生活相談に来た坪一さんはどう見ても82歳に見えず(10歳位若いように見える)、皆でびっくりした。
生活状況や年齢、病状を聞き取り、すぐにでも生活保護を申請したほうがいい状況だったが、
坪一さん自身が「役所にお世話になること」をためらっていた。
そのため、私たちはドヤへ交代で会いに行き、説得をする。ようやく生活保護を申請したのは秋ごろになってからである。
現在では私たちの事務所のすぐ近くでアパート生活をしており、自転車で顔を出してくれる。
坪一さんと関わる中で、今までどのように暮らし、仕事をしてきたのかを聞かせてもらった。
19歳で家を出て、トンネル工事、足尾銅山、全国の炭鉱、そして山谷にたどり着き、長年日雇い労働者として働いてきた。普段寡黙な坪一さんは仕事のことになると目を輝かせながら話してくれる。どのように働いてきたか。場所や一緒に働いた仲間のことも。今まで一番楽しかったことは「山谷で仲間と一緒に働いてきたこと」。
戦中戦後を生き抜き、日本の近代化を支えてきた坪一さんの言葉を記録し、たくさんの方に知ってほしい、
という思いでこの「あしあとプロジェクト」がはじまる。
* * *
1932年(昭和7年)、群馬県利根郡に5人兄弟の長男として坪一さんは生まれた。13歳で敗戦を迎え、中学卒業後は、実家の農家の手伝いをした。
1951年(昭和26年)、19歳になった坪一さんは、実家から逃げ出し、ダム建設の
工事の仕事を始めたのが19歳のときだね。中学卒業して実家の農家手伝っていて。家の田植えが終わってから高崎の近くに田植えの手伝いに行ったんだ。行けって言われて。5人ぐらいのグループで。行くふりして、途中で俺だけ抜けちゃったの。それで水上に行ったの。それが19歳。
足尾駅のすぐ隣の
足尾行ったとき、最初は隧道工事で行ったんだよね。足尾銅山から出る砂を捨てる場所を造るんで。ただ捨てちゃうと雨が降ると下へ流れてくるから、排水路を脇に造ったわけ。その水を流す隧道を掘ったんだよね。
あの頃、東京から吾妻企業のダンプカーが何台も来ていた。
1958年(昭和33年)、26歳の坪一さんに転機が訪れる。
そしたら、足尾の奥さん連中が職場に来てて、足尾銅山に入りなさい、入りなさい、辞める時は退職金も出るし、ボーナスも出るし、建設会社よりはいいからと。それで入ったのよ。隧道工事は飛島建設。今は、いつも俺らが出入りしていた通洞坑からトロッコ電車に乗れるんだよ。
* * *
閉山後の坑道を一部開放して観光地化している足尾銅山に一緒に行き、当時の様子を語ってもらった。
仕事していた当時は、通洞坑から30分くらい歩きで自分の
大概、山のいいとこだったら削岩機で1㍍50くらい穴あける。それで全部4箇所の穴終われば火薬を込めて鳴らす。
それで帰ってくるわけだよ、自分の今日の仕事は終わり。
水を使わないとホコリがいっぱい、だって石のところ掘っていくからね。削岩機で水が通るようにできている、だから水を出しながら掘る、掘った砂が水で流れてくる。
機械が故障することもある。部品の故障、自分でどこが悪いとかわからないと。
ウォーターチューブが悪いとか、交換しなくちゃ、全部自分でやらないと。
悪い切羽には水が通っているんだよ、塩ビ管でね。
悪い奴はその切羽をやりたくないと思ったら、塩ビ管に石を落として、「今日はこの現場落石で水ホースが壊れて仕事にならない」と。
そうするといくらか補償くれるの。俺はできなかったけど。
仕事は、9時出と12時出があって、9時出は午後3時、4時くらいに終わる。
立坑に入って地下12メートル入ったらサウナ風呂と一緒だよ。俺らはズボンはいているけど、俺らが発破かけたやつをトロッコに乗せて運ぶ仕事の人らはパンツ一丁だよ。
12番坑※っていったらね、お湯みたいに水が沸いているとこあるの。
洗い場になっていて、顔や手なんかは洗う。身体を洗ったりはしなかったけど。蒸し風呂の中と一緒だからね。
今では寂れてしまっているが、当時足尾の町は活気にあふれており、映画館も劇場もあった。飲み屋がたくさんあり、労働者の憩いの場になっていた。今ではまったくお酒を飲まない坪一さんも、当時は大酒飲み。
社員寮は、一人ひとりに6畳ぐらいの部屋。料理は食堂があって寮の食堂、たっぷりどんぶり飯だった。
朝は食堂にご飯が出来ているから食べて出かける、弁当は持ってかない、弁当食わなかったなぁ。
所帯持ちは社宅がいっぱいあった、俺ら独身は寮にいた。最初の寮は、抗口の近くにあった。それから足尾町の中才(なかさい)というところに移って、そこから毎朝行った。
俺らが入ったとこはね、職員社宅だったからいいんだよ。中才(なかさい)行っても職員の寮だったんだ。
中才は建物も大きかったね。だから労金(労働金庫)の社長もね、俺らと一緒の寮に入っていた。テレビ室があってさ、プロレスとか歌番組とか、労金の社長や所長とかみんな一緒になって面白かった。
風呂はね、寮にはないんだよね。寮の直ぐ前に職員の銭湯があった。
あと坑口にも大きい風呂があるの。洗濯機のでっかいやつもあって、そこに入れるの。
それで、仕事が終わったら坑口で風呂入って着替えて帰ってくるの。
その頃洗濯したところは今広場になっているの。何か建物も建っていた。
* * *
いやぁ飲んだねぇ、ずいぶん飲んだね。
焼酎はあんま飲まなかった、酒とかビールとかね、通洞の町でね、昔は飲み屋もあったんだよね、寮から歩いて20分くらいかな、ずうぅっと、飲み屋とかそば屋とか喫茶店もあったね。
今は寂れているけど。
二日酔いで仕事に入って、エレベーターの中で酒の匂いぷんぷんさせてね。
そういうこともあったよ。
