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2019.03.31.Sun

“おうち育ち”な我が家の事情

第7話 隠しきれない大人の下心と、そのプレッシャーで消えてしまいたかった娘の話

ごあいさつ

こんにちは。チャリツモライターのhohimaro(ほひまろ)です。
学校や園に行かず、家庭を主な学び、育ちの場として過ごす三人の娘の母です。
学校に「行けない」日々の末に「行かない」選択をした長女(13歳)と二女(10歳)。
そして「園には行きたくない」としっかり主張した三女(5歳)。
そんな我が家の日常を、心を込めてお伝えしていきたいと思っています!

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私には三人の娘がいます。
娘たちはそれぞれ幼稚園や学校に行かずに過ごしています。

桜を見ると思い出します。
期待に胸を膨らませ、憧れの制服を着た娘と歩いた幼稚園への桜並木。
ピカピカのランドセルを背負い、はにかむ娘の記念写真。
でも桜の花が散るように、小さな自信を失い始めたあの頃。
次の桜が咲く頃は笑顔で見送る朝がくると信じ続けた日々は、不安と苦しみが増していく時間でした。
今回はあの頃の私たちの話をしようと思います。

私はいわゆる団塊ジュニア(1970年代生まれの世代)で、第二次ベビーブーム世代とも呼ばれる時代の人間です。
私が通った小学校は、48人ほどの学級が6から7クラスあり、中学校は11組までありました。
当時、私にとって学校や先生は絶対的存在。多少の体調不良や発熱は欠席の理由に出来ない空気があり、学校を休むことは罪悪でした。

そんな学生時代を過ごしてきた私は、長女が幼稚園に行き辛い気持ちを持っていても、休ませることはできませんでした。どんな状態だとしても、出席することが一番いいことだと思っていたのです。

長女は、入園から一年半ほどは幼稚園に行くために私と離れることには徹底的に抵抗していましたが、幼稚園を休みたいとは言いませんでした。
もともと高熱には強く、わりと平気でいられるタイプだったのですが、微熱と判断するより多少熱が高くても休みませんでした。
娘は、幼稚園の「皆勤賞」にとても憧れていたのです。 
皆勤賞を手に入れたいという思いだけでなく、娘は幼稚園に行くのは辛いと感じていても、そこに待っていてくれる先生やお友達が好きだったので、行きたい気持ちがありました。
そう考えると、無理をしても幼稚園に通ったのは娘自身の意思によるところが大きいのかもしれません。
しかし、その頃、言葉にして言い聞かせていたか、記憶は定かではありませんが、少なくとも、私が全身から出していた「休むこと=悪いこと」オーラを感じ取っていたことは間違いありません。

* *

そして小学校に入学しても、休むことへの罪悪感は相変わらずでした
小学一年生の6月頃、学校でも動くことが出来なくなってからは、娘の状態に合わせ、送り迎えしたり、早退させたりしました。

夏休み以降、ひとりの力では学校に行くことができなくなってからは、次女を連れての同伴登校となりました。

いよいよクラスメイトと顔を合わせることが出来なくなってくると、授業中に裏口からこっそり保健室へ入り、その一角にカーテンをひいて過ごしました。

生徒がいる時間の登校が無理になってからは、放課後登校をしたり、同じ校区の中学校にある別室登校のための教室へ行ったりしました。

二年生になると、そのどれも難しくなりました。
この頃には月に1度、放課後に登校し、身体測定をしてもらうことが目標になっていました。
私たち親子には、休むこと、学校に行っていないことへの後ろめたさはいつまでも付きまとっていて、学校復帰が何よりの目標になっていたのです。

娘は毎日、何度も熱を測っていました。
学校へは行かなくても、休んでいる正当な理由が欲しかったのかもしれません。
外出するときには「今何時間目?」と確認してきました。小学生が学校にいるはずの時間に、元気そうなのに学校以外の場所にいることが嫌だったのです。

担任の先生は、娘が学校に行ってみたいと感じそうな行事や、みんなで育てたお野菜が採れた時などに、度々お誘いの電話をかけてくださいました。
先生は決して無理強いはされませんでしたが、電話で申し訳なさそうに断り謝る私の姿に、きっと娘は心を痛めていたと思います。

