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2018.08.24.Fri

わたし、虐待サバイバーです!第6話〜虐待する親を責めるだけで終わっていませんか?〜

虐待サバイバー
こんにちは!たぬき先生です。このコラムは、子ども時代に児童虐待を受けていた私の経験を踏まえ、児童虐待をへらすためにはどうすればよいのかを一緒に考えていく読み物です。第4話までで、私の半生を綴って来ましたが、前回からは、被虐待経験やその後大人になってから現れた後遺症・トラウマの体験を踏まえ、私なりに社会に提言をしています。

「毒親」という言葉を広めないで!~母の物語から見える「虐待の連鎖」~

私を虐待・ネグレクトした実の母親の物語です。母から聞いた話で、全てを知っているわけではありませんが、私の母親があれだけ酷いことを私にしていたのには、はっきりとした原因がありました。

母親は、DV家庭で育った人でした。私が生まれた1983年(昭和58年)。私の母方の祖父母は安定した平和な家庭を築いていました。私は、祖母からも、祖父からも、大変、可愛がられた記憶があります。
しかし、私が産まれる前の若い頃の祖父は、祖母に酷いDVをしていたというのです。若い頃の祖父は、祖母に暴行を繰り返し、酷いときは、祖母の髪の毛を皮ごと引きちぎり、祖母は「ギャー!」と悲鳴をあげ、顔中血だらけにされていたこともあったそうです。

昭和の時代で、日本刀がある家だったので、祖父が祖母に日本刀で切りかかったこともあると、母親は言っていました。

つまり、私の母は、子ども時代に両親のDVの現場をみて育った人なのです。
DV以外にも、祖父は、若い頃、祖母以外に愛人を作り、9年、家に帰ってこなかったとも聞いています。

児童虐待に支援のなかった時代はそう昔ではない

今の法律では、親のDVの目撃も子どもの虐待に入りましたが、当時は、DV防止法もなければ、女性シェルターもない時代です。このため、母のような酷い家庭で育つ子どもの支援にも、学校も児童相談所も一切、介入などしていない時代でした。

DVを受けていた祖母が行政に相談に行ったとしても、ただの家庭の問題と処理されてしまい、警察に駆け込んでもまともに対応などしてくれません。どこにも家庭の問題の支援のない時代だったのです。

なので、なぜ母が、私や妹といった子どもを犠牲にしてまで男性に依存していき、離婚再婚を繰り返すのか、ネグレクト(育児放棄)や暴言を吐いたり、時に子どもに激しい暴力まで振るうのかが、私にはよく分かっていました。
原因は、母の父である祖父でした。

母は、よく言っていました。父(私の祖父)が憎い!のだと。父に愛されなかったと。そして、私が母に愛情をもらえないことの不満に対し、いつもこう言っていました。
「お前は、私よりマシな家庭なのだ!!」と。

私は、子ども時代いつも母親にこう思っていました。「父から愛情をもらえなかったことさえ諦めれば、離婚再婚を繰り返すことなく、豊かでなくても平凡に幸せに暮らせるのに!」と。

母は子ども時代に父から愛されなかったことや、悲惨な家庭環境で育ったために、理想の男性や理想の家庭を追い求めては離婚再婚を繰り返し、理想と現実とのギャップが大きくていつまでも青い鳥症候群にとりつかれたままだったのだと思います。
そんな母は、子どもの私から見ても、とても不憫でした。

子どもに虐待をしてしまう親にも、子ども時代があり、全てでないにしても、虐待の連鎖が起きていることは少なくないと私は思っています。DVをしていたという祖父の子ども時代は、非常に貧困家庭だったという情報しか聞いておらず、私が15歳のときにこの世を去った祖父の生育歴については詳しくは分かりません。

母の本当の姿

私は、小学生の頃、学校の先生から、こんなことを言われた記憶があります。
「あなたのお母さんの担任をしていたんだよ。あなたのお母さんは、優しい子で、勉強もできて、とても優秀だった」と。
母の小さい頃を何十年も経っているのに、教員がしっかりと覚えているほど、母はまともな子どもだったのです。でも、大人になり、壮絶な生きづらい人生になってしまった。そこに、周囲や社会からの理解も支援もなかったのです。

