2019年4月、改正出入国管理法(入管法)の施行が始まりました。
今回の入管法改正で変わった点は、一定の技能を持つ外国人に対して、「特定技能」という新たな在留資格を与えられることになったこと。
日本はこれまで外国人の就労を厳しく制限してきました。大学教授やアーティスト、宗教家、報道関係者、医療関係者や研究者など、高度な専門性や公共性を就労の条件としてきたのです。
しかし、今回追加された「特定技能」という枠では、あらかじめ決められた特定産業分野において“相当程度の知識や経験”を持っていれば在留資格が与えられます。
特定産業とは、介護業、ビルクリーニング業、素形材産業、産業機械製造業、電気・電子情報関連産業、建設業、造船・舶用工業、自動車整備業、航空業、宿泊業、農業、漁業、飲食料品製造業、外食業。
これまでとは比べ物にならないくらい、広い業種、低いハードルで、日本での就労と在留が可能になるのです。
「特定技能」での在留資格を定めた今回の入管法改正により、今後5年間でおよそ34万5,000人の受け入れが見込まれるのだそうです。
「移民政策だ」とも言われるほど門戸を広げた背景には、日本国内の生産年齢人口の減少にともなう労働力の不足、特に若い働き手が圧倒的に不足している現状があると言われています。
介護や建設、清掃業や飲食業など、若い日本人がなかなか集まらない業界から、外国人労働者受け入れを希望する声が大きいのです。
実は、こうした流れはこれまでもありました。
東京都内のコンビニでは、外国人留学生が店員として働いている光景が日常になっていますし、農業の現場や工場などの生産現場でも外国人が猛烈に働いる姿は、随分前から当たり前の光景になっています。
これまで日本で働く外国人は、先ほど紹介した(1)高度な専門性や技能を持っていて在留資格を与えられたひとのほか、(2)日本に勉強しにきた“留学生”、(3)技能を学びに来た“技能実習生”などがいました。
高度な技術や知識を必要としない職業に関しては、(2)留学生や(3)実習生という期限付きかつ様々な制限がある状態でしか雇用できなかったのです。
しかし新たに「特定技能」枠を設けることで、より長期に、幅広い業種で外国人労働者を雇うことができるようになりました。
今後、人材不足がさらに深刻化する日本で、外国人労働者の受け入れは加速していくことが予想されます。
国内の労働力不足解消のために外国人を利用しようとする一方、日本は窮地に陥っている外国人に対しては、とても冷淡な対応で排除しようとする国でもあります。
これまでも、日本国内での外国籍の人に対する差別的なコミュニケーションについては何度も報じられてきました。
外国人実習生に対する人権侵害ともいえるような対応の数々、主に在日韓国・朝鮮人の人々に対するヘイトスピーチなどは、もう何年も問題になっていながら、なかなか改善の兆しは見えません。
そうした外国人をめぐる話題として、2019年新たに話題になったのが入国管理収容施設での長期にわたる不当収容問題でした。
2019年6月、入国管理収容施設(入管施設)に収容されているナイジェリア人男性が亡くなりました。ハンガーストライキの末に、餓死したのです。
2019年に入り、入管施設内では抗議のために食事を拒否するハンガーストライキを行う収容者が急増しました。抗議のために命を落とした人も、一人ではありません。彼らはなぜ、命を削ってまで入管施設で抗議をするのでしょうか?
現在、日本全国にある入管施設では、多くの外国人が非人道的な長期収容を強いられています。入管施設とは、オーバーステイによる不法滞在など退去強制の理由がある人を収容する施設で、法務省が管轄しています。
2019年6月末時点の収容人数は1,253人。そのうち42.3%にあたる531人が、1年以上もの長期にわたって拘束されているのです。
以前から長期収容は問題になっていましたが、2016年以降は事実上の無期限収容が増加していて、こうした実態は「不当な人権侵害」として、多くの専門家や人権団体などから批判されています。
また、入管施設に収容されている人の中には、母国で迫害の対象になっているなどの理由から、難民として日本にたどり着き、難民申請中の方も多くいます。2018年時点では、収容されているおよそ1500人のうち600人ほどが難民申請中でした。
「帰国すると命の危険があるために、母国に戻りたくても戻れない」という人々が、日本の入管施設の狭い部屋に1年以上も長期収容されています。 人権を尊重し、身体的自由を保障し、奴隷的拘束を禁じる憲法を持つこの国が、難民申請中の外国人にこのような非人道的な対応をしているのです。
映像で暴行を受けている男性は、少数民族クルド人への迫害が続くトルコから2007年に来日した、難民認定申請者。男性は、2011年に日本人女性と結婚したものの、法務省・入管は在留資格を与えず、2016年に東日本入国管理センター(茨城県牛久市)に収容され、収容期間は3年以上にも及んでいる。長引く収容や妻と一緒にいられない苦悩、入管職員による虐待などから、収容中に幾度も自殺未遂。現在、男性は入管職員に暴行を受けたとして、国を相手に損害賠償の訴訟を行っている。(引用:入管収容者制圧の映像を公開 クルド人悲鳴の様子、国賠訴訟/共同通信)
こうした入管の対応と、それを黙認する日本政府に対して、ハンガーストライキという形で収容者たちが抗議の意を示し、それが明るみに出たのが2019年でした。
必要なときには外国人を都合よく使い、不要になったら排除する。そうした日本の姿勢は、難民認定の状況にも如実に現れています。日本は難民認定者数、認定率ともに、世界的に見て異常に低いのです。
2018年、日本で難民申請したのは10,493人。しかし、認定されたのはわずか42人。認定率はわずか0.3%※でした。
他の先進国を見てみると、ドイツ23%、アメリカ35.4%、フランス19.2%、カナダ56.4%、イギリス32.5%…。諸外国に比べて日本がいかに難民を受け入れていないかは一目瞭然でしょう。
国 | 認定者数 | 認定率 |
---|---|---|
カナダ | 16,875 | 56.4% |
フランス | 29,035 | 19.2% |
ドイツ | 56,583 | 23.0% |
英国 | 12,027 | 32.5% |
米国 | 35,198 | 35.4% |
イタリア | 6,448 | 6.8% |
日本 | 42 | 0.3% |
どうして日本はこれほどまでに難民を受け入れないのか?
いったい難民として日本にやってくるひとたちは、どんな人たちなのか?
そして難民認定されなかった人たちは、その後どうなってしまうのか?
そんな疑問が次々湧いてきて、難民についてもっと知りたくなったチャリツモメンバー。そこで今回は、日本国内で難民の支援活動を行う認定NPO法人難民支援協会の広報・野津さんにお話を伺いました。
1999年に設立された非営利団体。
「難民が新たな土地で安心して暮らせるように支え、ともに生きられる社会を実現すること」をミッションに掲げる。
日本に来た難民の方々に、法的支援や生活支援、就労支援を提供するとともに、難民政策に対して日本政府に対して政策提言をするなど幅広い活動をしている。
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インタビュー!
ようこそいらっしゃいました。ここは、難民支援協会のオフィスです。毎日多くの難民の方が、こちらを訪れるんですよ。
私は難民支援協会の野津と申します。よろしくお願いします。
本日はよろしくお願いします。
さっそくですが、「難民」とはどういう人たちを定義する言葉なのでしょうか?
私たちはよく「電波難民」とか「ネカフェ難民」みたいに難民っていう言葉を比喩的に使っていながら、本当の難民の人たちのことを知りません。
難民というと、多くの方はニュースで見るような海外の難民キャンプを思い浮かべると思います。
難民の基本的な定義は「迫害を理由とした命の危険から逃れるため、母国を離れざるを得なかった人々」のことを言います。
母国に居続けると、殺されてしまうかもしれない。だから、外国に逃げなければならないというわけですね。
これから日本は移民をたくさん入れるんだ、というお話をよく聞きますが、「移民」と「難民」はどう違うんですか?
国境を越えて移動し、一定期間または永続的に暮らす人を移民とすると、 難民もそのなかに含まれますが、違いを分かりやすく説明すると、「移民」の多くは経済的な理由など自らの希望や選択で国を出た人のことを指しますが、「難民」は自ら望むのではなく命の危険などから国外に出ることを強いられた方々を指します。
自分で選択してきたのか、他に選択肢がなく逃げざるを得なかったか、ですね。
現在、世界中にはどれくらいの難民がいるんですか?
2018年の推計で7,080万人です。難民の数は年々増えていて、今では2秒に1人が故郷を追われていると言われています。日本にたどり着く方は、そのごくごく一部です。
年々難民の方の数が増えているのは、何が原因なのでしょうか?
