精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第4回(最終回)。
“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話ししてきたこの連載。最終回の今回は、イベント終盤に行われた参加者からの質疑応答の場面の様子をお伝えします。
精神科医。医師として臨床に携わる傍ら、翻訳家としても活躍。
2019年に刊行した初の翻訳書「精神病理学私記」(日本評論社)が日本翻訳大賞を受賞。同書は現代精神医療の基礎を築いたアメリカの精神科医H・S・サリヴァンが生前に書き下ろした唯一の著作で、サリヴァン自身の性指向とアルコール耽溺を参照軸としつつ、スキゾフレニア、パラノイア、そして同性愛などを語る内容となっている。
また、翌2020年に出版した2冊目の訳書「レイシズム」(講談社学術文庫)は、日本人論の古典「菊と刀」でも知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「RACE AND RACISM」の新訳書。1940年に発表され、「レイシズム」という言葉が広く知らるキッカケとなった本作を、多くの人に読んでもらえるよう平易な言葉で新たに訳し下ろした。
社会学者・大阪市立大学 都市文化研究センター 研究員。主たる研究テーマは「ハーフ」と「よさこい踊り」。
2019年に出版した「ふれる社会学」(北樹出版)は、メディア、家族、労働、余暇、ジェンダー、セクシュアリティ、差別、人種などの視点から、身近でエッジのきいた14のテーマを読み解くことを通して、社会の大きな仕組みにふれる入門書。飯テロやスニーカーといった題材から、日本初「ハーフ」の章がある社会学の入門書としても注目されている。刊行後、たちまち4刷。
た・い・だ・ん
スタート!
私が個人的に気になっているのは、“ハーフ”という言葉がもつ「美しい」「デキる」「かっこいい」というようなポジティブな意味合いについてです。
以前読んだある本に「(絶対的な)美しさなんて存在しない」と書かれていて、自分も共感ししたのですが、一方でハーフの人に対して「美しい」と感じる感覚が自分の中にあることも事実です。美しいと感じているのか、感じさせられているのかわかりませんが…。
これって「ルッキズム※」にも繋がると思うんですが、こうしたポジティブな思い込みについてお二人の考えを聞きたいです。
理想の身体ってありますよね。ある種の理想の体形とか、顔とか。今日僕はヒゲを剃ってここに来たわけですが、それは僕自身が「ヒゲがないほうがマシだ」と思っているから、剃ってきたんですよね。
「美の神話」という言葉もありますが、今の自分が持っている美の感覚って、急にポッと出てきたものではありませんよね。全員に共通にシェアされているものでもない。この社会で暮らすなかで、いつのまにやら自分が身に着けた価値観なんです。
例えば「平安美人って、今の日本の美人の基準と一緒?」って考えてみるとわかりやすいかもしれません。美しさの基準は常に変容しているし、社会的に作られるものなんです。
「美しさはない」って言葉の裏にあるものはそれで、自分が囚われている美しさは、社会的に構築されたものだってこと。
この「美しい」というのはただ作られるだけじゃなく、人間には「かっこいい」だったり「かわいい」って言われたい欲望があるじゃないですか。なんだかんだそう言われると嬉しい。でも「美しい」とされるものは常に変遷してきたんです。
現在は、ハーフモデルやハーフアイドルが「容姿端麗な欧米白人系」の美しさと結びつけられた構造が、残存している状況です。
90年代と2000年代に、ハーフモデルブームが2回あったんですけど、その度に白人系と結びつけられた美の基準がリマインドされました。
でも、一方で「オルチャンメイク」が流行ったりと、美の基準はいくつかあって、どれも何度か流行となってリマインドされるんです。
そうした美の基準に人種が重なっているのが「ハーフブーム」と言えますね。
“ハーフ”って言葉が流行った頃、あるモデル事務所に所属しようとした日系ブラジル人の女性が「ブラジルハーフ」として名乗るように促された経緯について書かれた論考があります。「日系」って言葉を使うと、労働者のイメージがつくから、「ハーフ」って言葉を使え、と。言葉の使い方でも、美しさは構築されるんです。
大学で授業をしていても、さんざん“ハーフ”について話したのに「それでもハーフになりたいです」って言う人もいるんです。その時は「君がなりたいハーフってだあれ?」って聞くようにしてるんですけどね。
理屈で分かっていても、ルッキズムに向かってしまう自分の欲望と、どう向き合うのかは、難しいところです。重要なのは、美の神話性を知ることで、自分の思っている以外の美しさもあり得るという余白に気づくこと。
そうした些細かもしれないけれど、重要なポイントに気がついて、声をあげることが大切なのではないかと思います。
日本って同調圧力が強いですよね。ハーフ論が成り立つのは、日本だからだと思います。アメリカだとそれほど成り立ちにくいと思うんです。移民社会ですし、“ハーフ”ばかりです。それに比べると、日本は同質性が高いと思います。
うなずきがたいところもありますが…。
空気を読むことが大事な社会で、周りに合わせないと生きていけない。こうした風潮が一番の問題なのではないでしょうか。
まず、日本が同質的な社会だというのは「神話」だと思っています。
例えば「日本人は無宗教だよね」というのは、そうでない人たちは弾圧され、殺されてきたからです。キリスト教徒を厳しく取り締まっていた時代もありますし。
一方で、文化庁の宗教統計調査の結果をみると、さまざまな宗教の信者数の合計が日本の総人口を上回る※という大変興味深いデータもありまして、僕たちの思い描いている「日本人イメージ」はけっこう根拠があやしかったりします。
また「日本人が集団主義的だ」というのも、立ち止まる必要があるように思います。
これだけ自己責任論が人気を博して、異議申し立てや助け合いの芽を摘もうとしてしまう言説があふれていることをどう考えればよいか…とは思いますが(笑)
では、アメリカで「ハーフ論」なるものがあるかというと、Mixed Race Study(ミクスド・レイス・スタディ)というものがあります。
ハワイ語では「半分」という意味のHapa(ハパ)という言葉も使われます。
ハーフに類する言葉があるのは、日本だけではないんです。
ちなみに日本には「ハーフ論」はありません。なぜないかというと、それだけ無視され続けてきたということです。ないからこそ、あえて「ハーフ・スタディーズ」という看板を掲げてもよいとは思いますが、挑戦的に受け取られるように思います。めげずにやろうとは思いますが(笑)
歴史を遡れば、織田信長に仕えたアフリカ系の侍・弥助だっていました。いつの時代にも、多様なルーツをもつ人々はいたのに、「同質的だ」という言葉で抑え込んで、歴史を作り変えてきているんです。この同調圧力的なものは、日本社会の根本にあるものではなく、前提にあるものでもありません。それを維持させようとする力がどう働いているのか、注目する必要があります。「均質的な日本」と言った時に、在日コリアンの差別の歴史とか、沖縄の地政学的なものを消し去っているような気がするんです。
均質的じゃないけど、均質にしようとしてきた社会なんだってことなんですよね。
そしてそれは、日本だけに言えることなんですかね?