私が子ども時代、私の母に「大人の支援」があったら、母も子どもだった私や妹も、救われていたと思うのです。虐待を受けている子どもだけを救う社会ではなく、どうか、虐待を受けても子ども時代に支援もない中、生き抜いてきた大人たちにも、理解と優しさを向ける社会であってほしいと切に願います。
母は、私にとっては実の親ですから、子ども時代に酷い目に遭わされた子どもの私としては、今さら「母親」とは思えないし、過去にされたことを思い出せば、憎しみや嫌悪感もわいてきます。でも、母を一人の人間として見たならば、母も被害者であり、可哀想な人だと涙が出るのです。

虐待問題は「親が悪い」では、解決しない問題

虐待体験者(虐待サバイバー)が虐待した親に対する想いは、複雑で人それぞれだと思います。心底、親が憎いだけの人もいると思います。虐待サバイバーの中には虐待した親を「毒親」と呼ばれる方もいらっしゃいますが、私個人は「毒親」という言葉は使いたくないのです。

子どもとして親を見る視点だけでなく、親も一人の人間として見る<大人の視点>がいると思っています。虐待被害者だからといって、子どもを虐待することがゆるされることではありませんが、困難を抱えているために虐待をしてしまうという客観的な視点がいるのではないでしょうか。

「毒親」と悪口を言いたい気持ちは、痛いほど分かります。でも、親の悪口、恨みを言っているだけでは、虐待問題は解決しないと私は思っています。虐待問題を解決するためには、虐待してしまう親が、どうしてそうなったのか、親の生きてきた歴史や社会構造、時代背景など、虐待が生み出される社会の仕組みに問題はないかを探っていく必要性があると思っています。

私自身は、母に対しては、憎しみもあれば、不憫に思っている気持ちも両方混在しているのです。
虐待する親にも子ども時代がありました。加害してしまう親自身も虐待や貧困の子ども時代を過ごした被害者の親も少なくないと思っています。

しかしながら、虐待被害者にとって虐待した親に対する想い、考え方には正解がないと私は思っています。
親を批判したい人もいると思いますし、私自身も長い間、親を恨んできました。
虐待サバイバーは、虹色でみんな異なる価値観や考え方、生き方をしています。虹色のサバイバーたち一人ひとり、親に抱く想いには答えが無数にあり、これが正解だと他人が押し付けるものではまったくありません。

だけど、社会に虐待サバイバーの不幸を発信し、理解を求め、本当の意味で虐待被害者が救われる社会を望むなら、当事者が親の悪口を言うだけでは解決しないという意味で、「毒親」という言葉を社会に広めてほしくないのです。

日本には約70年前、戦争だってあったのです。たくさんの人が生きてきた人生が、ただのDNAの情報としてではなく、歴史的・文化的に現在の私たちにつながっているです。
虐待問題は、虐待する親だけではなく、社会全体の問題でもあるのではないでしょうか。
それゆえ、虐待問題は「親が悪い」では、解決しない問題だと私は思っています。

「赤ちゃん日記」から読み取れる母の愛情

私が生まれた昭和58年2月から母が書き初めた「赤ちゃん日記」を私は持っています。
この日記は、私に愛情をたっぷり注ぎながら、一生懸命に子育てに奮闘する母の姿が読み取れる文で満たされています。
日記帳の冒頭にはこのような文章が書かれています。

千恵ちゃんへ

私のお母さん、つまり千恵のおばあちゃんがこの日記をプレゼントしてくれました。おばあちゃんも、私が赤ん坊の時日記をつけてくれていたので私もまねをしてつけてみることにしました。
そしたら、より千恵のことをよくかんさつできるし、お父さんやお母さんが千恵にどんなふうに接してきたかがわかると思うの。
勉強がよくできなくってもいいの。あなたが大きくなっていくうえで、人の気持ちをくんでやれること。思いやりをもてること。やさしく たくましく育ってくれることを心から望んでいます。