最近だと、シリアの紛争がありますよね。
またアフリカでも、長年続いている紛争がなかなか収束のめどが立っていません。
ここ20年間、そうした長引く紛争が逃げざるを得ない人々を生み出す状況が慢性化しています。
新たな紛争も起こっていて、最近だと、アフリカのカメルーンという国。数年前から、難民支援協会にも多くのカメルーン人の方がいらしています。
カメルーンでは、フランス語話者が多数派を占め、英語話者は少数派です。そのマイノリティの英語話者の人々は、長い間迫害や弾圧を受けていました。ところが近年になって、英語話者の人々による活動が盛り上がったことで、それを迫害する動きが大きくなっているのです。
私たちも、近年カメルーンの方が多く来訪することにまず気づき、調べてみるとフランス語メディアを中心にカメルーン国内で報道が出始めていることがわかりました。
どうやら非常に深刻な状況のようで、徐々にBBCなどのメディアでも取り上げられるようになりました。日本ではほとんど報道されていませんでしたが。
メディアの報道より先に、人が逃げてくるのですね。
そうなんです。メディアよりも早くわかることは多いです。カメルーンの場合は特に顕著だったのですが、その少し前にはウクライナの方がよく来るようになったと感じた後に、ウクライナでの紛争について報じられるようになりました。
日本にいらっしゃる難民の方は、どこの国籍が多いのでしょう?
みなさん本当にいろんなところからいらっしゃいます。
難民支援協会に来る人は、日本に難民申請する人の一部なので、ここに来る人と日本政府に難民申請する人全体の国籍の内訳は異なります。
全体では、アジア諸国、例えばフィリピンやベトナム、ネパール、スリランカなどから来る人が圧倒的に多いです。ただ、そうした人は日本に既にある同郷のコミュニティを頼ることが多いのか、難民支援協会にはあまりいらっしゃいません。
一方、難民支援協会にいらっしゃる方々は、半数以上がアフリカの国からです。
続いて南アジアや中東。要するに、日本に難民としてたどり着いたものの、難民支援協会以外に頼る先が全くない人たちが大半です。
日本に難民申請をする人の出身国は、74か国にも上ります。(2018年度)
難民に至った背景は、本当に多様で様々です。皆さん命の危険から逃れるためにやってきた、ということが共通していますが、一人一人が異なるストーリーを持っています。
前にシリア難民のニュースを見ました。何十キロも歩いて、ヨーロッパに向かうとか…。でも、日本は島国ですよね?難民の方は、どのようにして日本にたどり着くのでしょうか?
昔はボート・ピープルと言って、小舟で海を渡ってやってくる難民の人たちがいました。しかし現在は、飛行機で来る人がほとんどです。
「難民」という言葉と飛行機でやってくる、というのは少しイメージにギャップがあるかもしれませんが、今では途上国でも格安航空券が手に入るので、飛行機が利用されているんです。
難民の方は、「命の危険」がある状態なので、移動方法や避難先を自由に選ぶ余裕はありません。複数の国にビザ申請をして、たまたま最初に下りたのが日本の観光ビザだった、という理由でやってくる方が多い印象です。
国を選んでいる暇もないんですね。ほとんど何も知らず日本に来るとなると、なかなか苦労も多そうですね。
日本というと「アジアの中の先進国」というイメージがあるので、はじめは安心・安全、というイメージを持っている方が多いです。実際は難民認定がすごく厳しい国なのですが…。
日本の難民認定率は、他の先進国と比べても非常に低く、2018年のデータですと申請者が10,493人いても42人しか認定を受けることができないと言う非常に厳しい状態になっています。難民認定率は0.3%(認定数÷難民申請の処理件数で計算)です。
年 | 申請者数 | 認定者数 | 人道的配慮による在留許可者 |
---|---|---|---|
2009 | 1,388 | 30 | 501 |
2010 | 1,202 | 39 | 363 |
2011 | 1,867 | 21 | 248 |
2012 | 2,545 | 18 | 112 |
2013 | 3,260 | 6 | 151 |
2014 | 5,000 | 11 | 110 |
2015 | 7,586 | 27 | 79 |
2016 | 10,901 | 28 | 97 |
2017 | 19,629 | 20 | 45 |
2018 | 10,493 | 42 | 40 |
日本の難民認定率は、世界的に見ても低いのでしょうか。
低いです。例えば難民を受け入れているイメージがあるドイツは認定率にすると23%。それに比べて、日本の難民認定率は0.3%ですから、桁外れに低いことがわかります。お隣の韓国でも、難民申請数が日本の半数にもかかわらず、認定は100人を超えています。
国 | 認定者数 | 認定率 |
---|---|---|
カナダ | 16,875 | 56.4% |
フランス | 29,035 | 19.2% |
ドイツ | 56,583 | 23.0% |
英国 | 12,027 | 32.5% |
米国 | 35,198 | 35.4% |
イタリア | 6,448 | 6.8% |
韓国 | 118 | 3.1% |
日本 | 42 | 0.3% |
日本はこれまでもずっと、難民をほとんど受け入れてこなかったのでしょうか?
日本が難民政策に取り組み始めた1970年代には、多くの難民を受け入れていたんです。
1975年にベトナム戦争が終わり、ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ3国が社会主義体制に移行するときに多くの難民が生まれました。その際、日本にも多くの難民がやってきたんです。先程お話した「ボートピープル」と言われる人たちですね。
当時日本は、国外からの「経済大国の日本も難民を受け入れるべきだ」という声を受け、インドシナ難民の受け入れを決定。家族の呼び寄せなどもあわせると2005年までのおよそ30年間で1万1,000人以上のインドシナ難民を受け入れてきました。
しかし、あくまで特例的なもので、その他の国の難民はほとんど受け入れてこなかったのです。
インドシナ難民に限って、たくさん受け入れてきたのですね。
日本の認定率がこれほど低い理由を具体的に教えてください。
おそらくその理由の一つは、日本で難民認定を担当している機関が法務省の出入国在留管理庁※であることだと思います。
※ 2019年4月に「入国管理局」から庁に昇格した。
出入国在留管理庁が何のためにあるかというと、通常は日本に入国してくるさまざまな外国籍の方を「管理する」、言い換えれば危険がないかどうか、という視点で外国人の入国を制限したり取り締まる役割をもつ機関です。難民を「助ける」ための機関ではない。
入国管理をすることはもちろん大切です。しかし、危ない人かどうかを見極めるために必要な知識・経験と、この人を国に送り返したら、どれくらい迫害のリスクがあるか見極めるために必要な知識・経験は全く異なります。難民を「保護」するという観点にたって作られた組織ではない、というのが審査の厳しさの根本にあるのではないでしょうか。
この構造を変えるためには、世論を巻き込んでいかないといけませんが、まだまだ社会の問題意識は高くなく、政治課題としての優先順位も低いままです。
なるほど。入管というと日本に入国する外国人が、日本の滞在にふさわしいかどうか判断するという大事な働きがありますよね。その前提としては「人を疑ってかかる」必要がある。
それに対して難民保護は人道的な見地から受け入れようという概念ですから、根本的に異なる論理で動く別組織である必要があるということですね。
難民認定を担う専門機関がなく、入管が行っているという点以外にも、問題はありますか?
私たちの見解では、他にも制度的な問題があると考えています。
日本は「難民条約」※に加盟しています。その条約に加盟した国は「難民を保護します」ということになっているのですが、保護の対象となる難民の基準は、各国が独自に定めているんです。
日本の場合は、非常に厳格な基準を設けています。その一つが「個別把握論」と言われる考え方です。「政府から個人的に把握され、狙われていなければ難民ではないと」いう日本独自の見解です。
この個別把握論の下では反政府のデモに参加した、というだけでは迫害の対象になっていると認める理由にはなりません。加えて、同国政府から「この人」を迫害するという指定が明確でなければならないのです。この要件を満たすのは非常に大変です。
もうひとつ、立証責任の所在が申請者に重く課せられていることが日本の難民審査の特徴といえます。
命からがら逃げているときに、自分が難民であることを証明するものを持ち出せるかというと、なかなか難しいのが現状です。
証拠を持ち出す余裕がないこともありますし、証拠を持っていることで、身元がばれて逆に危険な目にあってしまうケースもあるのです。
ほかの国だと、どのように難民認定されているんですか?
他国だと、一人ひとりの個別ケースだけでなく、申請者の出身地域の状況に即して判断されることも多いようです。難民認定機関が各地域の最新情報を詳細にもっているため「この地域にこの時期にいて、このプロフィールに当てはまる場合、迫害の対象になりうる」というように、申請者を取り巻く状況から認定することが可能となっています。
内戦が激しい地域の住人や、政権に迫害されている民族・宗教だったら、その人たちを取り巻く状況から難民認定されると。
でも、「個別把握論」を掲げる日本では“その人たちの状況”ではなく、“その人個人の危機”を具体的に自分で証明しなければならない…。想像しただけでもとてもハードルが高いですね。
難民申請の手続きもとても大変です。これを見てください。(ドン!)
この書類の山は一人の難民のために使われた、申請書類と証拠の書面です。
ものすごい量ですね…。
申請書類は多言語での提出が認められているのですが、証拠書類は日本語訳を付けなければなりません。
難民申請に慣れている人はいませんし、ましてや日本語での文書作成などできる人はほとんどいません。私たち難民支援協会では、そうした申請時の書類作成のサポートも行っているんです。
これだけの書類や証拠を用意するのは、本当に骨の折れる作業ですね。1万人もの申請者がいるということは、入管の担当者も目を通すだけでも大変ですね。
そうですね。出入国在留管理庁の人にとっても酷な作業だと思います。彼らはもともとローテーションで配属されている人たちです。これまで扱ってきた業務と全く異なる難民審査をいきなり任されるわけですから、相当な負担だと思います。専門機関がない故の、限界なのかもしれません。
ところで、難民認定されると何ができるのでしょうか?
