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2020.07.01.Wed

第1回 坪一さん「足尾銅山と山谷」/あじいる

あじいるvol.1メインビジュアル

チャリツモのご近所さん一般社団法人あじいる
これまで生活困窮者に「食」と「医療」を無償で提供する活動をしてきた彼らが「あしあとプロジェクト」と題する新たな試みを始めています。これまでに出会った仲間たちの人生を「あじいる」という冊子に記録していく活動です。

掲載されているのは、かつてのドヤ街「山谷」のおっちゃんたちの語り。その昔、全国各地から日雇い労働者として集まってきたおっちゃんたちは、道路やトンネル、鉄道といったインフラ整備などに関わり、日本の高度経済成長の担い手として活躍しました。しかし、その後のバブル崩壊と長引く不況で、多くのおっちゃんたちが仕事や生活の場を失い、路上生活を余儀なくされたのです。
冊子「あじいる」は、そんな時代の変遷に翻弄されながらも、力強く生きたおっちゃんたちの豊かな人生が詰まった読み物。
今回チャリツモでは、特別に許可をいただいて冊子「あじいる」を転載させていただく運びとなりました。これまで口を閉ざしてきたおっちゃんたちが語る人生に、耳を傾けてみてください。

あしあとプロジェクト「あじいる」発刊に際して

「過去を聞いてはいけない」
30数年前、山谷に行ったときに、言われた言葉だ。過去ではない、いま現在を共有することが必要だと思ってきた。
しかし、年月が経ち、個人的にも関係が深くなると、いろいろな場面で自らの過去を語る仲間の姿を目にしてきた。子どものころのこと、家族の関係、仕事のこと、なつかしさや後悔、そして楽しい思い出等々…。
若いころには考えもしなかった過去を語るということを、年を重ねる中で誰かに伝えたいという気持ちが出てくるのは、60代になった今の私にはわかる気がする。そんな仲間の声を聞きながら、これをこのままにしてはいけない。聞き流してはいけない。その人の歴史を記録していくことの必要性を感じた。
私たちが出会う人々は、人生の後半戦に関わることが多い。彼らは、自分の子どもや孫に話すかのように、自分の人生を語りだす。
最初は躊躇していても、一旦語りだすと、次々と言葉があふれ出る。そんな一人一人の人生は、当たり前だがどれ一つとして同じものはない。
「ホームレス」「野宿者」「生活保護受給者」等々、世間ではひとくくりにし、顔が見えなくされてしまう。
よくある「ホームレスは怠け者だ」といった偏見は、こんな中から生まれてくるのだろう。
「あしあとプロジェクト」は、語る側にとっては、自分の生きてきた証をこの世に残していくことになると同時に、読む側にとっては、一人一人の人生を知ることで、偏見や差別、社会の矛盾に少しでも目を向けてもらうきっかけになればという思いから始まった。

一般社団法人あじいる
荒川 茂子

「あじいる」は、「アジール(asile)=統治権力が及ばない地域/自由領域/避難所/無縁所」から来ています。聞き取りをしていく中で、社会の底辺で必死にもがき、生きてきた仲間の姿を目にしました。差別され、様々な縁と切り離されてきた一人一人と、ここから新しい縁を築き上げようとしている私たち。“仲間と一緒に冊子を作りたい”という思いから「あじいる」が生まれました。

本文はココから!

坪一つぼいちさんとの出会いは2014年夏ごろである。住んでいたドヤ*の仲間から、隅田川医療相談会の存在を教えてもらい、相談に来る。
生活相談に来た坪一さんはどう見ても82歳に見えず(10歳位若いように見える)、皆でびっくりした。
生活状況や年齢、病状を聞き取り、すぐにでも生活保護を申請したほうがいい状況だったが、 坪一さん自身が「役所にお世話になること」をためらっていた。
そのため、私たちはドヤへ交代で会いに行き、説得をする。ようやく生活保護を申請したのは秋ごろになってからである。

現在では私たちの事務所のすぐ近くでアパート生活をしており、自転車で顔を出してくれる。
坪一さんと関わる中で、今までどのように暮らし、仕事をしてきたのかを聞かせてもらった。
19歳で家を出て、トンネル工事、足尾銅山、全国の炭鉱、そして山谷にたどり着き、長年日雇い労働者として働いてきた。普段寡黙な坪一さんは仕事のことになると目を輝かせながら話してくれる。どのように働いてきたか。場所や一緒に働いた仲間のことも。今まで一番楽しかったことは「山谷で仲間と一緒に働いてきたこと」。