同質性が高いのは人間、人類そのものだと思います。千年前の人類も、二千年後の人類も、大きく変わらない。
均質性を求めるのが人類だとしたら、それをどのように乗り越えるのかを考えないといけないね。
均質的な社会だからどうのこうのって話ではなくて、放っておくと人間の間では同調圧力が働くのではないでしょうか。その同調圧力が悪いほうに働けば、差別やレイシズムになる。
社会学が生まれたのは、都市ができてからなんです。都市化するなかで、人間関係やパーソナリティが変わってきたことへの気づきがきっかけで生まれた学問です。
都市よりも小規模の村だったら、特定のスペースで人に会ったら「おはよう」って言っていたのに、ある一定の規模以上になる(都市化する)としなくなる。規模が大きすぎると同調圧力が働かなくなります。
同調圧力が働かない大きな規模の社会をむりやりまとめようとすると、数々の規律訓練を入れたりしないといけなくなるんです。戦時中の日本がさまざまなメディアを介して「日本らしさ」を喧伝したり、暴力によって市民を弾圧していたことがわかりやすい例かもしれません。
そういう意味で、“同質性の高い日本”は、人為的に作られていると思う。
日本以外の所でも、条件がそろえば同じことが言えるよね。
同じ失敗を繰り返すのはクールじゃないし、私たちは歴史から学ぶ必要があると思うな。
年齢のことを聞くことについては「そんなこと聞いたら失礼かな」と配慮するのに、“ハーフ”や海外にルーツを持つ人に対しては、そのルーツに関してストレートに質問をすることがあるなと思いつつ、その間にあるものは何だろうと考えていました。
配慮できるのかできないのか、その違いを生むのは個人なのか、その環境なのか…。うまく言葉にできませんが、ずっとモヤモヤしています。
多分、構造としてはシンプルだと思う。
「え、ハーフなの?」って初対面で聞く人は、“ハーフ”であることを売りにしているタレント、たとえばベッキーとかウエンツ瑛士とか、そういうイメージがあって、基本的には「良いこと」だと捉えているんだよね。基本的にはこれが原因だと思う。“ハーフ”はかっこいいと思っていることがポイント。
でもその一方で、言われる方の当事者は、「いやそんな単純な話じゃないんだよ」と思ってる。ハーフって言っても色々あるからね。
社会的に「ハーフってかっこいい」と思っていることと、当事者の認識に乖離がある。その対立だと思う。
そうだね。
アメリカで、セクハラって概念が生まれるきっかけになった裁判があったんだけど、実は同時に「レイシャルハラスメント(人種的偏見に基づく嫌がらせ)」という言葉も定義づけられているんです。レイハラですよね。でも、日本ではセクハラはよく聞いても、レイハラは流行らない。
人種に関して聞くことも、ハラスメントなんです。
まあ、そもそも英語のハラスメントの概念って、日本語のそれとちょっと違うところもあるんですけどね。日本語だと「ちょっとやなことを言う」くらいに変換されちゃっているけど、実際は、ハラスメントは差別の一形態であって、重みが全然異なります。
「唐突に年齢って聞きづらいな」って思う感覚は、数十年かけてゆっくり醸成されてきたものだと思いますが、時間をかけて作られた感覚を無視して、配慮せずズケズケ聞いてくるのは「古い」ことになる。
ルーツについて聞くことに対する感覚も、同じように時間がかかることかもしれない。でも、だからこそ当事者が「やめて!」ってしっかりと伝えていくべきなんだろうね。
とにかく今はまだ、そうした質問をすることが良くないよね、って常識が浸透していない。
「ハーフなんですか?」って質問も“聞いて相手をいい気持ちにさせるフレーズ”の一つとして認識されているんだよね。美的基準とくっついてしまっている。
「スタイルいいですね」って言う位のつもりでいる人が多いですね。
そういえば、ハラスメントといえば、ある芸能人が「きれいになったと言ったらセクハラになるし、ブスになったと言えばパワハラになるし、どうすりゃいいんだよ」と言って、隣にいた芸人が「どっちも言う必要ないですから」って言ったってネットニュースになっていたよね。
言葉を失ったのではなく、人を傷つける可能性のある余計な行為を辞めようってことなんです。
ケインさんは“ハーフ”や海外ルーツを持つ人々に焦点を当てたwebメディア「ハーフトーク」
マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』という本を読んで、強烈に印象に残っている言葉があります。「再帰的無能感」という言葉です。
現代の人は「何をやってもダメなんだ」っていう経験をしすぎているというものです。
大学で授業をしても、そうした学生によく出会います。
僕はよく「社会を変えようぜ」っていうんですが(笑)、それに対してある学生が「今までそんなこと、真面目に言われたことなかったかも」と言ったんです。それを聞いたときに、(再帰的無能感について)分からなくもないなぁと思ったんです。
「今どきの若者は…」と言われ続けているし、学費稼ぐためにバイトしまくったり、就活で学生生活にかける時間を切り詰められたりと、何かと忙しいですし。何か身近な困ったことに体当たりする余裕もなくて、諦めざるをえない状況にいる人が多いのかもしれません。
「若者は政治に関心がない」と言われているけど、その理由は再帰的無能感を何度も何度も味わっているからだと思うんです。
少し前に「さとり世代」なんて言い方がありましたが、なんかその言葉がしっくりきちゃっているんですよね。本人たちも、自分で「さとり世代」って言ってますよ。
でも興味深いのは、そんな悟っている彼らでも就活はする。流れに逆らうことはせず、髪を黒く染めて、ハラスメントに耐えて。
再帰的無能感の「無能」とはつまり、能力をはく奪されているという意味です。何度も繰り返される中で、悟らされている、つまり牙を抜かれているのだと思います。だけど、牙がないと生き延びることはできない。
「最近の若者は・・・」なんて言ってる大人たちこそ、実は若者の牙を抜いているのかもしれないし、反対に、若者にばかりしっかりと牙をむくよう促して、自分たちはちゃっかりほどほどに生きているのかもしれない。
再帰的無能感を唱えたフィッシャー自身は、最後は自ら命を絶ちました。再帰的無能感の分析のなかで、憂慮の果ての選択なのかもしれません。
それにしても、「再帰的無能感」って秀逸な名前ですよね。
名前を付けることって実は重要。なぜなら人間は、名前がないと認知できないからです。
例えば「セクハラ」って言葉も、名前が付けられる前は、被害を受けているのに、沈黙せざるをえなかったりしたわけです。名前がつくことで、社会的に認知された。
言葉を使って、普及させる。地道だけど身近なところから、行動していく必要があります。私たちは、革命を起こさないといけないんです。
僕ら研究者は特権を持っていて、何かとマイクを握ることが多いんです。そのため、言葉を作って引用したり、流通させることができます。
僕が「ハーフトーク」ってメディアを作ったのも、そうした意味合いがあります。
意識しているのは、これまで注目されていなかったところに、どうやって光を当てて、世の中に流通させるか。
自分自身で言葉をひねり出すことも大切ですが、それと同じくらい、むしろそれ以上に、誰かの耳を傾けられるべき言葉を、ほかの誰かに手渡すきっかけをつくりたいとも思っています。
みんなで団結して社会に働きかける。しんどいことはしんどいって、言える社会にしたいですよね。当事者の視点から、言葉を生み出すこと。メディアを作ったり、メディアに出演するのはこうした意味があると思っています。
ここから
あとがき
4回にわたってお送りしてきた「ニッポンのレイシズム」、いかがでしたか?