まず、日本に在留することが認められるので、母国へ強制送還される恐怖から解放されます。強制送還の不安と隣り合わせで生きていた人が、難民認定によってようやく安心して日本に滞在できるようになるんです。
それに加えて、健康保険に入ったり、就労の権利、また生活保護などの保証の対象になったり、いわゆる日本の公的サービスを受けることができるようになります。
永住権のようなものなんでしょうか?
永住とはまた違って、定住者という更新可能な5年間の在留資格を得られます。何度か更新すると、永住権の取得や日本国籍への帰化といった選択肢も視野に入れることができます。一度難民認定されれば、基本的に更新することが認められている在留資格です。
そうした社会的コストを抑えるために、認定を厳しくしているという面もあるのでしょうか?
現状として日本の国家予算に比べて、莫大なコストがかかっているわけではありません。
ですから難民認定が厳しいのは、コストとは別の力学が働いているのだと思います。
このような話を聞くと、書類の準備やサポートなど、難民支援協会のような団体がいないと成り立たない制度のように思えます。
他にも難民支援の団体として有名なものに、国連機関のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がありますよね。日本にも支部があります。そうした団体とはどのように協力しているのでしょうか?
私たちはUNHCR駐日事務所のパートナー団体として、日頃から連携して活動しています。
UNHCRの役割は、その国が難民条約に入っているかどうかで異なります。
難民条約に入っていない国であれば、政府に代わってUNHCRが難民の審査を行ったり、難民キャンプを運営したりして難民を直接支援します。ちなみに、UNHCRの審査で難民として認定された人は、「第三国定住」という枠組みで別の国へ行くチャンスがあります。第三国定住とは、すでに母国を逃れて難民となっているものの、一次避難国では十分な保護を受けられないことなどを理由に他国(第三国)へ行くことを希望する人を、受け入れに同意した第三国が迎え入れる制度です。
しかし日本の場合は難民条約に入っているので、日本政府がルールを決めて、日本の法務省出入国在留管理庁が難民の審査をしています。
そうした国ではUNHCRはオブザーバーとしてアドバイスを行う立場になります。それ以上の介入はできないんです。
UNHCRは、政府が行う難民の直接支援には関われないため、私たちのようなNGOと連携し、一緒に日本の難民保護を良くしていこうと取り組んでいます。
こうした枠組みの中で活動していると、私たちも日本政府や出入国在留管理庁に物申したいような気持になることもありますが、批判してばかりだと対話になりません。私たちとしても、提言などをしつつ、対話ができる関係性を構築することを心がけています。
難民を支援する枠組みもなかなか複雑ですね…。
日本での難民受け入れが厳しいことはわかりました。これだけ厳しいんだったら、先程の第三国定住のように、他の国に行くことはできないんでしょうか?
基本的にはできないんです。
日本のパスポートはとても強いので、日本国籍の人はあまり意識したことはないかもしれませんが、ビザがないと入国できない国ってありますよね。
例えばアフリカの国出身の人が外国へ渡航しようとすると、どこに行くにもビザが必要になるんです。日本に来る場合も、みなさんまず観光ビザを取得して、入国します。
来日してから今度はアメリカに行きたいと思った場合、新しくアメリカのビザが必要になります。
アメリカのビザを取るには、アメリカ大使館に行って事情を説明しないといけませんが、難民申請のためにアメリカに入国するようなビザはありません。観光ビザを取得するにしても、日本にいる理由(=難民であるということ)を話せば、「日本も難民条約に加盟しているのだから、日本で難民審査してください」ということになります。
一度母国に帰って、アメリカ大使館でビザ申請をすれば、渡米できるかもしれませんが、それには資金もかかるし命のリスクもあります。
加えて、この事務所に来る人をみていると、日本に来るだけで資金を使い果たしている人も多いので、他の国に行くということは、経済的にもなかなか現実的ではありません。
これだけ難民認定が厳しいことがわかっていたら、日本には来なかったでしょうね。
実際に難民の方からも、そうした声が多いんです。
残酷なのは、日本は難民認定は厳しい一方、入国はそこまで難しくないということかもしれません。「一番早くビザが取れたから」という理由で日本に来て、来日後に日本の難民認定の現実を知り、絶望する人をたくさん見てきました。
なんだか日本に来た、というのはハズレくじのようですね。
完全にハズレくじですよ。
次回は、日本に来た難民の方々が、どんな生活を送っているのかをお聞きします。
後編はコチラ!外国人労働者は使うけど、難民は救わない日本。 2019年4月、改正出入国管理法(入管法)の施行が始まりました。 今回の入管法改正で変わった点は、一定の技能を持つ外国人に対して、「特定技能」という新たな在留資格を与えられる…
海を渡って日本にやってくる人々の中には、「難民」と呼ばれる人たちがいます。
母国で紛争に巻き込まれたり、政治的弾圧で命の危険にさらされる中、「偶然手に入った観光ビザが日本だった」という理由ではるばる日本へやってくるのです。
しかし、日本は難民条約に加盟しているものの、難民専門の機関を持たず、難民の認定基準が非常に厳格な国。申請してもほとんど認定されず、難民にとっては「ハズレくじ」の渡航先であるとも言えます。
では、実際に日本にやってくる難民の方々は、どんな人たちなのでしょう?
そして、これだけ難民に対して厳しい日本で、どのような生活を送っているのでしょうか?
前回に引き続き、認定NPO法人難民支援協会の広報・野津さんにお話を伺います。
前編はコチラ!1999年に設立された非営利団体。
「難民が新たな土地で安心して暮らせるように支え、ともに生きられる社会を実現すること」をミッションに掲げる。
日本に来た難民の方々に、法的支援や生活支援、就労支援を提供するとともに、難民政策に対して日本政府に対して政策提言をするなど幅広い活動をしている。
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インタビュー!
前回のお話で、命からがら逃げてきた難民にとって、日本はとても厳しい国だとわかりました。ところで、実際に日本に来る難民の方たちは、どういった人たちなんですか?
典型的な例だと、男性が家族を母国において単身で来るケースです。難民認定されると家族を呼び寄せることができるので、身動きのとりやすい男性が来ることが多いのです。
ただ、認定がなかなか取れないと離れ離れの状態が長く続いてしまいます。
難民の方々も、難民になる前は家があって仕事があって、普通の生活をされていた方がほとんどです。
反政府デモに参加したことから政府関係者や警察に目を付けられ、最終的に自分の命も狙われていると聞き、逃げざるを得なくなった方や、性的マイノリティや少数民族という理由で迫害されたりするケースもあります。
そのような方たちが、難民支援協会の事務所にいらっしゃったときは、どんな様子なんですか?
やはり精神的に不安定な状況で来る方もたくさんいます。個室で一対一で話し合っているときに、泣き崩れてしまう方も少なくありません。日本の難民認定状況を知らないで来日した方は、難民認定率の低さを知って、絶望するのです。
実は、難民の方にとって、一番恐ろしいのは母国に返されてしまうことです。難民であるということは、帰ると命の危険があるということなので。
そのため、私たちが一番避けなければならないのは、彼らの強制送還なんです。
強制送還されなくても、日本でサバイバルすること自体、簡単ではありません。知り合いが一人もいない日本で、NGOや政府の支援にたどり着くまでにどう生き抜くか、というのも大変です。母国から遠く離れた異文化の日本では、支援者とつながるだけでも一苦労なのです。
実際にあったケースをお話します。
アフリカからやってきた来た方が、成田空港のwifiを使ってインターネットで私たち難民支援協会のことを見つけました。そこまでは順調だったのですが、空港から都内の事務所にどうやって行こうか、迷いました。
日本で生まれ育った人であれば、空港から都内までは遠いので、電車かバスで行くのがいいかな、と考えると思います。
でも、外国、特に途上国から来た人であれば、そうした常識なしで物事を判断しないといけません。
その方がどんな行動をとったのか?
コンゴ民主共和国出身の方だったのですが、その方の暮らしていたところには電車がないんです。電車が安い乗り物だということも、もちろん知りません。そんな中、母国でも見たことがあって「安い乗り物」という思い込みで使ってしまったのがタクシーなんです。
彼は空港に着いた時点で3万円くらいのお金を持っていましたが、空港から都内までタクシーで移動した結果、ほぼすべてのお金を使い果たしてしまったんです。
東京・千代田区のこの事務所についたときは、もうパニックのような状況でした。
この例からもわかるように、何も知らない外国で、一人の知り合いもいない中サバイバルしていくというのは、本当に大変なことなんです。
過酷な状況ですね…。
私たち難民支援協会ではシェルターを用意していますが、満室の時には一時的にホームレスをしないといけない場合があります。
アフリカの治安の悪い地域から来た人からすると「夜に公園にいる」ということは「殺されてしまいかねないものすごく危険こと」という認識なんです。だから彼らにとっては、非常に大きな精神的な負担になるんです。
だから、ホームレス状態の方に「シェルターが決まったから今日から入れるよ」と伝えると、みるみる表情が明るくなったりします。住む場所などの基本的なニーズを満たしていくことで、少しずつ精神状態が安定していくのです。
精神が安定してきて初めて、日本語を学ぼうとか、これからの道を考えてみよう、とか先の話ができるようになっていきます。
難民申請中の方は、アルバイトなどをすることもできないのでしょうか?