戦中戦後を生き抜き、日本の近代化を支えてきた坪一さんの言葉を記録し、たくさんの方に知ってほしい、
という思いでこの「あしあとプロジェクト」がはじまる。

あじいる創刊号のメインビジュアル

* * *

19歳−26歳 転機

1932年(昭和7年)、群馬県利根郡に5人兄弟の長男として坪一さんは生まれた。13歳で敗戦を迎え、中学卒業後は、実家の農家の手伝いをした。
1951年(昭和26年)、19歳になった坪一さんは、実家から逃げ出し、ダム建設の隧道ずいどう(トンネル)工事で働く。足尾の奥さん連中に誘われ働くようになる。

工事の仕事を始めたのが19歳のときだね。中学卒業して実家の農家手伝っていて。家の田植えが終わってから高崎の近くに田植えの手伝いに行ったんだ。行けって言われて。5人ぐらいのグループで。行くふりして、途中で俺だけ抜けちゃったの。それで水上に行ったの。それが19歳。

足尾駅のすぐ隣の通洞駅つうどうえきから出ると簀子山すのこやまっていうのがあるんだよ。そこへみんな、廃石を捨てるわけ。
足尾行ったとき、最初は隧道工事で行ったんだよね。足尾銅山から出る砂を捨てる場所を造るんで。ただ捨てちゃうと雨が降ると下へ流れてくるから、排水路を脇に造ったわけ。その水を流す隧道を掘ったんだよね。
あの頃、東京から吾妻企業のダンプカーが何台も来ていた。

1958年(昭和33年)、26歳の坪一さんに転機が訪れる。

そしたら、足尾の奥さん連中が職場に来てて、足尾銅山に入りなさい、入りなさい、辞める時は退職金も出るし、ボーナスも出るし、建設会社よりはいいからと。それで入ったのよ。隧道工事は飛島建設。今は、いつも俺らが出入りしていた通洞坑からトロッコ電車に乗れるんだよ。

明治初期から開発された足尾銅山は20世紀初頭には日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山にまで発展。その裏で排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質による環境汚染を引き起こした。(足尾銅山鉱毒事件)
現在は「足尾銅山跡」として国の史跡となっている。

* * *

記憶…足尾銅山

閉山後の坑道を一部開放して観光地化している足尾銅山に一緒に行き、当時の様子を語ってもらった。
進鑿夫しんさくふとして働いた5年間。20代の後半。人生の絶頂期だっただろう。目を輝かせ、身振り手振りをまじえて坪一さんが語る。

進鑿しんさくをやるときには養成機関があって、ダイナマイトの成分が何かとか、導火線の燃える速さとか、1メートルでどれくらいとか。それでなる。養成は半年くらいかな。立ち上がりとか、階段堀りとか、ひ押しとか、立坑たてこう堀りとか教えるんだよ。穴を掘るときは芯抜きっていう掘り方がある。おいらは隧道工事でやっていたから、掘り方はわかっていた。

仕事していた当時は、通洞坑から30分くらい歩きで自分の切羽きりはまで行った。

大概、山のいいとこだったら削岩機で1㍍50くらい穴あける。それで全部4箇所の穴終われば火薬を込めて鳴らす。
それで帰ってくるわけだよ、自分の今日の仕事は終わり。

水を使わないとホコリがいっぱい、だって石のところ掘っていくからね。削岩機で水が通るようにできている、だから水を出しながら掘る、掘った砂が水で流れてくる。
機械が故障することもある。部品の故障、自分でどこが悪いとかわからないと。
ウォーターチューブが悪いとか、交換しなくちゃ、全部自分でやらないと。

悪い切羽には水が通っているんだよ、塩ビ管でね。
悪い奴はその切羽をやりたくないと思ったら、塩ビ管に石を落として、「今日はこの現場落石で水ホースが壊れて仕事にならない」と。
そうするといくらか補償くれるの。俺はできなかったけど。

仕事は、9時出と12時出があって、9時出は午後3時、4時くらいに終わる。
立坑に入って地下12メートル入ったらサウナ風呂と一緒だよ。俺らはズボンはいているけど、俺らが発破かけたやつをトロッコに乗せて運ぶ仕事の人らはパンツ一丁だよ。
12番坑っていったらね、お湯みたいに水が沸いているとこあるの。
洗い場になっていて、顔や手なんかは洗う。身体を洗ったりはしなかったけど。蒸し風呂の中と一緒だからね。