日本社会にはびこるレイシズム(人種主義)を、“ハーフ”という当事者性を持つ2人の研究者が丁寧に見える化してくれた今回の対談。この社会で意識的にも無意識的にも差別されている人々に思いを巡らすと同時に、「日本人とは何か」という単純だけれど、答えのない問いを突きつけられたという人も多いのではないでしょうか。
近年、日本では少しずつ、でも着実にレイシズムが社会を蝕み続けてきました。
ネット上では中国・韓国人に対する差別発言が横行し、本屋には大量の嫌中・嫌韓本が並び、過去の日本において行われた朝鮮人虐殺などの負の歴史を否定する「歴史修正主義」が跋扈し、新大久保や川崎をはじめ全国各地で在日コリアンなどに対するヘイトスピーチが路上に溢れ、2020年の東京都知事選ではそのヘイトスピーチデモを先導してきた人物が大量得票しました。
「どうして日本はこんなにギスギスした、憎悪に満ちた社会になってしまったんだろう?」
私がいつも感じていた疑問を解くヒントは、最終回の最後のセクション「再帰的無能感」に関する話の中に隠れていたように思います。
ここ数十年、経済的にも文化的にも衰退を続ける日本はまさに「何をやってもダメ」で、日本人はとことんまで再帰的無能感を味わってきた。そうして牙を抜かれた状況でも、「生きていくために牙を向け」という圧力がかかる。それはときに「愛国心」だとか「自己責任」なんて言葉に現れるのかもしれません。
そして、抜かれた牙をなんとか取り戻そうとする反応が、同じ日本社会で暮らす人々を排除することで自分の正当性や優越性を確認する人種差別につながっているように感じます。
果たして、私たち「日本人」は「人種」という幻の枠組みにすがり(詳しくは阿部さんの訳著「レイシズム」をお読みください)、その枠組から外れた人を排除することでしか自らを定義できないのでしょうか?
そしてもう一つ、この対談を経て感じたことは、レイシズム(人種主義)という悪魔は、突然現れたわけではなく、これまでもずーっと私たちの心の中に巣食ってきたということです。
かつて関東大震災(1923年)の直後、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」などというデマを信じ込んで、民間人が中国人や朝鮮人を虐殺して回った同じ東京の路上で、100年後に在日コリアンに向けてヘイトスピーチが垂れ流されている様子を見るにつけ、私は日本社会に潜む差別意識の根深さを痛切に感じながらも、どこかで「私は違う」という思いを持っていました。
しかし今回、海外ルーツを持つ当事者である阿部さん、ケインさんのお二人が語る「日常の中の差別」に関する話の数々は、私たち一人ひとりが社会の中で植え付けられた差別意識を心の奥底で醸成し続けていることにどれほど無自覚かということに、あらためて気づかせてくれるとともに、誰もその罠から逃れることはできないのだと強く感じました。
対談の最後にケインさんは、再帰的無能感を乗り越え社会変革を諦めないために「当事者の語り」が必要だと言います。では、マジョリティの側にいる人々に求められているものはなんなのでしょう?
私は、当事者の語りに耳を傾けるとともに、その中に見えてくる「日本人=私たち」のあるがままの姿にきちんと向き合い、これからの私たちがどのようにあるべきなのかを自ら考え、だれかと議論を始めることではありませんか?
「レイシズム」の罠からは誰も逃れられないということは、言い換えれば、私たちみんなが語るべき当事者でもあるということなのですから。
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第4回(最終回)。 “ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばら…
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第3回。“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話しします。
精神科医。医師として臨床に携わる傍ら、翻訳家としても活躍。
2019年に刊行した初の翻訳書「精神病理学私記」(日本評論社)が日本翻訳大賞を受賞。同書は現代精神医療の基礎を築いたアメリカの精神科医H・S・サリヴァンが生前に書き下ろした唯一の著作で、サリヴァン自身の性指向とアルコール耽溺を参照軸としつつ、スキゾフレニア、パラノイア、そして同性愛などを語る内容となっている。
また、翌2020年に出版した2冊目の訳書「レイシズム」(講談社学術文庫)は、日本人論の古典「菊と刀」でも知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「RACE AND RACISM」の新訳書。1940年に発表され、「レイシズム」という言葉が広く知らるキッカケとなった本作を、多くの人に読んでもらえるよう平易な言葉で新たに訳し下ろした。
社会学者・大阪市立大学 都市文化研究センター 研究員。主たる研究テーマは「ハーフ」と「よさこい踊り」。
2019年に出版した「ふれる社会学」(北樹出版)は、メディア、家族、労働、余暇、ジェンダー、セクシュアリティ、差別、人種などの視点から、身近でエッジのきいた14のテーマを読み解くことを通して、社会の大きな仕組みにふれる入門書。飯テロやスニーカーといった題材から、日本初「ハーフ」の章がある社会学の入門書としても注目されている。刊行後、たちまち4刷。
た・い・だ・ん
スタート!