仕事をしていいかどうかは、就労許可があるかどうかによって異なります。難民申請をしても、すぐ就労許可が出るわけではなくて、最短でも8か月はかかってしまうのです。
就労許可が出たとしても、言語の問題も大きいです。
難民支援協会では、就労許可が出る前から働くために最低限必要な日本語や日本のビジネスマナーを教える「就労準備日本語プログラム」を行って、就労許可が出た後は企業とのマッチングなど就職までサポートしています。
とはいえ、就労許可が出たとしても、難民認定されるとは限りません。認定されるかどうかの結果が出るまで、平均で2-3年かかりますし、認定率もものすごく低い。
難民不認定となった場合、強制送還の対象となります。
再申請をすれば、その結果が出るまで強制送還を免れますが、再申請者には就労許可はでないので、生活が苦しくなっていきます。場合によっては収容施設※に入れられ、移動の自由を何年にもわたって奪われることもあります。自ら「国に帰る」と言うように追い詰めていくのです。難民不認定となった翌日に有無を言わせずチャーター便に乗せられ送還されるケースもあります。
もし、本当に本国で命の危険にさらされているにも関わらず、難民認定せずに「強制送還」してしまったら、日本がその人を見殺しにしてしまうことになるかもしれませんよね。そうした残酷さが、私たち日本人にはなかなか伝わっていない気がします。
そうですね。そこは私たちがもっと考えなければいけないところです。難民の方の個別のストーリーを伝えることができればいいのですが、難民申請がうまくいかないケースがほとんどなので、話せるものが少ないんです。
どういうことですか?
難民申請中の場合、結果が出る前にメディアで語ることは危険です。入管の人にどんな印象を与えるかによって、認定の可否に影響を与えてしまうかもしれないからです。
匿名でストーリーを取り上げることもありますが、一人ひとりケースが違うので、詳細を伝えれば伝えるほど、個人が特定できてしまいます。特定できてしまうと、様々な危険が生じる恐れがあるのです。
かといって、詳細なしで伝えたところで、なかなか人々の共感を得ることはできません。
難民認定されて日本に在留資格がある方は、本人の許可があれば、ライフストーリーを公開することができるんです。でも、認定されている人が本当に少ない。
そして、日本の狭き難民認定の門をくぐった人は、先ほどお話ししたような高い立証のハードルをクリアした方々です。母国ですでに大変危険な目にあった経験があったり、帰ったら即投獄されて死刑だろうなという人もいます。
そういう方は、トラウマがあったり、日本にいる母国の大使館関係者に会うことを恐れていたり、なかなか公に話をしたがらないことがも多いのです。
そのなかでも、紹介できるエピソードはありませんか?
話せるもので印象に残っているのもがいくつかあります。
2018年にエチオピア出身の女性が難民認定されました。でも実は、彼女が初めて難民申請をしたのは2008年のことなんです。
え、10年もかかったんですか!?
そうです。彼女の場合は、はじめの入管の審査結果は「難民不認定」。その結果を受けても、国に帰ることは危険な状況でした。そこで裁判を起こして、勝訴したんです。勝訴してやっと難民認定されました。
彼女の出身国のエチオピアって、日本だとコーヒーとかマラソンとかのイメージしかないかもしれませんが、実は言論統制が指折りで厳しい国なんです。政治的な発言、特に反政府的な発言は、徹底的に取り締まられます。ジャーナリストやブロガーは、日常的に起訴され、投獄されて二度と帰ってこない、というような国なんです。
彼女の場合は、直接政権批判をしたわけではありません。女性の権利に関わる活動をしたことで政府から目を付けられ、警察に捕まったんです。そこでなんと警官から拷問を受け、レイプされ…警察署で、ですよ?日本では考えられません。
何とかその状況から抜け出して、たまたま手に入った日本のビザを握りしめ、難民として来日したんです。
でも、日本の難民申請はなかなか一筋縄にはいきません。彼女が国に帰れないことを証明するための書類提出が必要でした。所属する団体の会員証や女性の権利について活動した証拠資料、そして逮捕状などの事実を証明するものを求められました。当然そんな資料をもって日本に来ているわけありません。逮捕状など持った状態で捕まったら非常に危険ですから、持たないで逃げることが賢明なのです。
しかし、そうした「書類」こそ難民申請の際の重要な証拠になります。彼女の場合は、家族や友人に手配して郵送してもらい、なんとか提出できました。
ところが、資料を提出した時に入管から言われたのは「これらの証拠は証拠価値がない」というセリフです。女性の権利保護の団体が実在しているか疑わしい、と言うのです。日本のように各団体がWebサイトを持っているわけではありません。客観的に団体の存在を証明できる資料を出すことはものすごく困難なうえ、出したら出したで疑われてしまう。これでは、いったいどうやって証明しろと言うのでしょう。
彼女の場合、一次審査も二次審査もダメ。裁判まで持ち込んで、やっと難民認定してもらえました。
彼女はエチオピア国内で指名手配までされていたので、もし母国に送り返したら、空港で捕まる可能性が高かった。
自分で弁護士を見つけて裁判するなんて、ほとんどの人には困難です。ここまでしないと難民認定されない現状でよいのでしょうか。
これだけ厳しい制度にすることで、人の命や人生を大きなリスクにさらしてしまっているということ。これはもっと自覚が必要だと感じます。
彼女の場合は、年間数十名しか認められない難民認定を受けることができたラッキーなケースです。それ以外の大半の方は、日本でどんどん活路がふさがっていくんです。
「難民不認定」の知らせを聞いて、就労資格が無くなり、合法的には働けないけど、国には帰れない。もう一度難民申請をしたいが、働けないでどうやって暮らしていけばいいのか…と、苦しい現実を突きつけられる人が大勢います。
そうした方々を、この国は適切に保護できていません。
10年もの間、不安定で権利がない状態で裁判を続けなきゃいけないって、とても「ラッキー」とは言い難いように感じます。
一人の人生にとっては10年どころか、1年2年でも本当に大切です。そうした期間を全く無駄に過ごしてしまっているんです。
先程おっしゃっていた、自分を特定されたら困るという、いわゆる「身バレ」を恐れて当事者が話せないというのは、他の社会問題にも通じることかもしれませんね。
でも、だからこそ周囲の人や社会がその問題に気づいて、声をあげる必要がある。
そのために広く知らせたいけど、知らせることで危険にしてしまうこともある…ジレンマですね。
そうですね。私も難民支援協会の広報をやりながら、難民問題についてリアリティをもって伝えることの難しさを日々感じています。
野津さん個人は、なぜ難民問題に関わろうと思ったのですか?