植佐っていう寿司屋も今は小さくなっちゃってた。
川本(食堂)も小さくなってる。
川本の親父も酒飲みでね、クリスマスの時か、一緒に飲んでダンス踊ったり。ヒゲ面をつけてくるんで、痛くていやんなった。
ダンスホールはなかったけど、飲み屋なんか行ってね、クリスマスとかの時はね、結構面白かったよ。
映画館もあったし劇場もあって、水原弘とか来たこともあった。
『人間の条件』という映画があったでしょ。
あれ、テレビのロケは足尾町で写したんだよ。俳優の根上とか来て。
寮のすぐそばに鉄道があって神社があって、何かに似てるっていうんでロケやってたんだよね。
そのときは随分にぎやかになった。
休みの日は、通洞の町か桐生だね。
桐生は駅の周りとかね、藪塚温泉とかあってね、桐生までは「わたらせ渓谷鉄道」。足尾の人らはね。
目次 |
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発行年月 | 2018年5月 |
値段 | 無料(2号目以降は200円/1冊) |
坪一(つぼいち)さんとの出会いは2014年夏ごろである。住んでいたドヤ*の仲間から、隅田川医療相談会の存在を教えてもらい、相談に来る。 生活相談に来た坪一さんはどう見ても82歳に見えず(10歳位若いように見える)、皆でび…
それじゃあ
いってみよう!
2017年に小田原市の職員が『生活保護なめるな』と書かれた服を来て、受給者の家を訪問していた事件※1がありましたが、同じケースワーカーとしてあの事件をどう思いますか?
生活保護者を1箇所に集めて管理すべきだと言う人もいます。例えば「NHKから国民を守る党」※2は昨年の8月頃まで、HP上にもう1つの公約として“現物支給と公共施設への入所”を掲げていました。これらはどのように思いますか?
少し知っているだけで、心の持ちようも変わりますよね。
泉谷さんとの出会いは、偶然行った合コンでした。「ナヨナヨしていて、この人絶対にモテないだろうな」と思っていたら、案の定みんなの輪に加われず1人で黙々と枝豆を食べていました。
そんな彼になぜか興味が湧き、女の子そっちのけで話しかけてみると、やっぱりナヨナヨしてる人でしたが、自身の仕事に関しては自信満々で語ってくれました。
彼の人間性に興味が湧き、連絡先を交換し後日会うことになったのが、このインタビューのきっかけです。
社会へ対し無関心という、いかにも今時の若者感を醸し出していたインタビュー前半。それとは打って変わって、生活保護を切り口に社会問題について話す泉谷さんは、まるで別人のようでした。
いくら社会へ無関心を装っていても、そこの中で生きている以上どんな人でも何かしらの意見を持っていることがわかり、次回以降のインタビューがとても楽しみになりました。
泉谷さんが最後に言っていた「様々な境遇の人と出会い、多様なものを知ることで、今まで以上にたくさんの人や物事に優しくなれました」この言葉に、自己責任論や他者への不寛容が蔓延する現代社会を立て直すヒントが隠れていると私は感じました。
生活保護のケースワーカーの仕事のあれこれについて、包み隠さずに教えて頂きました。
人手不足のため、一人で120世帯もの担当を受け持たねばならない実情、DVから逃げてきたシングルマザーや身寄りの無い病気を抱えた若者など、さまざまな事情を抱えた受給者の実態。不正受給に対して、ケースワーカーとしてどんなふうに感じるかなどなど
日本では、経済的に困窮するひとに対して、生活費を給付するなどして「健康で文化的な最低限度の生活」を保障し、自立を促す「生活保護」という制度があります。
すべての国民が「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利があるとしるした日本国憲法第25条に基づく制度です。
生活保護は、持っている資産や能力をすべて活用しても、一定基準(生活保護基準)の生活を維持できない場合にだれでも利用する権利があります。
2017年2月の時点で、生活保護を受けている人数は約214万人。1995年の約88万人から22年間でおよそ2.4倍も膨れ上がっています。
生活保護受給者の年代を見ると、全体の45.5%が65歳以上の高齢者です。
日本の高齢化の進行と比例して、生活保護受給者が増加しているのです。
年々増え続ける生活保護受給者。それでも、まだまだ救われない人々がたくさんいます。
生活保護基準を下回る経済状態にある世帯のうち、実際に生活保護制度を利用している割合を「捕捉率」と呼び、その正確な数字はわかっていないものの、専門家の推計によると20%程度だといわれています。
つまり残りの80%の人々は、生活保護が必要なほど困窮しているはずなのに、生活保護を利用していないということです。
困窮した人々が、生活保護につながれない背景には、「生活保護は恥だ」というスティグマ(社会的烙印)があると言われています。近年では、人々の中に植え付けられたスティグマの意識をえぐる生活保護バッシングがスティグマをより強固にしてしまっているかもしれません。
また、その他に申請のために市役所などの窓口に行っても、間違った説明などで追い返される「水際作戦」なども捕捉率の低さにつながっていると言われています。
日本では、経済的に困窮するひとに対して、生活費を給付するなどして「健康で文化的な最低限度の生活」を保障し、自立を促す「生活保護」という制度があります。 すべての国民が「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利があるとしる…