真っ黒になって走りまわっていらっしゃい。どろんこになって遊んでいらっしゃい。動物たちとあそんでいらっしゃい。草や花もみんな生きているの。生命の大切さを知ってください。
あたなが生まれた時の世の中は、平気で人を殺したり、乱暴をしたり、校内暴力、家庭内暴力をする子供たち、一家心中をしたり…そんな暗い世の中でした。

どうか千恵、あなたの未来が明るくて平和な世の中でありますように。
自然や大地をあなたにのこせるように、お父さんやお母さんはしっかりしなければなりません。
千恵、あなたが大きくなって結婚をして子供をうんだりしたら、この日記をよんで下さい。お父さんもお母さんも、まちがえたり失敗したりしながら、あなたをしっかり見まもっていきいましょう。

世界一
かわいい
私達の千恵ちゃんへ

昭和58年2月 母から

「赤ちゃん日記」を読んで私は涙が溢れ出ます。私が生まれたときの母は、決して子どもを虐待する親ではなかったということ。不器用ながらも必死で子どもに愛情を注ぎ、子育てに奮闘し、子どもの成長を心から喜び、幸せな未来を願って子育てしていた真実が、日記からたくさん読み取れるのです。
そんな母を次第に子どもを虐待するような親に向かわせてしまったものとは、母個人の問題だけでしょうか?虐待する親を責めるだけの社会で果たしていいのでしょうか?

小学生時代の義父が抱えていた真実

この物語の第1話で出てくる小学生時代の義父について書かせてもらいます。
義父と私は25年前に母と義父が離婚したことで生き別れ、その後、一度も会っていません。
しかし、当時は分からなかったことが、25年の歳月を経て、ある真実が明るみになってきました。私が成人してしばらく経ったころ、母から義父が40代後半という若さで亡くなっているという事実を聞きました。

最近になって、当時の義父の行動を思い返してみました。
小学校時代の義父は、決まって、アルコールを飲んだときに、母に暴力を振るったり、私をひどく虐待していたのです。

アルコールを飲むと暴力性を見せていた義父

この物語の第1話で出てくる義父が犬を逃がしてしまった私を殴ると言って夜中に追いかけ回したあの夜。義父は、フラフラになるほど酔っ払っていました。小学生時代を振り返ると、義父は、よくお酒でトラブルを起こしていた人でした。当時を振り返れば、義父にははっきりとアルコール依存症の傾向がありました。
義父は、あるときは飲み友達と喧嘩したといって、相手の顔面を拳で殴り鼻血の返り血を浴びて、血だらけで帰宅しました。返り血で血だらけの義父が、フラフラに酔っ払っていたのを覚えています。

最近、義父のアルコール依存症を疑って、母に義父の死因を尋ねたところ、
「友人と飲酒中に泥酔し、農薬を誤飲しての事故死だった」と返ってきました。

義父は、アルコール依存症で、死んだのです。

今でもアルコール依存症が病気であるという理解が低い日本で、私が子ども時代には誰も病気だという理解も知識もなかったのです。
アルコール依存症に限らず、社会から病気だという理解の低い依存症…。
理解がないために、周囲も適切な対処ができず、適切な治療に至らず、本人も周囲も人生が不幸になっていくものです。

実は、小学校のころの義父は飲酒をしていないときは、養女の私を可愛がってくれたこともたくさんあったのです。
夏になれば、夜に山へカブトムシやクワガタムシ採りに連れて行ってくれたり、川へ釣りに連れて行ってくれたりしました。
夏の夜、川に幻想的に舞う無数のゲンジボタルを観せてくれたことも、今でも忘れられない風景としてしっかりと私の記憶に残っています。

私に“ある変化”が起きた

この物語を書き発信する中で、私は自分の幼少期から現在の大人に至るまでの過去を追体験してきました。そうした中、私に“ある変化”が起きています。
それは、私が実の母と電話やSNSなどで、感情的にならず、冷静に話せるようになったのです。この物語を書くまで、SNSもブロックしてきた私が、母との連絡手段を自分から復活させ、普通に日常的な会話ができるようになっているのです。

成人してからこの物語を書き始めるまで、母と電話で会話するだけで過去の虐待された記憶がフラッシュバックを起こし、恨みや辛い感情がこみ上げてきてはひどく発狂が止まらなかった私です。
電話ですら冷静に話ができず、嫌悪感でいっぱいでした。