私自身は、難民問題の前に、移民について関心がありました。
高校生の時にアメリカのミズーリ州に留学したのですが、そこはそれまで思い描いていたような多様性があふれるアメリカとは違って、住人のほとんどが白人の街でした。そんな狭い、閉じたコミュニティの中で、1年間外国人として生活したことが大きなきっかけになっています。
私の場合、1年という期限付きで、事前に英語も勉強して、ホストファミリーも決まった状態で滞在しましが、それでも周りの人と見た目が違うマイノリティとして暮らし、地域に溶け混んでいくことの大変さを痛感したんです。
そこで出会った数少ない移民の中には、10年以上もマイノリティとして地域に溶け込んでいる人もいました。1年で帰れる自分から見たら「移民になるってすごいなあ」と思ったんです。
日本に帰国後「日本にも移民の人がいたら何かサポートしたい」と思い、難民支援協会のウェブサイトを見つけて、衝撃を受けました。
日本にも難民がいるということ。しかも彼らには帰れない事情があって、来たいと思って日本に来たわけではないということ。そして、日本でとても大変な境遇にあること。
私がアメリカで体験したことと比べものにならないほど大変なんだろうけれど、その経験があったから共感できて、力になりたいと思いました。
日本にいる難民の方に何かできるのって、日本に暮らしている私たちだけですよね。
それまでは、途上国での国際協力にも興味があったのですが、自分たちにしかできないこと、そしてまだまだ支援が行き届いてない日本国内の難民問題への取り組みこそ、自分がやるべきことじゃないかって思ったんです。そうして大学ではインターン生として関わり、今では職員として問題に取り組んでいます。
留学を通して、移民や難民に共感した経験がベースにあるんですね。
海外に行った経験があったりすると、言葉が通じなくて苦労した実体験があって、共感しやすいと思います。
でも、たまたま生まれた場所や時代によって、誰しもが難民になり得ます。同じ人間として共感できるポイントは、他にもたくさんあるはずです。
そうですね。第二次世界大戦の後なんかも、難民ではありませんが、多くの日本人が外国で苦しい思いをしたと聞いています。
そうですね。条約上の定義でいう難民とは違いますが、難民に近いような状況の人はいたと思います。例えば満州からの引き揚げとか。私もびっくりしたのですが、中国の駅に歩き疲れて座り込んでいる日本人の写真なんかは、シリアの紛争から逃げてきた難民が、ヨーロッパまで歩き続けて座り込んでいる人々の写真にそっくりです。
満州の件とシリア難民は事情が全く異なりますが、個人個人が置かれた境遇や苦しみは、共感できるものなのかもしれません。
ボートピープルと呼ばれるベトナム戦争による難民を日本が受け入れたときも、戦争体験者の方の声が大きかったそうです。
「自分たちも大変な経験をしたから、紛争から逃げてくる人たちを受け入れたい」という世論があったといいます。
当時はまだ、戦争の記憶が鮮明に残っていたんですね。
そういう意味で、これからの時代、難民に共感することはより難しくなると思います。私自身もそうですが、戦争を経験したことがない人が、紛争から逃げてくることがいかに厳しいか、想像することは難しいですよね。
平和とか、自由とか人権とか、そういうものって、当たり前にあると大切さを忘れがちですよね。それがなかったら何が起こるのか、普段はなかなか考えが及ばないものです。
難民の方と接していると、ふとした発言から気づかされることがたくさんあります。
ある難民の方に「日本に来て一番驚いたことは何ですか」と聞いたところ、「日本に来て2年たつけど、一度も銃声を聞かないこと」と答えました。
日本にいると想像すらできないようなことが、世界では現在進行形で起きています。
「花火は戦火を思い出すから見れない」という方もいます。花火を楽しめるということは、それだけ日本は平和だということなんです。
なるほど。戦争や紛争、虐げられる恐怖への想像力を失うということは、自分たちの生活の豊かさや平和の「ありがたみ」についても忘れがちになってしまっているということかもしれませんね。
そうぞうしよう、そうしよう
これは、私たちチャリツモの合言葉。 自分たちの境遇と全く違う人たちのことを想像することは、簡単ではありません。
自由に人を愛する、多数派ではない信仰を持つ、現政権と異なる政治思想を持つ…こうしたことだけで命が狙われる事態が、この地球上で起きています。
そして、日本もその世界の一部。経済や文化はもちろん、あらゆる側面で世界の影響を受け、同時に影響を与えていることも忘れてはいけません。
筆者の住む南アフリカでは、25年ほど前まで人種隔離政策として悪名高い「アパルトヘイト政策」が行われていました。肌の色で人々を分け、権利をはく奪していたのです。
政策は廃止されましたが、世界レベルでは、国籍や信仰の違いによって、まだまだ差別があるように感じるときがあります。
どこか知らない異国の「彼ら」の問題としてとらえるか。同じ人間としての「私たち」の問題ととらえるか。
あなたはどう感じますか?
海を渡って日本にやってくる人々の中には、「難民」と呼ばれる人たちがいます。 母国で紛争に巻き込まれたり、政治的弾圧で命の危険にさらされる中、「偶然手に入った観光ビザが日本だった」という理由ではるばる日本へやってくるのです…
* * *
パレスチナ難民の今を知るため、パレスチナに渡航したものの、気がついたらパレスチナ人大学生のヒモになっていた私。
「これじゃいけない」と奮起して、パレスチナ人の彼女にお別れをしたところまで前回お伝えした。
* * *
さて、パレスチナ難民の現状を知る旅を再開しよう(まだ始まってもいなかったのだが…)と心を新たにした私。まずは情報収拾だと、街行く人に聞き込みをしていたところ、近くに難民キャンプがあることを教えてもらった。
「難民キャンプ」と聞いて、最初は聞き間違えだと思った。
なにしろ第4次中東戦争から40年以上経っているのだ。さすがにもう難民キャンプなんてないだろうと。
その一方で、『キャンプ』と聞いてワクワクしている自分がいた。
『キャンプ』とは、明るく生きてきた者だけが参加を許される、陽の者たちの社交場。小中高大と陰の者としてスクールカーストを支えてきた私にとって、それは決して叶わぬ夢だった。
将来、私が臨終の時を迎え、走馬灯が流れても、『キャンプ』のシーンは放映されない。キャンプ経験の有無で走馬灯のエンドクレジットの長さも変わるらしい。おそらく私のエンドクレジットは三秒で終わるだろう。
「そんなにキャンプに行きたいのなら、一人で行けばいいのに」と言ってくる人がいる。
しかし、想像してほしい。私が一人で行くキャンプ、それはもうサバイバルであり、ただの野宿だ。野宿なんてお金がない時にたびたびしている。私がしたいのは『野宿』ではなく『キャンプ』だ。友人たちと山へ行き、テントを張り、河原でBBQをし、キャンプファイヤーから「燃えろよ燃えろ」で〆る。
「難民キャンプ」と聞いた私は、そんな「キャンプ」をパレスチナの地で味わえるのでは?と、胸を踊らせていたのである。
* * *
聞き込みで教えられた道を歩いて行くと“AL–AMARI CAMP”と書かれたアーチを見つけた。
確かに難民キャンプは存在した。しかし、私の切望した『キャンプ』は存在しなかった。
テントもなければBBQも行われていない。囲われた敷地にオンボロの建物が窮屈に詰め込まれているだけだ。
つくづく『キャンプ』に縁のない人生だと再認識し、難民キャンプのアーチをくぐった。
UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)によると、私が訪れたアル・アマリ難民キャンプは1949年に設立され、わずか0.096 平方km(東京ドーム2つ分ほどの面積)の中に約6100人が住んでいる。
アーチを抜け、難民キャンプ内を歩いていると男性に家へ招かれた。
男性の名前はムハンマド。17年前にここへ移り住み、金具屋を営みながら6人の家族と暮らしている。
彼は自分の窮状を伝えるために、矢継ぎ早に難民キャンプでの生活を話してくれた。
「ここでの生活は最悪だ。こんなに狭い土地に6000人が住んでいる。建物だってボロボロで、電気はよく止まる。仕事がないから金もない。だから何十年もこのキャンプから出られない」と。
UNRWAによると、アル・アマリ難民キャンプは1949年の設立以来キャンプの敷地面積は変わらないものの、人口は2倍以上に増えた。
キャンプでは人口増加によりインフラが圧迫され、電力不足による停電や下水道の故障による洪水が頻繁におきている。
しかし、イスラエルによる分離壁建設※によってパレスチナ人の移動の自由が侵害されたことに加え、ラマッラー(キャンプのある都市)の発展に伴い不動産価格が上昇し、キャンプの外に住むことができないため、難民キャンプ内の人口は増加し続けている。
また、イスラエルで働くことができる労働許可証※のキャンプ居住者への発行数が減少したことで、特に若者の失業率が高まっている。
彼の故郷について質問すると、急に黙り込み遠くを見ていた。声を大にし不満を述べていた彼とは、まるで別人のような語気で「もうあそこには戻れない」とつぶやいた。
彼は現在のベン・グリオン国際空港※の近くの村で生まれ育ったが、戦争により身の危険を感じ彼の両親は故郷を離れる決断を下した。それから難民となりパレスチナ自治区内を転々とした。その間に両親が亡くなり、彼は結婚し子供ができた。そして17年前にこの難民キャンプに移り住んできた。
長い年月の中で彼の周りの状況は大きく変わったが、ずっと変わらないものもある。 故郷へ対する想いだ。
難民となってから数十年経ったが、今でも故郷のことを鮮明に覚えているようで、実家の特徴から隣の家に誰が住んでいたかなどを詳細に教えてくれた。そして彼は何度も「死ぬ前に一度でいいからあそこに帰りたい」と言っていた。
多くの難民の方は、遠く離れた国から故郷のことを思い出す。
しかし彼の場合は違う。
ここから彼の故郷までは、車で2時間もかからない距離だ。
「それならいつでも帰れるのでは?」と思うかもしれないが、彼の帰郷を大きな“壁”が阻んでいる。比喩的な壁ではなく本物の壁だ。
イスラエル政府は2002年より、パレスチナ人による自爆テロを防ぐために、ヨルダン川西側地区との境界に分離壁を建設しているのだ。
コンクリートやフェンスでこしらえられ、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区をぐるっと取り囲んでいるこの壁の総延長は実に450kmにも及ぶ。
2004年、国際司法裁判所は、イスラエルによる分離壁建設は国際法違反とし、パレスチナ住民の人権を回復するために、分離壁の建設中止と撤去を求めた。
しかし、分離壁の建設は中止されなかった。
壁は撤去されることなく現在もパレスチナ人の前に立ちはだかるばかりか、今も新たな壁の建設工事が続いている。
ムハンマドが、故郷の場所を教えるために地図を描いてくれたときのこと。
私が何気なく「これはイスラエルの地図か」と呟いた。すると彼は「君たちにとってこれは、イスラエルの地図に見えるかもしれないが、私にとってはパレスチナの地図だ。エルサレムもガザもテルアビブも今いるここも、全て私たちの土地だ」と声を荒げた。
私はただ、うなづくことしかできなかった。
* * *
帰国する前に空港周辺を訪れ、彼の実家を1日かけて探した。
しかし、そこには彼の言っていた小屋も畑も友達の家もなかった。
そこにあったのは、ヘブライ語の道路標識とイスラエル人の家だった。
彼の愛する故郷は数十年の年月の中で、イスラエル人の愛する故郷へと変わっていた。
今もしもここに彼を連れてきたら、彼はどう思うのか考えた。
あまりにも変わり果てた故郷の姿に絶望するか?