僕は研究者ですが、マスメディアに呼ばれたらそれなりにフットワークよく出るようにしています。それは意識的にやっています。
以前、ある記者の方に「なぜあの話題であの方のインタビューを掲載したのですか?」と思い切って聞いたら「専門の研究者に断られたからなんです…」と言われたことが心に残ってまして…。それ以来、「僕が断ったことで “有名ではあるかもしれないけれど専門家とはいえない人”が出てきたらそれはそれで困ったことになるかもしれない」と思うようになりまして。
“専門家ではない人”が、“ハーフ”や海外にルーツをもつ人についてマスメディアで語るのはちょっと怖いな、と。
そのぶん、本当にこの話題にこたえるのは自分でいいのか、と常に考えていますし、学び続けねば、とも思います。
で、個人的に今は踏ん張り時だと思っているんです。いろんな人々の個別の仕事や活動が結びつこうとしている機運もあるので、自分にできることはやっていきたいな、と思っています。
一方で、すべての人がそうというわけではありませんが、研究者や批評家、支援者の方々が「主語の大きい言い回し」をするときもあるので、どこかに登壇するときには身構えることも多々あります。
「ハーフっていうのは可哀想なんですよ」
「ハーフへの差別はないよね」
「ハーフは新しい日本人なんだよ」
などと言う人とかもいて。
「おぉ、勝手に決めちゃった!すごいな!」って思って聞いているんですけど(笑)。 「なんで新しいの?なんで可哀そうなの?」って、違和感がハンパないわけです。
もうひとつの違和感は、多くの“ハーフ”についての語りに、いわゆる「東アジア的な見た目」をしている人の経験が全く入っていないことです。
研究をしていく中で、日中ハーフの人や、日韓ハーフの人のライフヒストリーを聞くことがあるんですが、いわゆる「欧米白人系」のハーフのストーリーとまた異なります。
アジア系だと、自分のルーツについて話すことがいじめの対象になる可能性があるから語れないことも多くて、自己紹介で語らないことがリスク管理になっている側面もある。
あと、アフリカ(とひとくちに言っても広すぎますが)にルーツをもつ方も別のストーリーを持っています。
歴史的に見たら、「ハーフ」の人たちの大多数はいわゆる在日コリアンの人たちですね。「ハーフ」という言葉自体が、60年代に欧米系の親を持つ女性モデルを売り出すために普及させられたという経緯もあって、忘れられがちだけども。
そういう点からも、「ハーフ」であることを他人からどう言われるか、見られるかということの体験は、まったく一様じゃないですね。すごくばらつきがある。
ここで注意しないといけないのは、かと言って自分たち(欧米系のハーフ)と東アジア系のハーフは違うものとして別々のアイデンティティを主張しましょう、ってことではなくて、共通の困りごとについては助け合っていきましょう、って風にしないと。均一性の高い小集団にまとまろうとすると、キリがないから…
「ダブル」「ミックス」「外国につながる子ども」をはじめとして、呼称をめぐる問題もありますし、おそらくやろうと思えばどこまでも問題が細分化してしまう可能性がありますものね。
レイシャライゼーション(人種化)という言葉を使いたいのはそこ。同じハーフでも、共通項と違いがある。でも、どちらも人種化されていることは一緒だよね。このポイントで、「共通の困りごと」に立ち向かうことはできると思います。
裏を返せば、外国にルーツをもっていない「いわゆる日本人と呼ばれる人々」が「日本人にはみんな和の心があって、集団行動ができて、災害の時はちゃんと列に並ぶんです」って思っていることも人種化。
日本人自身の人種化。そして、ナショナルアイデンティティについては、大学や専門学校の授業であえてしっかりと触れるようにしているんだけど、すごく重要だと思ってる。
どういうことかと言うと、人種化は特定のひとだけの問題じゃないということ。そこから完全に逃れらる人はいないんです。
学生の中には「俺は(人種化から)逃れる」って宣言する人もいるし、逃れられることを願っている人もいるけど、完全に自由になることは難しいと思う。
そうですよね。
これだけ気をつけているはずの僕らだって、何かの拍子や周りの雰囲気にのまれて、ぽろっと「人種」とか「血」とか言っちゃうかもしれないし。これこそが罠だと思います。
こうした話をする際には、個別でしか語れないことはあるし、もうちょっと大きな枠組みで語りたいこともある。話のレイヤー、解像度によって変わってくるものがある。 Twitterとかの議論でも、たまに話のレイヤー違いで話しているから、戦っているようで戦ってすらいない状況が起こっているよね(笑)
解像度、レイヤーの話で思い出したけど、この前在日コリアン5世の患者さんと話してて、気が付いたことがあります。
「阿部先生はフランス人との“ハーフ”でしょ?子どもが生まれてもクオーター。でもその下はもう呼ばれない。でも、僕たち在日は3世でも4世でも、いつまでも言われ続けて、きっと10世になっても言われ続けるんですよね。」って。
同じ話をしていても、解像度が全然違うんです。
あー、なるほど。ハーフって「何世」って言わないもんね。何かのイベントのときに「移民二世」という括りでコメントするように促されて、ちょっと戸惑いを感じたことがあったなぁ。
その話を聞いたときに思ったのは、私たちはものすごく言葉で定義されているということ。言葉が変わると同時に、解像度も変わっていく。言葉が変わることで経験も変わってくるよね。
どの言葉で名乗るのか、呼ばれるのか。
「半分なんでしょ?」「4分の1なんでしょ?」って言われながら「日本人らしさ」をジャッジされる“ハーフ”や“クオーター”の経験。そして、植民地主義に端を発する構造的差別に抵抗するなかで「民族」と「個人」との関係性を模索してきた人々を取り巻く歴史的経緯。※
その言葉を選択する、あるいは、その言葉で呼びかけられる歴史的経緯や問題状況に目を向ける必要がありますよね。
(在日コリアンの人々が)自分たちの居場所を確保することは、自分たちだけでなく、次の世代を意識した取り組みでもあるのですよね。そうする必要があった。
一方、”ハーフ”の子をもつ親御さんに話を聞くと、「片方の親の言葉をどう伝えていくか」って話を聞くことがありますが、そのときに想定されている「次の世代」に、絶妙な違いがあるようにも思いますが、それはやはり、構造的差別のありようの差異でもあるわけですよね。
