じることがあるわ。黒人のウエイターと言っても、南アフリカ人の場合と、他のアフリカ諸国から来た外国人の場合で態度が違うの。
歴史的な事があるから、南アフリカの黒人はカラードの人に対して、あまり良い印象を持っていないのか、あまり好意的に接してもらえないことがあるの。
外国からの移民のウエイターの場合は、もっとフレンドリーに接してくれることが多いのだけど。
きっとそういう態度の違いは、その人たちが意識的にやっているのではなくて、ほとんど無意識的なことなんだと思う。自分たちと違う人に対して、もっとオープンになる必要があるんじゃないかな。
だから私は、信念として「どんな相手に対しても、相手が返してくれるまで、笑顔をあげる」と決めているの。自分から笑顔を与えることで、相手の態度が変ることがあると信じている。
昔、ウエイターの態度がものすごく悪かったことがあって、少しトラブルになったことがある。なんとかその場はおさまったんだけど、お互いに後味は良くなかったと思う。だから、次にそのお店に行ったときは、あえて自分から大きな笑顔で挨拶をしたの。そしたら、相手も満面の笑顔で返してくれた。それからは、そのお店に行くたびに笑顔で挨拶が出来るようになった。
たぶん、自分が笑顔じゃなかったら、いい関係が築けなかったかもしれない。私は自分から心を開くことが大切だと思ってるわ。
今回お話をしてくれた彼女とは、ヨハネスブルグのカフェでたまたま隣になり、お話をしたのがきっかけで、ケープタウンでも会うことになりました。彼女の見た目はアジア系のようなので、わたしと2人でいると観光客だと思って、何度もお土産売りが来ました。しかし、彼女は南アフリカ・ケープタウン生まれの生粋の南アフリカ人です。
アパルトヘイト時代は、白人、黒人の他に、カラード(混血)、インド人(アジア人)の分類がありました。それぞれ居住区が分かれていましたが、公共の場の多くは「白人用」と「白人以外」に分けられていたので、カラードという立場は、アパルトヘイト前も後も、マイノリティとしての生きづらさを抱えているようです。(街行く人03 MERUIN MIRWAN MOTAN)
ケープタウンには、イギリス統治時代に今のインドネシアなどからマレー系の人が連れらて来られたため、カラードの人も多いのです。
自分と異なる人に対して態度を変える、ということは誰しも自然にやってしまうことかもしれません。私たちだって、日本で外国人と接するとき、日本人に対する際と違った接し方をしてしまうことあると思います。
南アフリカの場合は、ひとつの国の中にものすごく多様な人がいます。同じ『南アフリカ人』の中にある違いに対して、どのように消化していくのかは人それぞれ。アパルトヘイトの傷跡が強く残る中、本当の意味で共存していくために、まだ模索をしている段階なのかもしれません。
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街行く人10.Hermanus
出会った場所:ケープタウン、Sea point
インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』
アパルトヘイト(1948年に法制化され、1994年まで続いた人種隔離政策)やネルソン・マンデラで知られる南アフリカ。多様な人種が住んでいることから、「レインボー国家」と言われています。
南アフリカの大都市、ヨハネスブルグ(ときどきケープタウン)で出会った人々に聞いてみました。
敢えて言うと、アパルトヘイト時代に、学者として「アパルトヘイトの心理学」などの研究をしていたから、南アフリカ国内の大学への就職は簡単ではなかった。その代わり、国外からの評価は高かったけれどね。
アパルトヘイトが終わる前に、カナダの大学からとても良いオファーがあったから、国外に移住してしまって、その変革期の混乱は経験していないんだ。カナダへ行った理由は、断るのがもったいないほどの待遇の良いオファーだった、というのが一番だけど、自分の学説が国内で受け入れられにくかった、というのも理由の一つだよ。
アパルトヘイト時代は、あらゆる場面で自分の人種が何かを示す必要があった。国民IDにも人種が記載されてたし、書類にも人種を書く欄があった。それはおかしいと思って、人種の欄に「人間(Human)」と書いたことがある(笑)。
アパルトヘイトが終わって帰国して、もう人種を気にしなくていいんだ、と思ったけど、違うんだ。制度がなくなったとしても、人はまだ、人種を気にして生きているんだ。未だに人種が何か訪ねられることは少なくない。本当に残念なことだと思っているよ。
元心理学者だというヘルマヌ。今は学者を引退し、ケープタウンでひっそりとAirbnbで旅人を迎え入れています。私もケープタウンを訪れている間は、彼の家にお世話になりました。
興味深いことに、彼の著書に「アパルトヘイトの心理学」というものがあるそうです。
彼の家には、世界各国から収集された民芸品や絵画が集められていました。多様な文化があること、文化的・社会的バックグラウンドについて、それぞれ人は異なることは当たり前であることに気がつくことができたら。そして、人はひとりひとり違うことを認めた上で、優劣をつけることなく、人間同士の付き合いができたら、人生がよりカラフルになるのかも知れません。
街行く人10.Hermanus 出会った場所:ケープタウン、Sea point インタビュー企画『南アフリカ・ヨハネスブルグの街角から』 特設ページはこちら アパルトヘイト(1948年に法制化され、1994年まで続いた人…