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2018.07.27.Fri

わたし、虐待サバイバーです!第4話〜社会人編〜

『大学院を無事に卒業したものの、就職活動に失敗したわたしは、25歳のとき、生活保護になってしまいました。今からちょうど10年前のわたしに会いに行ってみましょう!』

就職活動に失敗しアルバイト生活の日々

大学院を出たとき、就職活動に失敗し、仕事がなかった時期がありました。25歳のころです。運悪く、リーマンショックが起きた直後で、世間では「派遣切り」が横行し、「年越し派遣村」などが話題になっていた頃です。

また、今のように「第2新卒」というものが、まだ社会に浸透していない時代だったため既卒での就職活動は非常に困難を極めました。
仕事が見つかるまでの間、本州の母の実家に一時的に寝泊りさせてもらいながら、アルバイトをして就職活動をしようとしました。しかし母から「お前の顔を見るだけでイライラする!!水道代もタダじゃないんだ!家の食べ物は何も食うな!」などと罵られ、一週間もたたないうちに実家から追い出されてしまいました。母はいつのまにか、新しい男性を作り再婚していました。

私は、敷金も礼金もいらないボロボロの1万円の風呂なしのアパートを借り、シャワーはネットカフェで済ませながら、アルバイト生活を続けました。
アルバイトは何でもやりました。交通誘導のアルバイトは日雇いで、その日のうちに日給7000円を現金でもらえます。お金に困っていた私は、昼食代を削って、公園の水で空腹をしのぎながら働きました。ラーメン屋で働いたときは、まかないが食べ放題だったので、一日分の食事をアルバイト先で補給するいった貧困生活を送りました。こうしてアルバイトをしながら、わずかな休日に就職活動をし、一日一日、命をつなぐ日々を送りました。

学生時代と社会とのギャップ

就職活動では、どこを受験しても、「高校中退」という履歴書の経歴を質問されました。自主退学ではなく、何か事件でも起こして退学になったのではないか?という疑いをかけられた面接もあり就職はなかなかうまくいきません。
大学・大学院では野生動物を専攻し生物学を研究したり学んできていましたが、社会にその専門性が活かされる職場はとても少なく、学生時代、勉学を頑張れば自分の希望の職に就けると信じて学業に励んだきた私は、社会が求める新卒社会人のニーズと自分とのギャップに悩まされました。社会は、大学での専門性や、学問的な業績よりも、「ふつうの人」が求められることが多かったのです。
既卒で就職活動に失敗している私は、そのレッテルも貼られてしまいました。大人社会は、学生のころまでと違い、一度でも失敗すればなかなか受け入れてもらない社会だったのです。苦学したり、挫折を乗り越えてきた人間より、何も挫折経験のない履歴書が美しい人の方を社会は評価するということを思い知らされました。
「高校中退」という履歴書上、汚点とされる部分を面接官に指摘されたときは、子ども時代、過酷な家庭環境だったことを説明せざるをえないこともありました。しかし、勇気を出して正直に説明しても「家庭環境が悪い中で育ってきた人より、安定した良い家庭で育った人の方が雇用側は使いやすいんだよね」というような回答を言われてしまい失望したこともありました。

また、精神科の閉鎖病棟に入院歴のある人間は、まずどこも採用になりません。精神科や閉鎖病棟への社会の偏見があまりに強すぎるからです。大学時代に精神科の閉鎖病棟に入院歴のある私は、その事実も隠して就職活動をするしかありませんでした。事実は隠さなければ就職活動ができないことでいつも「嘘をついている」という罪悪感を感じていました。
社会的強者というのは、挫折や困難を乗り越えてきた人のことではなく、「挫折のない履歴書が美しい人」なのだという社会の矛盾にも疑問を感じていました。

 