“何世”って呼ばれる人、“ハーフ”と呼ばれる人、みんな個別に違う経験をしていて、それを包括して人種化(レイシャライゼーション)って言葉で把握しようと試みるときに、構造的差別や歴史的経緯に注意しながら、共通性と差異を適切に理解しないといけないですね。
解像度に関連して、翻訳の話をするね。この前英語から日本語への翻訳をしていて気づいたんだけど、英語と日本語の人称って、似ているようで違うんだよね。
僕は、日本語と英語とフランス語も少し使うんだけど、英語の「We」を訳すのが難しいと感じているんだ。
日本語の場合、「私」を複数くっつけると「私たち」になるイメージなんだよね。つまり、「私たち」は「私」の複数形。
でも、英語の「We」がそれと同じ概念かというと、なんか違うなあって思ってね。
なるほど、それはたしかに面白いね。
そう、「We」と「私たち」はぜんぜん違うんですよ。
日本語の「私たち」は「私」の複数形だから、英語で言うと「Is(アイズ)」みたいな感じかな。この「私たち」は示す範囲が曖昧なので、何にについて話しているのかが抽象的になってしまうんです。
その話に関連して思い出したけど、震災の時などに顕著になるけど、「私たち」の意味が日本人のことに限定されることがあると思うんです。
「私たち」と言った時に、「そこにいる人、住んでいる人」ではなく、「日本人」を示している。留学生や実習生、駐在員などなど、日本に住む多くの外国人や外国にルーツを持つ人々もともにあの震災を経験していたはずなんですが…。
そういえば、英語だと「American(アメリカン)」って言葉は、「アメリカ国籍の人」っていう意味だけでなく、「アメリカに住んでいる人」っていう意味もあるんですよね。
「Londoner(ロンドナー)」って言葉もありますが、ロンドンに住んでいる人という意味です。ロンドン国籍なんてものはないですしね。
英語の「American」って言葉を見せると、99%くらいの学生が「アメリカ人」と訳す。
逆に「日本人」って言葉を英語に訳した「Japanese」って単語には、「日本国籍の人」に加えて「日本に住んでいる人」っていう意味も含まれることになる。でも、もともとの「日本人」には「(外国籍の人を含む)日本に住んでいる人」っていう意味はないよね。
言語によって解像度はぜんぜん違ってくるし、それによって、私たちの考えは結構制約されているってことですね。
日本語だと、国籍を持っている人の話をしているのか、そうでないのかが明確な言葉が多い。「日本国民」とか「国民の権利」って言葉は使われがちだけど、その場合日本国籍がない人は疎外されちゃう。
一時期、民主党政権の時ですが、公的文書には基本的に「市民」という言葉を使おうとしたことがあります。
相当意識してますね。
そうだね。今でもリベラルな自治体であれば、声明文とかに「市民」という言葉を使うんですよ。
僕は名古屋生まれなんですが、名古屋では行政の書類上で、「外国人住人」の定義に「外国にルーツを持つ人」というのを入れたんです。※
たとえ日本国籍を持っていても、外国にルーツがある人は日本人ではないんだって。「僕、今も名古屋に住んでたら日本人じゃないんだなー」と思いました。
このあたりの言葉のチョイスは、もうセンスに任せるだけじゃダメだよね。市民とか住民とか国民って言葉の指す範囲はそれぞれ違って難しいんだけど、上手い言葉の使い方とか、言葉によって自分の言動が拘束されていることに気づかないといけない。
例えば“クオーター”の子がいたとして、その子を「クオーター」と呼ぶか「外国人児童」と呼ぶか、「日本人」か「外国にルーツをもつ子ども」か。どれが正解かなんてないんですけど、あなたがどの言葉を選ぶかによって、その子どもに与える影響がある。
この子どもの自己認識、自分のことを外国人と思うか、日本人と思うかに、あなたの言葉が影響するということを忘れないでほしいんですよね。
次回の記事に
つづく!
言葉は、本当に不思議です。
私たちは言葉を使って考えたりコミュニケーションをとっているけれど、使っている言葉の定義に、思考が制限されてしまうこともあると思います。
ある特定の環境や立場の人を想定してデザインされた言葉は、知らぬ間に人を傷つけ、排除しているかもしれない…。
そのことに、意識的でありたいですね。
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第3回。“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話しし…
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第2回。“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話しします。
精神科医。医師として臨床に携わる傍ら、翻訳家としても活躍。
2019年に刊行した初の翻訳書「精神病理学私記」(日本評論社)が日本翻訳大賞を受賞。同書は現代精神医療の基礎を築いたアメリカの精神科医H・S・サリヴァンが生前に書き下ろした唯一の著作で、サリヴァン自身の性指向とアルコール耽溺を参照軸としつつ、スキゾフレニア、パラノイア、そして同性愛などを語る内容となっている。
また、翌2020年に出版した2冊目の訳書「レイシズム」(講談社学術文庫)は、日本人論の古典「菊と刀」でも知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「RACE AND RACISM」の新訳書。1940年に発表され、「レイシズム」という言葉が広く知らるキッカケとなった本作を、多くの人に読んでもらえるよう平易な言葉で新たに訳し下ろした。
社会学者・大阪市立大学 都市文化研究センター 研究員。主たる研究テーマは「ハーフ」と「よさこい踊り」。
2019年に出版した「ふれる社会学」(北樹出版)は、メディア、家族、労働、余暇、ジェンダー、セクシュアリティ、差別、人種などの視点から、身近でエッジのきいた14のテーマを読み解くことを通して、社会の大きな仕組みにふれる入門書。飯テロやスニーカーといった題材から、日本初「ハーフ」の章がある社会学の入門書としても注目されている。刊行後、たちまち4刷。
た・い・だ・ん
スタート!