この物語を書くことで、母をゆるせたというより、過去の母との出来事が私の中で整理でき、感情的にならずに過去のトラウマの処理をすることができたのだと思います。

母にもここまでの物語は読んでもらいました。「ごめんなさい・・・とても後悔しているの」と泣きながら母に謝罪されました。
私は冷静に「謝らなくていいよ。お母さんを責めるためのものではないから」と言いました。

母は、たくさんの食料をダンボールに入れて、北海道まで送ってくれました。
私は母と冷静に向き合えるように変化しており、母に「北海道へ遊びにおいで」と言いました。「行ってもいいの…?」と母はか細い声で遠慮がちに言いました。私は「春や夏の美しい景色が見れる北海道らしい時期においで」と答えました。

第6話のポイント

私を虐待した母は、決して元から子どもを虐待する親ではなかったことが見えてきます。私が赤ちゃんのころは、一生懸命に子育てに奮闘する母の姿が「赤ちゃん日記」からも読み取れます。子育てという大仕事をする中で、貧困になったり、社会から大人の支援がない中、追い詰められた母は、自身の苦しさの中から子どもへの虐待を生み出してしまったことが見えてきます。

また、母自身も子ども時代に虐待に遭っていたという母の抱える心の問題も見えてきます。母の子ども時代の心の傷は大人になっても癒えておらず、苦しい生活に置かれた中でその心の傷が子どもへの加害という形で表に出てきてしまっています。その傷が適切にケアされない中で、虐待の連鎖が起きてしまっていることが分かります。

小学生のころの義父は、アルコール依存症という問題を抱えていました。アルコールが入ると暴力性を示し、子どもに虐待したり、家庭を崩壊させてしまい、最終的には死に至ってしいまっています。アルコール依存症など依存症が病気であり、適切な治療が必要であるという社会の認識の向上が必要だと思われます。

当事者向け情報

虐待サバイバーに限らず、どんな人も、さまざまな困難を抱えていたり、乗り越えて生きてこられた方が多いと思います。自分の過去の不幸や、恵まれていなかった環境などを不幸に思うこともありますが、私は当時者はキャリアだと思っています。
学歴や職歴など履歴書に書けるものではありませんが、何も苦労のない人生より、苦労した経験はその人のキャリアであり、財産だと思っています。誇りに思っていいと思います。例えば、自分には学歴がないと劣等感を持つ方もいます。でも、学歴は履歴書に書けるキャリアですが、学歴のない中、草の根で生き抜いてきた経験は、履歴書には書けませんが、立派なキャリアだと思います。私は、悲惨だった体験を生き抜き、前向きに生きようとしている今の自分が好きです。自分にしかない、自身を持てるキャリアが自分にはあると思っています。
当事者はキャリアです。誇りに思いましょう。

虐待サバイバーのたぬき先生が講演会でお話します

たぬき先生が、講演会でお話します!

『わたし、虐待サバイバーです!』を連載中のたぬき先生こと羽馬です。 連載、いつも読んで頂きたくさんの応援コメント、ありがとうございます!

さて、物語の最終話では、精神科で〈二次被害〉に遭ってきた体験を語ります。精神科での〈二次被害〉は実はかなり深刻なのですが、当事者が真実を訴えてこなかった歴史があります。 精神科での〈二次被害〉がなぜ起こるのか?どうしたらなくなるのか?を〈赤ずきんとオオカミ トラウマ・ケア〉の著書である白川精神科医と対談を交えながら講演会を実施することとなりました。

講演会、ぜひご参加ください。皆様にお会いできるのを楽しみにしてます

お申込みはこちら
ライター:
羽馬 千恵
北海道札幌市在住のフリーライター。虐待被害者の大人として「大人の未来(全国虐待被害当事者の会)」の代表を務める。興味分野は、「虐待サバイバー」「貧困」「奨学金自己破産」「生活保護」。専門は、野生動物や自然で、タヌキの研究が長く、自身もたぬき化していった通称「たぬき先生」。 http://haba-chie-564.com/index.html お仕事のご相談