それともこの光景から楽しかったあの頃を思い出し涙するか?
私にはわからなかった。
数十年の時を経て、イスラエルが占領した地域をパレスチナに返せば解決する、という単純な問題ではなくなっていた。
テントもBBQもキャンプファイヤーもないキャンプで、故郷とは何かを深く考えさせられる初キャンプ体験となった。
パレスチナの難民キャンプに行くと、鍵の絵を見かけることが多い。写真はパレスチナ自治区・ベツレヘムにあるアイーダ難民キャンプの入口だ。
この鍵は、イスラエル建国時に、紛争から身を守るため、現在のイスラエル領にあった自宅の鍵を表している。
ほとんどの人が、一時的な避難のつもりで家を後にしたため、今でもその家の鍵を大切に持っていることを象徴している。しかし、彼らの家があった場所のほとんどは、現在イスラエル人の家が立てられている。
* * * パレスチナ難民の今を知るため、パレスチナに渡航したものの、気がついたらパレスチナ人大学生のヒモになっていた私。 「これじゃいけない」と奮起して、パレスチナ人の彼女にお別れをしたところまで前回お伝えした。 過去…
在留資格がない外国人1,253人が、全国9ヶ所の「外国人収容施設」に収容されています。そのうち半数以上の679人は6ヶ月以上の長期被収容者です。長い人では7年もの間収容されているのだそうです。(2019年6月時点)
長期被収容者の人数は上昇傾向で、その数は2013年から2019年までの6年間で2.5倍にも膨れ上がっています。
こうした長期間の収容実態が、人道の観点から問題があるとして、日本の制度が国内外から批判が相次いでいます。
収容施設とは、在留資格がない外国人が母国へ帰還するまでの間、一時的に滞在する施設のこと。不法滞在、不法入国が確認された人のほか、危険な状況から逃れてきた難民申請中の人たちが収容されています。
日本の収容施設では、EU加盟国と異なり、収容期限が定められていないことや、一時的に拘束が解かれる「仮放免」の適用条件が厳格化されていることから、長期被収容者が増加していると言われています。
近年、こうした長期収容に抗議し、「仮放免」を求めるためのハンガーストライキが、全国の施設で実施されています。収容されている外国人たちが、食事を拒絶し、抗議の意思を示しているのです。
命がけの抗議活動による死者も出ています。2019年6月、長崎県の「大村入国管理センター」で、半年間にわたりハンストに参加していたナイジェリア人男性が命を落としたのです。
外国人収容施設での人権侵害は長期拘束だけではありません。入管職員による被収容者への「暴行」が行われたり、生活すべてが監視カメラで監視されたり、病気にかかっても医療機関の受診や薬の服用を許可されないなど、人道上の問題点は多々指摘されています。
こうした日本の外国人収容の実態に対して、国内外からの批判が続いています。
国連の人種差別撤廃委員会は施設の実態を「残虐」であると非難し、複数回にわたり日本政府に勧告を言い渡しています。
国内でも、日弁連が憲法や自由権規約に反しているとして「収容期間は原則として6カ月を限度とすべき」との勧告を出しました。
在留資格がない外国人1,253人が、全国9ヶ所の「外国人収容施設」に収容されています。そのうち半数以上の679人は6ヶ月以上の長期被収容者です。長い人では7年もの間収容されているのだそうです。(2019年6月時点)長期被…
紛争や迫害などにより住み慣れたふるさとを追われ、他国に逃れた人たちを「難民」といいます。
1948年に国連で採択された「世界人権宣言」では、“庇護を求める権利とすべての人間は差別されずに基本的人権を享受できる”ことが確認されましたが、第二次世界大戦によって急増した難民の保護のために新たな枠組みが必要だという認識のもと、1951年に開催された外交会議において「難民の地位に関する条約」が結ばれ、難民の権利を保障することが約束されました。
さらに1967年に採択された「難民の地位に関する議定書」では、51年の条約のなかにあった地理的・時間的制約を取り除かれています。
51年の条約と、67年の議定書を合わせて「難民条約」と呼びます。
難民条約では、
(1)難民を彼らの生命や自由が脅威にさらされるおそれのある国へ強制的に追放したり、帰還させてはいけないことや、
(2)庇護申請国へ不法入国しまた不法にいることを理由として、難民を罰してはいけないことなどが規定されています。
1981年に難民条約に加入した日本にも、外国から命からがら逃げてくる難民の人たちが後を絶ちません。しかし、日本の難民認定数は、他の先進国と比べ、極端に少ない状況です。
2018年に日本で難民申請したのは10,493人。そのうち認定されたのはわずか42人しかいませんでした。難民認定率はわずか0.3%でした。(認定数42人÷処理件数13,502人で計算)
ちなみに、同年の諸外国での難民受け入れ数は、ドイツ 5万6,583人(認定率23.0%)、アメリカ 3万5,198人(35.4%)、フランス 2万9,035人(19.2%)、カナダ 1万6,875人(56.4%)、イギリス 1万2,027人(32.5%)となっています。
日本の難民認定率は、どうしてこんなに低いのでしょう?
その理由の1つが、日本では戦争や内戦から逃れてきた人々を難民として、認定していないからです。
「難民認定制度の見直しの方向性に関する検討結果」という国の資料によると、「保護を必要としている避難民であっても、その原因が、例えば、戦争、天災、貧困、飢饉等にあり、それらから逃れて来る人々については、通常は、難民条約又は議定書にいう難民に該当するとはいえず、『難民』の範疇には入らないことと解釈されている」と記載されています。
(参考:難民認定制度の見直しの方向性に関する検討結果 P3/平成26年12月 第6次出入国管理政策懇談会・難民認定制度に関する専門部会)
確かに、難民条約内でも難民の定義に「戦争から逃れてきた人」は含まれていません。これは、この条約の作られた1951年当時に戦争によって生じる難民を想定していなかったからです。しかし、現在多くの国では、戦争から逃れてきた人を難民として認定しています。
また、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の公式サイトでも、「今日、難民とは、政治的な迫害のほか、武力紛争や人権侵害などを逃れるために国境を越えて他国に庇護を求めた人々を指すようになっている」と記載されています。
2019年、労働力不足解決のために入管法を改正し、外国人の在住資格を単純労働まで広げはじめた日本。
その一方で、難民の受け入れ数は世界最低レベルで、国際的な責任を果たしていないとして海外からの批判も多いのが現実です。
現在の世界情勢に合わせて、より人道的な制度運用に舵を切る日は来るのでしょうか。
紛争や迫害などにより住み慣れたふるさとを追われ、他国に逃れた人たちを「難民」といいます。 1948年に国連で採択された「世界人権宣言」では、“庇護を求める権利とすべての人間は差別されずに基本的人権を享受できる”ことが確認…
* * *
ヨルダンでのヒモ生活(前回の記事)を終え、ヒモはヒモなりに思うことがあった。
私は、よくできた人間ではないし、ヒモなだけあってよくクズと言われる。しかし、私の名誉のためにこれだけは言っておきたい。
『ヒモはヒモでも、私は善良なヒモだ』
寄生しながら外に女を作るヒモとは違い、ヒモになった相手に尽くす。私は忠誠心に厚い、いわばヒモ界の善玉菌だ。
ヨルダンでシリア難民に助けられた経験を受け、何か恩返しをしたいという気持ちが芽生えたが、何をすれば良いのか分からなかった。
とにかく何かしたいと考え「シリア難民 支援」とGoogleで検索した。
日本赤十字社が行なっている中東人道危機救援金を見つけ、寄付をした。
いつもは人からお金をもらうヒモが、他人にお金をあげるなど、天地がひっくり返るような出来事だった。
他に自分は何ができるのか考えていくうちに、自分がシリアや難民についてあまり知らないことに気がついた。
そこでまず、「シリアとはどのような国か?」「シリア内戦とは何か?」「難民とは何か?」を調べる事にした。
私は、難民の歴史について調べるうちに、パレスチナ難民という存在に出会った。
パレスチナ難民とは、1948年のイスラエル建国宣言を受け、イスラエルと周辺国との間で勃発した第1次中東戦争により、故郷を追われることになったパレスチナ人のことだ。
今でも彼らの多くは難民のままであり、2017年に実施されたUNRWA(国際連合パレスチナ難民救済事業機関)の調査では、現在もおよそ587万人もの人々がパレスチナ難民でえるとされている。
「難民」の歴史とは、彼らパレスチナ難民の歴史と言っても過言ではないだろう。
彼らの“今”が気になった私は、パレスチナを訪れる事にした。
* * *
思い立った2016年8月、イスラエルから入国し※1、パレスチナの事実上の首都ラマッラーに向かった。