次は人種差別の話をしましょうか。
少し硬いし、いい気持がしないトピックかもしれません。
人種差別というと、2009年から2010年にかけて、京都にある朝鮮学校で起こった事件があります。右翼団体が朝鮮学校の前で、毎日拡声器を使って罵倒を浴びせ、その様子をネットに公開した。
裁判の結果、2014年、該当の右翼団体に対して「学校の半径200メートル以内での街宣活動の禁止」と、「1,200万円の損害賠償」を命じた判決が下されました。※
最高裁では、日本が加盟している人種差別撤廃条約で禁止されている「人種差別」に当たるとされ、表現の自由の保護の対象とはみなされませんでした。差別意識を世間に訴えることが目的であるため、公益性も認められないと判断した。
ここで、「人種差別」とは国際的にどう定義されているかを確認したいと思います。人種差別撤廃条約では、
「市民的権利、市民権の取得、教育、宗教、雇用、職業及び、住居の分野において、人種、皮膚色、または種族的出身に基づく差別を防ぐために特別な努力を図ってください」※
と書かれています。
今でも一部の職業や地位に就くことに対して国籍上の制約がかけられていることがあります。※
僕が以前勤めていた都立病院を含む、東京都庁でもそうでした。
この話をすると、僕をよく知っている人は「それはなんか納得いかないね」と言いつつ、「でも例えば、外国人や外国にルーツを持つ人が、県知事や総理大臣になったら、やばくない?」っていうんです。
「やばくない?ってどういうことか具体的に説明できる?」と聞くと「やっぱ国家機密とか漏らすかもしれないじゃん」って言うんですね。
でも冷静に考えてみてください。両親が日本人で、おじいちゃんやおばあちゃんが日本人だと国家機密を漏らさないのでしょうか?
外国にもルーツがあるかどうかと国家機密を漏らすかどうかは全然、一対一でリンクしていることじゃない。そんなことはちょっと考えるだけで分かるはずなのに、「他人」のことだからと思うとその簡単なことが注意から抜け落ちちゃう。心理学の用語では「選択的不注意」なんて言います。
外国にルーツを持つ人が公職につく例として、わかりやすいものだとアメリカの前大統領のオバマさん。彼は出自について、トランプの攻撃材料にされてましたね。
オバマさんのルーツが複雑であることを標的として、「出生証明書をだせ」「本当にアメリカ国民なのか」といった、疑惑の体裁をとった政治的な攻撃がされていました。
ところで国籍って言葉は、日本では1つしかないけれど、定義や運用の仕方は国によって結構違うんですよ。
たとえば有名なところだとアメリカは、アメリカ国内に出生すれば親の出身とか国籍と関係なく市民権が与えられる。そして「国籍」にはほとんど法的な効力がない。
あるいはヨーロッパだと、2000年前後にEUに加盟した国が多く、加盟国になった時点でその国籍を持っていた人は、EUの市民権を持っています。地中海や中南米の国々では国籍を購入できるところもあります。
「国籍」っていう、なにか単一の概念があるように思っている人がほとんどだけれど、実際には相当なバリエーションがある。
政治家の蓮舫さんの時も、カズオ・イシグロさんの時もそうですが、国籍という概念がこれだけ違う、ということがこれまでメディアで話題にされたことがほとんどなかった。「ハーフ」と括られる私たち自身が、伝えていかないといけない部分もあるんだろうと思います。
先ほど「選択的不注意」って言葉を使ったけど、他にも感情が先行して当たり前のことが意識から抜けてしまうことは、たくさんあります。
同性婚の話でも顕著だと思うんだけど、「同性婚をした人は子どもを産むことがないのだから、結婚に伴う法的なメリットを与えられなくても仕方ない」という議論。
そもそも異性婚をして子どもを持たない人もたくさんいます。子どもを持てない人は結婚してはいけないのでしょうか?
思い返すと、こうしたちょっとした「自問自答」が抜けてしまうことってよくあるものです。
この前ケインさんが、「社会にはいろんな罠がある。その罠に名前を付けることが社会学者の仕事だね」と言っていましたね。
そうですね。“罠”というのはC.ライト・ミルズっていう社会学者の『社会学的想像力』という書籍に“Trap”というそのままの言葉で出てきます。
自分たちが当たり前だと思っている日常自体に、結構“罠”が仕込まれている。
例えば、日本人であれば、日本に住んでいて、日本語が堪能で、肌の色はペールピンク(昔は肌色って呼ばれていたやつですね)…この“当たり前”みたいなことは問われることがほとんどない。
でもこの“当たり前”だと思われていたこと自体が、ある時、ある状況では“罠”になりかねない。
自分たちが気づいてないだけで、うっかり落とし穴に落ちているかもしれないし、落とし穴のなかで誰かの足を踏みつけていたりするかもしれないのです。
次回の記事に
つづく!
人種差別というと、2020年に入り、黒人の人権を訴える #Blacklivesmatter という運動が世界的な盛り上がりを見せ、日本でも取り上げられていました。
“人種”が異なる人に対する、ステレオタイプや思い込みは、誰しも少なからず植え付けられているものなのかもしれません。自分の中にある罠を自覚することが大切かもしれません。(この“人種”というまとまりがあること自体、人類学の観点からも、遺伝学の観点からも否定されていることは、前回の記事の中で阿部さんがお話したとおりです)
社会で起こっていることや自分自身が持つ偏見に対しても、真摯に向き合っていきたいものです。
精神科医の阿部大樹さんと社会学者のケイン樹里安さんの対談連載の第2回。“ハーフ”として日本で暮らし、学者の視点で日本社会を見てきたお二人が、日本における「人種」や「レイシズム(人種差別)」について、ざっくばらんにお話しし…
チャリツモの記事に医療監修者として携わってくれている精神科医・阿部大樹さんが、昨年から翻訳家としても大活躍中です。初の翻訳書「精神病理学私記」は第6回日本翻訳大賞を受賞し、今年4月には2冊目となる翻訳本「レイシズム」を出版されました。
「レイシズム」は日本人論の古典「菊と刀」で有名な文化人類学者ルース・ベネディクトの著作。人種・国家・言語・宗教・文化など「人間のまとまり」に優劣があるかのように宣伝するレイシストたちの言説を、一つ一つ論破している本書は、奇しくも「Black Lives Matter」と言われる反人種差別の運動が巻き起こる直前に出版されたこともあり、たいへん注目を浴びています。
本連載では、2019年12月、「レイシズム」を翻訳中だった阿部さんが、新進気鋭の社会学者・ケイン樹里安さんと“レイシズム(人種主義)”をテーマに行った対談の内容をお届けします。
フランス人の父を持つ阿部さんと、アメリカ人の父を持つケインさん。日本ではいわゆる“ハーフ”と呼ばれる二人。それぞれ日本社会で“ハーフ”として暮らし、そして学者の視点で社会を見てきた彼らが、日本における“レイシズム”について、ざっくばらんにお話しします。
精神科医。医師として臨床に携わる傍ら、翻訳家としても活躍。
2019年に刊行した初の翻訳書「精神病理学私記」(日本評論社)が日本翻訳大賞を受賞。同書は現代精神医療の基礎を築いたアメリカの精神科医H・S・サリヴァンが生前に書き下ろした唯一の著作で、サリヴァン自身の性指向とアルコール耽溺を参照軸としつつ、スキゾフレニア、パラノイア、そして同性愛などを語る内容となっている。
また、翌2020年に出版した2冊目の訳書「レイシズム」(講談社学術文庫)は、日本人論の古典「菊と刀」でも知られるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの著作「RACE AND RACISM」の新訳書。1940年に発表され、「レイシズム」という言葉が広く知らるキッカケとなった本作を、多くの人に読んでもらえるよう平易な言葉で新たに訳し下ろした。
社会学者・大阪市立大学 都市文化研究センター 研究員。主たる研究テーマは「ハーフ」と「よさこい踊り」。
2019年に出版した「ふれる社会学」(北樹出版)は、メディア、家族、労働、余暇、ジェンダー、セクシュアリティ、差別、人種などの視点から、身近でエッジのきいた14のテーマを読み解くことを通して、社会の大きな仕組みにふれる入門書。飯テロやスニーカーといった題材から、日本初「ハーフ」の章がある社会学の入門書としても注目されている。刊行後、たちまち4刷。
た・い・だ・ん
スタート!
