障害者=カワイソウ、と思うことについて。
なぜ、人は障害がある人を、カワイソウと思うのか?
その理由は
「障害がある人がどういう感じか、多くの人は知らない」
からだと思うのです。
日々わたしは、障害がある子どもと過ごす時間が長いため、障害があること自体に、カワイソウと感じることはあまりないです。
もちろん、歩くことができないから…
話すことができないから…
という機能的な理由で行動に制限がかかることは、よくあります。
でも別に、行動の制限がかかっても、無理なくできる方法を探すか、全く違う道を探せばいいだけのことだと思っています。
例え話をしましょう。
ジェニファーは、小さい頃から性格が内気で、人と話すことが不得意な女の子です。
多くの大人は、ジェニファーの性格を外向的なものに直そうとします。
だって社会的には暗黙の了解で、外向的な人間がより良い人生を送れる、とされているからです。
ジェニファーは大人になって小さい時によく言われていたように「外向的がいちばん!努力して変わろう!もうちょっと頑張ってみよう!」と心に留め、自分が得意でもない、保険の営業マンになります。
…はい、日々地獄ですよ。
人間、内向的という性格上の理由で行動に制限がかかることは、よくあります。
しかし、わざわざ不得意なことに毎日苦しむよりは無理なくできる方法を探すか、全く違う道を探せばいいだけのことではないでしょうか。
ジェニファーは、自分の不得意と日々戦うのではなく、人と話すことよりもはるかに大好きだった「本」に関わる仕事、そう、図書館の司書になることで人生ハッピーになれる(可能性が高い)わけです。
はい、話がそれました。要点です。
障害があるからカワイソウ、と思うことは
「こういう人間が、苦労なく、より良く生きられるだろう」
という、みんなが勝手にもっている人物像に障害をもつ人が当てはまってないからなのかな、と思います。
それは勝手に作られた、勝手な人間像なのに!
どうなんでしょう!
障害があるか、ないかが、人生のハッピー度数を決めると、思います?
いっけん美人で五体満足な体で生まれた彼女が、自分のことが大嫌いで、人を傷つけ、ハッピーじゃない人生を送ることもあるわけです。
耳が聴こえず、話すこともできない彼が、まわりに愛され、人を愛し、ハッピーな人生を送ることもあるんです。
障害があるか、ないか、が
一体なんの判断基準になるんでしょう?
そう考えたら、
障害者=カワイソウっていう考え方
なんか変じゃないですか?
ネ?
ネェ?