パレスチナは1988年に独立宣言をしたものの、国連には加盟しておらず、日本は国家承認していない。2019年現在、パレスチナを国家承認している国は137カ国だ※2。
勢いでパレスチナについたはいいものの、一人でいるのは寂しいので、STARS&BUCKS CAFÉという某世界的チェーンに類似したお店に行き、お茶をしている女の子に話しかけた。
「日本から一人でこの街に来て、言葉も通じずに本当に寂しい。ねえ、どうしてくれる?」と。
はじめは「何このやばい人」という目で見られたが、「かわいそうだから一緒にお茶してあげる」と彼女は言ってくれた。
彼女の名前はヤスミン。私と同い年の女子大生だ。彼女が初めて会う日本人だったらしく「私のイメージしていた日本人の顔とあなたは違う」と言われた。
その後彼女と、トルコの塩振りおじさんことNusretさん※の話題で意気投合し、市内を案内してもらった。
別れ際に「あなたって本当にファニーね。学校が休みだから、明日も案内してあげる」と言われ、一緒にエルサレムに行くことになった。
* * *
エルサレムといえば、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖地があり、世界で一番カオスな街だ。
1947年に国連で、パレスチナの土地をユダヤ人とアラブ人で二分するパレスチナ分割決議が採択された。この決議案の中で、エルサレムは国連が管理すると規定された。
しかし、第1次〜第4次中東戦争で、イスラエルはパレスチナ分割決議で定められた国境を超え、領土を拡大。イスラエルの一連の行為は、国際社会からの非難を受け続け、1967年には国連がイスラエルに対し「最近の紛争で占領された領土」からの撤退を求めることになった(国連安保理決議242号)。
それでもイスラエルは1980年にエルサレム基本法を定め、67年から占領を続けてきたエルサレムを首都とした。これに反発した国際社会は、「エルサレム基本法は無効である」とし、国連加盟国に対してエルサレムからの大使館などの外交使節撤去を求めた(国連安保理決議478号)。
そのため、日本をはじめとしたほぼ全ての国が、イスラエルが首都と主張するエルサレムではなく、テルアビブに大使館を置いている。
なお、アメリカのトランプ大統領は、同決議を無視して2018年5月14日にアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。
トランプの発表についてどう思うかヤスミンに連絡したところ「ファッキン トランプ ビッチ」とコメントをくれた。
* * *
ヤスミンは日頃あまり外に出ないらしく、エルサレムの街を歩いているとすぐに休憩しようと誘ってくる。ケバブ屋やアイスクリーム屋などに入っては、「あなたお金ないでしょ」と奢ってくれる。
アイスを食べながら、パレスチナの大学生の恋バナを聞いた。ヤスミンは、一度も彼氏ができたことがないらしい。同級生もほとんど彼女と同じだそうだ。授業や休憩時間に男女が同じ空間にいるのに、一切関わろうとしないらしい。だから彼女には大学で一人も男友達がいないそうだ。
宗教的な理由が原因なのかなと思いながら「なぜ男の子と話さないの?」とヤスミンに聞くと、顔を赤らめながら「恥ずかしいのよ!」と言われた。予想外の返しをしたヤスミンに少しドキッとしながら、アイスを奢ってもらった。
その翌日も翌々日もヤスミンにいろんな場所に連れて行ってもらい、バス代を出してもらい、ご飯をご馳走になり、服も買ってもらった。
そして、気づいたら彼女のヒモになっていた…。
* * *
信じてほしい、今回はまったくの無意識だ。法律用語で言えば、善意有過失。
彼女と出会って1週間が過ぎた頃に、ヒモになっていることに気がついた。
「パレスチナ難民の今を知る」という崇高な目的を持って、パレスチナに来たはずなのに、パレスチナ人のヒモになっている自分に絶望した。水シャワーを浴びながら「俺はヒモだ。俺はクズだ」と100回唱えて自分を戒めた。
そして彼女に別れを告げることにした。
夜ご飯を食べながら「明日旅立たないといけない」と彼女に伝えた。
彼女は「この1週間本当に楽しかった。ありがとう」と言ってくれた。今までの感謝の意味を込めて、ディナー代を払おうとすると、彼女が突然「ムシケラ、ムシケラ」と叫び出した。
「お金を払おうとしているのに、なぜムシケラ呼ばわり?最後の最後で、ヤスミンも堪忍袋の尾が切れたか」と思っていたら、「ムシケラ」とはアラビア語で「問題」という意味の単語らしく「お金を払うなんてあなたらしくない。私に払わせて」と言われた。
結局彼女がお支払いをし、彼女をバス停まで送って行った。
感謝を込めて握手をし、彼女はバスに乗り込んだ。
走り出したバスが、離れて行くにつれ、霞んで見えた。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と聞いて、特色や違いが分からない人が多いだろう。そこで今回は、3つの宗教の関係を牛丼屋に例えてわかりやすく解説していく。
3つの宗教の中で最初にできたのはユダヤ教。次がキリスト教。最後にイスラームだ。
1899年に創業した吉野家がユダヤ教、1968年に創業した松屋がキリスト教、1982年に創業したすき家がイスラームと置き換えることができる。
ユダヤ教では神のことを「ヤハウェ」、キリスト教では「ゴッド」、イスラム教では「アッラー」と呼ぶ。
吉野家とすき家では牛丼のことを「牛丼」と呼び、松屋では「牛めし」と呼ぶ。呼び名が違うだけで、牛めしを注文しても出てくるのは牛丼だ。
老舗の吉野家、味噌汁が付いてくる松屋、バリエーション豊富なすき家というように、各社それぞれオリジナリティがあり、トッピングやサービスに違いがある。しかし、牛丼屋という点では共通している。
同様に、老舗のユダヤ教、三位一体が付いてくるキリスト教、戒律が豊富なイスラム教というように、各宗教それぞれオリジナリティがあり、礼拝の仕方や何に重きを置くのかなど違いがある。しかし、同じ神を信仰しているという点では共通している。
* * * 難民のために、何ができるか考えてみたヒモ。 ヨルダンでのヒモ生活(前回の記事)を終え、ヒモはヒモなりに思うことがあった。 私は、よくできた人間ではないし、ヒモなだけあってよくクズと言われる。しかし、私の名誉の…
* * *
私は22歳の大学4年生だ。
苦手な物は、爪切り、マネタイズ、マーケティング。
自称ジャーナリストとして、パレスチナやトルコで難民の方を取材し、記事を書いてきた。
私は、自分の爪を自分で切ることができない。自分の体の一部である爪を自分で切るなんて、あまりにも残酷だ。大学生になるまで、おばあちゃんに爪を切ってもらっていた。
大学進学のため東京に上京した。上京して2週間が経ち、伸び切った自分の爪を見て、背筋が凍るような恐怖に襲われた。「一体誰がこの爪を切るんだ」と。
爪だけではない。靴紐も結べないし、缶コーヒーの蓋も開けられない。このままではマズイと思い、考えた結果、彼女に爪を切ってもらうことにした。
私はこれまで取材のために一年の半分を海外で過ごしてきた。海外へ行くと日本との違いに驚くことがある。一方で、日本でも海外でも変わらない物もある。
爪は伸びる、ということだ。
伸びる爪を切るために、世界各地で爪切り人を見つけて来た。そして、ヒモになってきた。科学的データはないが、他人の爪を切れる人とヒモ男との相性は抜群だ。
生き抜くためにヒモになってきた私だが、今回はシリア難民のヒモになった話を紹介する。
* * *
大学の授業でペトラ遺跡を知り、その壮大さに感化され今から3年前にヨルダンを訪れた。
飛行機を乗り継ぎ首都アンマンの空港に到着、そこからバスに乗った。空港からヨルダン市内に行くには、バスの終点まで行き、そこからタクシーに乗るのが一般的だ。しかし「10km以内は歩く」という自分ルールに則り、私はバス停からホテルまで、7kmの道のりを歩いた。
初めて歩く中東。灼熱の太陽、砂混じりの風、どこまでも広い空、全てが新鮮だった。
そんな高揚感に包まれながらの7kmはあっという間だった。街の中心部に着き、人混みを歩いていた。お腹が減ったので屋台でご飯を買おうとポケットに手を入れた。
しかし、もぬけの殻だった。
バスを降りるまで確かに感じていたポケットの重みを今は感じない…。
今まで何不自由なく生きてきた。しかしある日突然全てを失った。自分はこの場において1番弱い存在だと感じ、その場に立ち尽くした。頭の中が真っ白になり徐々に意識が薄れていく…
そんな中、突然右肩を叩かれた。ビクッとなりながら振り返ってみると、1人の男が立っていた。私の不安に覆われた瞳を見て、彼は慌ててけれど優しくこう言った。「大丈夫か?」とても拙い英語だった。しかしそんな事どうでも良いくらい、その言葉は私を落ち着かせた。
「財布と携帯を無くした」と私は答えた。