* * *

娘が学校に行くこと、また、いつか行けるようになることが私たち家族の強い願いだったのは
長女が小学二年生の頃まででした。
学校復帰への強い思いを断ち切るきっかけになったのは、二年生になり長女のパニックが頻発するようになったことと、私が三女を出産したことでした。

三年生になると学校の先生も娘や家庭の状態をより理解してくださり、学校に来ることを目標にしないかわりに、担任の先生と校長先生との楽しい交換日記を提案してくださいました。
そうして長女は小学三年生と四年生の間は、学校へは行きませんでした。
先生と顔を合わせたのは各学年の家庭訪問と、交換日記を始めてから2年後の修了式の日の3回だけでした。

* * * *

学校に行っていないことへの罪悪感から開放されてからもなお、長女は「せまいところにいて苦しい」「家にカメラがあって自分のことを誰かに見られている気がする」などと言い、自分自身の存在の意味を見つけられずにつらい日々を過ごしました。

しかし、娘になるべく無理をさせず、やってみたいと望むことにチャレンジする機会を作るうちに少しずつ、閉ざしていた心を開き始めました。パニックになりどうしようもなくなることは続きましたが、それまでの閉じ込める感じではなく、抱えているものを出し切っているようにも見えました。
そして、5年生のクリスマスに、長女はその後、夢として追いかけることになるお菓子作りに出会います。

みんなと同じことができない、それはとても悪いこと 。そう感じ続けてきた長女にとって、やっと、自分らしくいられる、自分だけの過ごし方を見つけた瞬間でした。
その頃から、長女は、場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)や緘動(かんどう)の症状で話したり動いたりすることが出来なかった幼稚園時代や、学校に行けなかった頃の思いを少しずつ話してくれるようになりました。
長女はブログも書き始め、ゆっくりと過去を振り返り、自分の中で整理することもできるようになりました。

娘が教えてくれた言葉の中には、親にとっては衝撃的な、悲しい告白もありました。

「死にたいとよく思っていた。自分の存在が、ある朝起きたら始めから無かったものになればいいと思ってた」

誰しもふと、抱いたことのあるような思いでしょう。私自身にも覚えがあります。
もちろん、幼さから感じてみた、実行なんてしない安易な発想であることは分かっています。
でも、たった7~8歳でそんな風に思いつめる時があったなんて…。

長女がいなくなってしまいたいと感じていた時期は、月1回身体測定のために放課後登校していた時期です。
学校に行くことが良いことだという周囲の思いをヒシヒシと感じていた娘は、消えてしまえばもう学校に行かなくてもよい、と考えていたのです。

言葉では「学校には行かなくてもいいんだよ」と言いながら、「だったらこの先どうなる?今は無理でもいずれは行ってもらわないと困る」 と考えてしまう私たち周囲の大人の下心が、手に取るように伝わっていたのかもしれません。

* * * * *

長女が幼稚園の年長組に進級する前、2歳だった次女の入園について、長女に相談したことがあります。
5歳の長女はこんな風に教えてくれました。

「休みたいと言ったら、休ませてあげて。『そのかわり、明日は行こうね』とか言わないで。どっちにしてもゆううつなんだから、その時間は、なるべく短い方がいい。
例えば金曜日に休んで、 『月曜日には行こうね』と言われたら、3日間ゆううつ。
それより、月曜日の朝になって『今日は行こうね』と言う方がいい」

子供は親の期待を、小さな胸いっぱいに抱え、お母さんやお父さんが望む通りに生きたい。
その望み通りに生きられない自分は、とても悪い人間だ。
そんな風にがんばっているのかもしれません。

「あなたはあなたのままでいい」
小さかった娘に、心からこう言ってあげたかった。
そう言える自分でいたかったなぁと、今の私は思うのです。

ほひまろhohimaro
学校や園に行かず、家庭を主な学び、育ちの場として過ごす三人の娘の母です。
学校に「行けない」日々の末、「行かない」選択をした長女(13歳)、二女(10歳)。
そして、「園には行きたくない」としっかり主張した三女(5歳)。
そんな我が家の日常を、心を込めてお伝えしていきたいと思っています!
Instagramでも発信してます→@hohimaro

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