貧困生活が精神的な病も悪化させた

大学時代から精神の不安定さが酷かった私は、経済状況が悪化すると精神状態も悪化してしまいました。ある朝、いつものようにアルバイトへ行こうとしても、気分がひどく落ち込み布団から出ることもできません。電話で「今日は体調不良のためお休みさせてください」とバイト先に伝えた後は、部屋から出る意欲も湧かず、引きこもってしまいました。その後、数日経っても気分は回復せず、アルバイトに行くことができませんでした。アルバイトができなければ生活費が底をつきます。「どうすればいいのだろう?」と苦悶すればするほど、気分の落ち込みは激しくなり、ますますアルバイトへ行くことができませんでした。
役所の生活保護課に電話で事情を話し、生活保護の申請をすることとなりました。これまで自分1人の力で生きていこうと頑張ってきた私も、限界を超えるほど疲弊していたのです。25歳で生活保護になり、その後の半年間は寝たきりの引きこもりになりました。実はその間の記憶は、ほとんどなく、真っ暗なトンネルからいつ抜け出せるか分からないというお先真っ暗な時代でした。

今思い返しても、「生活保護」時代の半年間、どのように暮らしていたのか、日々の生活を思い出すことができません。「思い出」が何ひとつないのです。職場で働いたり、家族の家事をしたりしている生活と違い、ひとり暮らしの引きこもりの生活は、日々の生活にほとんど変化がありません。生活保護になってしまえば、友人と遊ぶということも簡単に叶うものではなくなってしまいました。友人にすら、今、生活保護なんだ、と言うこともできませんでした。
生活保護は、憲法第25条により「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とされています。だけど、私の生活保護の生活は、将来の夢も抱けなければ、文化的な生活ができているとはとてもいないものでした。ただ生かされているだけと感じてしまい、精神的な安定にはほど遠かったのです。
しかし、生活保護の制度がなければ私はホームレスになるか、のたれ死んでいました。生活保護の制度には、今ではとても感謝しています。

出口の見えない真っ暗なトンネルをひたすら歩き続けているようだった

生活保護から抜け出したい!

生活保護になって半年が経ったころ、精神的な落ち込みが回復してきた私は、自分から生活保護を抜け出したいと思いました。しかし、生活保護から抜け出すことは至難の業でした。抜け出したいと思っても、行政も病院も、どこも具体的な方法を教えてはくれません。
再び就職活動を始めたのですが、仕事探しには、履歴書や証明写真、面接地までの交通費などお金がかります。就職活動をするお金が、最低限の生活費しか支給されない生活保護費からまかなうことは難しく、交通費を削るしか仕事を見つける方法がないため、近場で就職先を見つけるしかありません。悪戦苦闘の末、非正規雇用ですが、何とか、ひとり暮らしができるだけの仕事が見つかり、生活保護から抜け出すことができたのです。
しかし、これで一件落着とはいきませんでした。就職しても、すぐにお給料は入りません。就職すれば生活保護費は切られますから、給料日までの期間、ほとんどお金がなく、水道の水を飲んでお腹を満たし、ガリガリに痩せ細りながら、給料日までの間をしのいでいました。

その後、低賃金で不安定な非正規雇用からも抜け出したいと思い、働きながら転職活動を続けました。1年後、とても条件の良い安定した職に正社員で転職が叶いました。しかし、原因不明の激しい気分変動は職が安定しても変わることなく、せっかくの好条件の仕事も続けられなくなって、結局はまた失業状態に陥ったのです。その後も私は、精神の不安定さだけでなく、職場で対人関係が上手くやれなかったり、怒りの感情のコントロールが難しかったり、組織に適応できないなどの理由で、20代~30代前半は、職を転々としてしまったのです。
その間、再度、精神科へもかかっていました。何人もの精神科医に診てもらいましたが、精神的な不安定さや社会での生きづらさの原因は、どの精神科医も判らず、病院を変える度に違う病名を付けられました。
35歳の現在、障害者枠ではなく一般枠で何とか職に就けてフルタイムで働けていますが、大学の学部の頃に借りた奨学金の約500万円も、まだ支払える見込みはありません

 

第4話のポイント

大人社会に出てから、学生時代とは異なる社会の仕組みに矛盾を感じてきました。
子ども時代の虐待の事実や成人後に後遺症で精神科に入院となった事実を、当事者がカミングアウトして生きていき辛い社会の仕組みも見えてきます。
虐待サバイバーは社会常識や社会人として求められるコミュニケーションなどのスキルも低い場合が多く、失敗しながら学習してスキルを高めていけたとしても、転職回数が多かったり年齢が高くなれば、現在の日本社会ではやり直しがきかなくなり、貧困に陥ってしまう場合があることを指摘させてもらいます。

次号からは、自身の体験をもとに、私なりの社会への問題提起をさせて頂きます。

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