今では寂れてしまっているが、当時足尾の町は活気にあふれており、映画館も劇場もあった。飲み屋がたくさんあり、労働者の憩いの場になっていた。今ではまったくお酒を飲まない坪一さんも、当時は大酒飲み。

社員寮は、一人ひとりに6畳ぐらいの部屋。料理は食堂があって寮の食堂、たっぷりどんぶり飯だった。
朝は食堂にご飯が出来ているから食べて出かける、弁当は持ってかない、弁当食わなかったなぁ。

所帯持ちは社宅がいっぱいあった、俺ら独身は寮にいた。最初の寮は、抗口の近くにあった。それから足尾町の中才(なかさい)というところに移って、そこから毎朝行った。
俺らが入ったとこはね、職員社宅だったからいいんだよ。中才(なかさい)行っても職員の寮だったんだ。
中才は建物も大きかったね。だから労金(労働金庫)の社長もね、俺らと一緒の寮に入っていた。テレビ室があってさ、プロレスとか歌番組とか、労金の社長や所長とかみんな一緒になって面白かった。

風呂はね、寮にはないんだよね。寮の直ぐ前に職員の銭湯があった。
あと坑口にも大きい風呂があるの。洗濯機のでっかいやつもあって、そこに入れるの。
それで、仕事が終わったら坑口で風呂入って着替えて帰ってくるの。
その頃洗濯したところは今広場になっているの。何か建物も建っていた。

1962年当時の足尾銅山。テレビドラマ「人間の条件」撮影風景(坪一さん所蔵)

* * *

記憶の中のまち。通洞

いやぁ飲んだねぇ、ずいぶん飲んだね。
焼酎はあんま飲まなかった、酒とかビールとかね、通洞の町でね、昔は飲み屋もあったんだよね、寮から歩いて20分くらいかな、ずうぅっと、飲み屋とかそば屋とか喫茶店もあったね。
今は寂れているけど。

二日酔いで仕事に入って、エレベーターの中で酒の匂いぷんぷんさせてね。
そういうこともあったよ。
植佐っていう寿司屋も今は小さくなっちゃってた。
川本(食堂)も小さくなってる。
川本の親父も酒飲みでね、クリスマスの時か、一緒に飲んでダンス踊ったり。ヒゲ面をつけてくるんで、痛くていやんなった。

ダンスホールはなかったけど、飲み屋なんか行ってね、クリスマスとかの時はね、結構面白かったよ。
映画館もあったし劇場もあって、水原弘とか来たこともあった。

『人間の条件』という映画があったでしょ。
あれ、テレビのロケは足尾町で写したんだよ。俳優の根上とか来て。
寮のすぐそばに鉄道があって神社があって、何かに似てるっていうんでロケやってたんだよね。
そのときは随分にぎやかになった。
休みの日は、通洞の町か桐生だね。
桐生は駅の周りとかね、藪塚温泉とかあってね、桐生までは「わたらせ渓谷鉄道」。足尾の人らはね。

山谷のドヤ
坪一さんはその後いくつかの炭鉱を巡ったのち、山谷にやってきた。そこで宿泊していたのが1泊1300円で泊まれる「金寿荘」というドヤだった。 話の続きは冊子「あじいる」の創刊号でお読みください。

あじいる 創刊号

あじいる5号
目次
  • 巻頭写真 「ドヤ」
  • 特集:坪一さん「足尾銅山と山谷」
  • 医師コラム「じん肺」について/毛利一平
  • 部屋と人「坪一さんの帽子」
  • ART COLUMN/いしやん&こにたん
    「おどりば」ーロゴ誕生のヒミツとおさかな
発行年月 2018年5月
値段 無料(2号目以降は200円/1冊)
購入方法はこちら
ライター:
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私たちは、生活困窮者に「食」(フードバンク事業)と「医療」(隅田川医療相談会)を無償で提供し、誰もが安心して生活できる社会をめざし活動を続けています。
フードバンク事業では、全国の支援者から届けられた寄附品を、難民支援・ホームレス支援・子どもの貧困・居場所づくりに取り組む団体などに提供しています。また、多様な背景をもつ当事者が主体的に社会に関わっていくために、あじいる内の取り組み(フードバンク事業や医療相談会など)は当事者が中心となって行っています。
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