今回のテーマはずばり「レイシズム」。日本語だと人種主義だとか人種差別といわれるけれど、そもそも人種とか人種差別って何なのでしょう?
「黒人は足が速いよね」
「ハーフってイケメン or 美人だよね」
これってどういうこと?
ヘイトスピーチって聞くけど、これって表現の自由の範疇?それとも刑罰の対象?
こうしたことは、分かっているようで、実はなかなかつかめないものです。
実は「人種」というまとまりがあることは、人類学の観点からも、遺伝学の観点からも否定されています。
それでも、私たちは日々、国籍や民族を主語にして物事を語りがちです。
レイシズム、人種主義をどうとらえるか。ボク自身は人種主義という言葉よりも、「人種化(レイシャライゼーション)」という言葉をよく使います。人種に化ける。
僕たちは、人種というものがあるという前提で話しがちだし、その前提で社会が回っています。
まず始めに、大坂なおみさんのインタビューについて取り上げようと思います。
2018年9月にテニス選手の大坂なおみさんが、全米オープンで優勝した。そのあと日本に来た際に行われたインタビューについてです。
「大坂なおみフィーバー」って言われてましたよね。あれは何だったんでしょう。
全米オープンの少し前くらいから「日本で深夜放送していたテニスの試合で大坂なおみっていう選手がいるらしい」「結構強い選手らしい」「インタビューを見るとめちゃくちゃ英語が流暢らしい」…。そういったところから入って、メディアが次第に「どうやって片言の日本語をしゃべらせようか」という方向にシフトしていったような気がします。
はじめの頃は英語でスピーチしていたはずなんだけど、だんだん片言の日本語を面白がるような形で商品化されていった。
世間の声も「何か片言の日本語をしゃべっていてかわいい」とか「片言でも日本語を話すから日本人なんじゃないか」とかいうものがでてきて…。
「大坂なおみは日本人なのか」問題が取り上げられていたところに、全米オープンでの優勝。
その瞬間、それまでの議論はおいておいて、メディアの見出しは「日本人初優勝!」となりましたよね。それを見ていて、「唐突に日本人になるんだなあ」と思いましたね。※
僕が印象的だったのは、優勝会見での3つの質問ですね。
「ご両親とは日本語でやり取りしてますか」
「日本語はどうやって勉強していますか」
「あなたの活躍が古い日本人像を見直すきっかけになると思いますか」
スポーツ選手の優勝会見で、日本語の運用能力が質問されるって、ちょっと考えてみるとおかしな話ですよね。
1年以上経った今振り返るからこそ「的外れだね」ってなると思うんですけど、そういう質問が出る背景、記者さんとか、その上司にあたるデスクとか、そこで想定されている読者像とか、よく振り返っておくことが必要であると思います。功績と関係ないプライベートなことを聞くことに、どういうメカニズムが働いているのか。
私は精神科医をしていますが、いわば人のライフヒストリーを聞く仕事です。初対面の人に、「あなたはどこで生まれましたか?」「何人兄弟がいますか?」場合によっては親からの性虐待などについても聞かなくてはならないときがあります。だからこそ、ライフヒストリーに触れるときにはこれ以上ないくらいに慎重に話を進めます。
人に何かを伝えたり、報道したりする時は、ストーリーを作ることは避けられません。人の記憶に残すにはストーリーが必要です。それが如実に表れているのが世界中の宗教なのですが、どんな聖典でも必ずストーリーに加えて教訓、という形になっていますよね。記憶に残すためにストーリー化しています。
ただ、ストーリー化する際に、特に今を生きている著名人をストーリー化する際には、気を付けないといけないことがあります。
私たちが本で読むような過去の偉人のストーリーは、時間をかけてゆっくりと形成されたものですが、今を生きる人の場合、基本的にライフヒストリーは自分から話すものであって、人から聞かれるものではないということです。
「お家では何語をしゃべっていますか」とか「どこで生まれましたか」とかは、なんとなく初対面の人に聞いてもいいだろうと考えている人もいますけれども、たとえば初対面の人にいきなり学歴とか年齢について聞かないように、やはり一対一の関係性ができていないときに聞くようなことではありません。
でもエスニシティに関わる質問に、そのデリカシーの感覚があまり働かない。「よそもの」というかなり強いメッセージを伝えうることでもあるのに。その部分への意識は、これから持っていく必要があると思う。
大坂なおみさんの記者会見は、これまでもあった人種化についての問題がわかりやすい形で表面化してしまったんだと思いますよ。
どういうことかというと、「日本人」と言ったとき、その中身は実はめちゃくちゃ複雑だということが明らかになってしまった。
日本人といっても、どこで生まれ育ったか、ジェンダーや学歴、家族構成など、本当はみんなバラバラなんだけど、なんとなく「とりあえず日本人ってこんな感じ」っていうふんわりとしたイメージがあると思うんです。今回のインタビューで、その「日本人のイメージ」が揺さぶられてしまったのだと思います。たぶん。
「日本人のイメージ」から外れるような、外国にルーツを持つ人は、実はすでにたくさんいて、朝日新聞の報道によると、新生児の50人に1人がいわゆる“ハーフ”だといいます。でも、なぜか多くの人は、普段はそうした多様性を見ないようにしている。
今回の「大坂なおみフィーバー」が出たとき、この「日本人って誰なんだ?」という根本的な問いが「大坂なおみは誰なんだ?」 という形で表面化したんじゃないでしょうか。