彼はそれを聞いて笑みを浮かべながら「なんだ、そんな事でこの世の終わりみたいな顔をしていたのか」と言った。
その時はまだ理解できなかった。なぜ彼が私の境遇を聞いて笑みを浮かべたのか。そして「そんな事」扱いできるのか。
彼は続けてこう言った「俺なんか故郷を失った。家も仕事も友人もそして愛すべき家族も。でもこうして生きている。だからお前も大丈夫さ」と。
言葉の意味を理解できずにポカンとしていると、英語が通じなかったと勘違いした彼がGoogle翻訳で説明してきた。
* * *
彼はシリア難民だった。
シリアは内戦中で、ヨーロッパに大量の難民が逃れていることは知っていた。しかしそれ以上興味はなく、ヨルダンにシリア難民がいることは知らなかった。
彼は、私が初めて出会った難民だった。
自分と似た境遇の人に出会い、少し安心したと同時に、「彼も難民という苦しい立場なので私を助ける余裕はないだろう」と思った。
そんな打算をしていた私に対し彼が言ったのは、衝撃的な一言だった。
「お前、大丈夫か?俺の家に泊めてやるよ」
自分には理解できなかった。彼は難民で生活が苦しいはずなのに、なぜ初対面の外国人を助けるのか。
自己責任論が隆盛を極め、自分の生活が苦しいからと生活保護受給者を攻撃する日本で育った私には、彼の慈愛の心が奇妙に感じた。
私は彼に聞いた。
「なぜ私を助けるの?」
彼は答えた。
「困っている人を助けるのは当たり前だろ」と。
「あなたは難民で生活が苦しいだろう?別に私を助けなくてもいいよ」と私は返した。
すると彼は、「確かに俺の生活は苦しいかもしれない。でも今困っているのはお前だろ。だから助けるんだよ」と言ったのだ。
深い愛に満ち溢れた彼を見ていると様々な感情が浮かび上がり、涙が出てきた。
歩いて彼の家に向かった。喪失感を抱えながら歩いていると、とてもとても長く感じた。彼が指差した家はとても古い家だった。彼の家に入ると1人の老婆が私を迎えてくれた。彼の母親だ。
床に座っていると、「お腹が減っているだろ」と言ってパンを持ってきた。日本で食べるようなパンではない。何も味がついてない小汚いパンだった。しかし、今でもあのパンを超える食べ物に出会っていない。そして生涯出会わないだろう。
パンを食べながら、私たちは自己紹介をした。
彼の名はアリ。ダマスカス出身の26歳だ。シリアで内戦が勃発した後、ヨルダンに逃れ、一緒に逃れてきた母親と2人で暮らしている。彼には私と同い年くらいの弟がいた。しかし、弟と父親は内戦で犠牲になったそうだ。
彼らのご好意で、帰りの飛行機まで彼の家に泊めていただいた。2週間ほど彼の家に泊まり、食事を頂き、街を歩き、彼らと話す日々。
彼とは片言の英語、お母さんとは全く言葉が通じなかったが、毎日笑いが絶えず本当の家族のようだった。
もちろん、彼のお母さんに爪を切ってもらった。
爪を切ってと頼んだ時のお母さんの顔を今でも忘れられない。自分の爪は自分で切ることは万国共通だと知った。
彼と彼のお母さんのお陰で自分は生きていると感じ、感謝してもしきれないほどの恩を受けた。
* * *
帰国の日になった。しかし、日本へ帰りたくなかった。今日彼らと別れたら二度と会えない気がしたからだ。彼らに「帰りたくない」と伝えた。
すると彼はこう言った。
「帰らなきゃだめだ。日本には君の帰りを待つ人がたくさんいるだろ。愛する人が帰って来ないつらさを俺は知っている。ふとした時に胸が張り裂けそうになる。だからお前は帰るんだ。俺みたいな人をこれ以上増やしたくない。だからお前は帰るんだ」
「分かっている。でも二度と会えないかもしれないじゃないか」と私が返した。
すると彼のお母さんが、泣いちゃだめだと言わんばかりに優しく抱きしめてくれた。
さらに彼はこう言った。
「確かにそうかもしれない。俺たちだって会えないのは悲しいさ。でも会う事よりも大切なのは、お互いが同じ気持ちを持って生きて行くことだ。俺がともみにしたように、誰か困っている人をともみが助ける度に、ともみは俺らの事を思い出すことができる」と。
私はその言葉を胸に刻んだ。彼らとの思い出を忘れない為にも、そしていつの日か彼に会った時に胸を張れるように、彼のような立派な人間になると心に決めた。
結局ペトラ遺跡には行けなかったが、自分の人生においてとても重要な2週間になった。
人の温かみを知り、“目の前に困っている人がいたら助ける”という当たり前だが、とても難しいことを改めて教えて貰った。それと同時に、彼らシリア難民の為に自分も何か恩返しがしたいと思った。
でも、この時はまだ何をすれば良いのか分からなかった。
…次回に続く
「UNHCR」によると、紛争や暴力・迫害などが理由で住む家を追われた人の数は、世界で6850万人(2017年末時点)。
6850万人のうち、国内避難民が4000万人、難民が2540万人、庇護申請者が310万人となっている。そのうち、シリア難民の数は約630万人。
「難民受け入れ」と聞くとEU諸国を思い浮かべるが、世界で一番難民を受け入れているのはシリアの隣国「トルコ」で、約350万人もの難民を受け入れている。
ヨルダンは、シリア難民以前からパレスチナ人やイラク人などを難民として受け入れて来た。そのため、ヨルダンに住む人の14人に1人が難民と言われている。
ヨルダンに暮らす約64万人のシリア難民のうち、約15%が難民キャンプに、残りの約85%は難民キャンプの外で暮らしている。
ユニセフの最新の調査によると、ヨルダンに住むシリア難民の子どもの85%が、貧困ラインを下回る生活をしており、食料不足や児童労働などの問題を抱えている。
これらを解決するために日本政府にできることは、シリア難民の支援に取り組むヨルダン政府へ対する金銭的支援のみならず、ヨルダン1カ国に難民を押し付けるのではなく第三国定住制度(※)を活用しヨルダンから日本に難民を受け入れる必要があると考えられる。
* * * 私は、自分の爪を切れない。 私は22歳の大学4年生だ。苦手な物は、爪切り、マネタイズ、マーケティング。自称ジャーナリストとして、パレスチナやトルコで難民の方を取材し、記事を書いてきた。 私は、自分の爪を自分で…
エルサルバドル、ホンジュラス、ガテマラ、ニカラグアなどの中米の国々は、著しい貧困や治安の悪化、組織的暴力、さらに表現及び言論の自由の欠如といった問題により、一般市民の日常生活が脅かされています。
こうした状況を背景に、アメリカへの移住を目指し、中米(特にホンジュラス)から約1万人が集団「キャラバン」で北上しており、世界から注目を集めています。
今回のキャラバンはSNSでの呼びかけがきっかけになったもの。はじめは150ほどだった参加者が徐々に増え、今では参加者は1万人近くとも言われている。
これに対し、共和党のトランプ大統領は「野党である民主党の甘い移民政策のせいで、アメリカが侵略されようとしている」と、一貫して民主党を批判しています。
今回の集団北上を受け、アメリカは、アメリカ・メキシコ間国境の警備強化のために、2億1,000万ドルの予算を投じ、約6,000人の兵士を派遣しました。
国境を渡ってくる難民申請者に対し、軍隊を持って対峙する姿勢を明らかにしたのです。
会見でオショネシー司令官は「国境の警備は国の安全保障問題だ。国防総省は国境警備に必要な支援を続ける」と述べました。また、トランプ大統領は、ツイッターに「移民集団には、大勢のギャングや非常に悪いやつがまじっている。これはわが国への侵略であり、軍が待ち構えているぞ!」と書き込みました。一貫して「不法移民」に対する厳しい姿勢を示し、共和党支持層へのアピールをしました。
一方、こうしたアメリカの姿勢に対して、国内外からの反発が止みません。国際法およびアメリカの法はともに、難民または政治的亡命者(Asylum seeker)の受け入れは、罰則こそないものの先進国の責任としています。つまり、政治経済または治安的情勢の厳しい国から、近くにある先進国へ政治的亡命することは、基本的人権として認められているのです。
難民の受け入れを拒否することは、いかなる方法で入国した場合でも、人権問題や国際問題となります。
アメリカは、中米の市民にとって地理的に一番近くに存在する先進国に当たります。また、中米の情勢を考慮すれば、北上してくる人々が、難民あるいは政治的亡命者と考えられます。
これまでも、国際法を度々無視してきたアメリカですが、本件も例にもれず、難民申請拒否を正当化するために、新たな法的措置の執行(特定の難民申請方法以外による難民申請の拒否)を検討しました。しかし、その発表後間も無くアメリカ連邦裁判所より、措置の差し止め処分を下しました。
アメリカは今後、メキシコとの国境に押し寄せる難民申請者に対して、どのような対応をとるのでしょうか。
今、世界中が注目しています。
エルサルバドル、ホンジュラス、ガテマラ、ニカラグアなどの中米の国々は、著しい貧困や治安の悪化、組織的暴力、さらに表現及び言論の自由の欠如といった問題により、一般市民の日常生活が脅かされています。 こうした状況を背景に、ア…