SNSを見ていると、「大坂なおみは日本人らしい」 「いや、 日本人らしくない」「肌の色が違うよね」などと、ご本人のアイデンティティという極めてプライベートなことがらについて、人々がいろいろ好き勝手なジャッジを披露し合っている状況でした。
大坂なおみフィーバーについて、僕が今思うのは「日本人とは何者か、再定義しないといけなくなっちゃった現象」という側面があったんだな、ということです。大坂なおみさんを介して「日本人とは何者か」ゲームが始まっちゃった感じです。
片言の日本語が「日本人らしくない」とか、そうした話をすることで、つまり、「大坂なおみとは何者か」という話をすることで、実際には複雑であるにもかかわらず一枚岩的に想像してきた、そんな「日本人らしさ」を再確認する側面があったのだと思います。
面白い比較だと、ちょうど直前にカズオ・イシグロさん※がノーベル賞を取ったことがニュースになっていましたよね。カズオ・イシグロに対しても「彼は日本人か」という議論があったところに、大坂なおみさんの優勝のニュースがありました。
カズオ・イシグロは、アイデンティティについて「明確な答えはない」「英国の作家や日本の作家であることがどういう意味かもわからない」「いつもただのひとりの個人として書こうとつとめてきた」という風に、わかりやすく答えないという姿勢を貫いています。
大坂なおみさんが抹茶アイスが好きっていう話がありましたけど、もしもカズオ・イシグロさんもそういう話をするひとだったら、同じようにメディアに消費されていたかもしれませんよね。
日本人とは何か、という枠ね。「日本人の枠」の話って、“ハーフ”の子どもたちは、間違いなく全員体験していることだと思う。
「○○語しゃべれる?日本語は何歳で覚えた?夢は何語でみる?親とは何語でしゃべるの?」とか、まだ自己紹介すらしてない相手からたたみかけるように聞かれちゃうこともよくある。悪意があるとはもちろん思ってないんだけど。
大坂なおみさんの記者会見では、それがほとんどそのまま提示されましたね。
自分たちが属しているコミュニティの住人=“日本人”なのかを無意識にチェックしているんだと思います。値踏みをしているというか。
大坂なおみさんの場合もどこまで日本に染まっているのかをチェックするツールとして言語が使われたと思うんです。
日本にいる”ハーフ”の子たちは、「おうちでは何語しゃべっているの?「納豆食べれるの?」「日本語書けるの?」という日本人性の確認を、幼稚園くらいからずっと経験しています。僕自身もそうですが、見た目で“ハーフ”だとわかる人は幼少期からずーっと聞かれてきた質問です。
そうすると、次第に答えるのに慣れてくるんです。全員がそうだとは限りませんが、しばしば自己紹介が上手な小学生が生まれます。子どもながらに「だいたいこんなこと、こんなテンションで聞いてくるんだろうな」「私の鼻の高さや髪の毛の色に注目しているな」と、だいたい相手の聞きたいことがわかってくる。
でも、大坂なおみさんにはそれがなかったんですよね。
日本に住んでいる人、それも記者さんであれば、“ハーフ”の人に対して「英語しゃべれるの?」というような質問をしたことがない人っていないと思うんです。そして質問した相手は、自分のルーツについて上手いこと起承転結にしゃべってくれた経験がある。
ところが、そんな常識が大坂なおみさんには通用しなかった。
日本人性の確認に慣れていなかった大坂なおみさんは、取材者の意図がわからず、自ら語ることができなかった。いや、できなかったのではなく、そうした質問を受け、とっさに切り返す必要性が生じない状況で暮らしてきたのだと思います。だから、困惑したのだと思います。
そして記者の側も困惑して、たたみかけるように日本人性を確認するための質問を繰り返してしまった。
確かにそうかもね。
相手が何者なのか。同時に自分が何者かも、本当はあまりクリアではないにも関わらず、よくわからないと不安になる。
アイデンティティ(自分が何者か)って不思議ですよね。だって、今日の自分と明日の自分は違うじゃないですか。哲学的な話じゃなくって、単純に違う。食べるものも飲むものも、感じていることも違う。自分についてよどみなく話すとか、一貫性のあるストーリーを描くって、実はあまり普通なことではないんです。
「そもそも自分は何者か」という問いであるわけですから。
なかなか興味深いね。
まず、なんでこの話をはじめにしたかというと、「著名人のライフヒストリーと一般の生活者のライフヒストリーはどう違うのか」、そして「ライフヒストリーは語られるものか、聞き出すものか」「聞き出すときはどういう順番で聞くか」ということを聞いてみたかったんです。
日常生活で自分が誰かに出会った時、どういう風にしているのか。それが著名人のインタビューになった時にどう変わるのか、ということを考えてみることに意味があるのではないでしょうか。
次回の記事に
つづく!
日本人とは何か。それは、答えのない問いなのでしょう。
人間は、それぞれ個性を持った存在です。しかし、時にその人の人間性よりも、国籍や外見が重要視されてしまう場面があるようです。国籍や外見に基づく分類は、一見便利ですが、知らずに人を小さな枠組みの中に押し込め、時に人を傷つけます。
純粋なゆえに時に残酷な子どもたちが、相手の身体的特徴や、聞きなれない名前について質問するのと同じように、メディアや大の大人が堂々とプライベートな話題に土足で踏み込んでいく様子に対して、違和感を持つことは大切かもしれません。
チャリツモの記事に医療監修者として携わってくれている精神科医・阿部大樹さんが、昨年から翻訳家としても大活躍中です。初の翻訳書「精神病理学私記」は第6回日本翻訳大賞を受賞し、今年4月には2冊目となる翻訳本「レイシズム」を出…