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2018.07.13.Fri

わたし、虐待サバイバーです!第3話〜大学・大学院時代〜

虐待サバイバー
「こんにちは!毎日を明るく楽しく!」をモットーに、忙しい日々の中でも小さな幸せや面白いことを発見し、他者と笑いを共有しながら、楽しく生きている“たぬき先生”こと羽馬千恵(はば ちえ)です! 野生動物が好きで、大学時代は、野生のタヌキの研究や、無人島で野生のアザラシの観察などを行ってきました。野鳥観察や植物の種類を覚えることも大好きです。
いまでこそ明るく元気が唯一の取り得であるわたし。でもじつは子どもの頃に虐待を受けていた「虐待サバイバー」なんです。 このコラムでは、そんな私の過去の虐待経験を振り返りつつ、虐待経験者がどんな人生を歩んでいるのかをお伝えするとともに、この社会から児童虐待をなくしていくためには、なにが必要なのかを一緒に考えたいと思います。

大学進学後、精神を病んでいった

北海道の大学へ進学することができて、実家から離れ独り暮らしとなり、これで自由になった、これからの未来は明るいのだと思ったら、ここからが新たな大変な人生の幕開けでした

大学1年生の頃から、欝(うつ)などの気分変動の激しさが現れたり、対人恐怖症のように新しい人と出会ったときは、極端に緊張して汗だくになり固まってしまったり、同じ年齢の同級生と普通にコミュニケーションが取れない等、原因不明の様々な症状に悩まされるようになりました。寝込んで起き上がれないほどの酷いうつ状態になっても、知識が全くなく「うつ状態」を「うつ」だと認識すらできないために、病院へかかるという発想もなく、原因不明の中、アパートでひとりで倒れていることが多くなりました。

子ども時代、社会性を家庭で全く学んでいませんから、精神障害に関しての知識もなければ、誰かに相談しようという発想もありませんでした。そもそも、人と普通に会話することすら難しいのでした。
人と会話ができないということは、これは実は非常に大変なことです。それだけで、引きこもりにもなりますし、うつ状態にもなります。

お父さんがほしい…。『愛着障害』からトラブルに。

自分の親年齢の年配の男性に対して、父親だと誤認してしまうという、いわゆる愛着障害だと思われるような症状が発症したのも成人後でした。子ども時代は、父親など家にいたら最悪で、いなくていい、寂しくもないと思っていた私が、二十歳を超えた頃、「お父さんがほしい」という寂しさに襲われるようになったのです。実の父親は当然、いませんから、赤の他人である年配の男性を自分の中でお父さんだと錯覚を起こしてしまうようになってしまったのです。

私を父親のように心配してくれている。私が辛いときは、心配して助けにやってきてくれる。そんな錯覚を赤の他人の男性に起こしていくのです。

しかし、当然、赤の他人ですから、錯覚を起こした年配の男性は、私が期待したとおりには、反応が返ってきません。期待が自分の中で「裏切られた」と思った時には、大パニックを起こし、深い哀しみと、激しい怒りのコントロールがまったくできなくなってしまいました。怒りから、相手の男性に暴言を吐いたり、執拗に責めたてたりもしていました。心の中では、寂しくて泣いている幼い子どもの私が「お父さん!!どうして愛してくれないの!!」と叫んでいました。

一つの辛い体験からではなく、子ども時代、長きにわたり慢性的に虐待を受けた人の複雑なトラウマ(複雑性PTSD)の症状の一つに、「怒りのコントロールができなくなる」というものがあります。虐待サバイバーは、子ども時代、親から抑圧・支配された異常な関係性の中で育っているため、怒るべきときにも「怒りの感情」をずっと封印したまま大人になっています。長い年月、封印され続けた怒りの感情は、いざ怒りを出しても「安全」という環境になったとき、噴水の水が溢れ出すように怒りの感情が爆発し、自分では抑制できない状態となることがあります。しかし、心の中では幼い子ども時代の自分が傷ついて泣き叫んでいるという心理なのですが、底知れない哀しさ、寂しさを素直に表現できず、怒りの表現となって現れることがあります。

底知れない哀しさや寂しさを素直に表現できず、怒りの感情が溢れ出して自分では制御不能な状態となっている私

 

複雑性PTSDに悩まされる日々…

原因不明の強い不安や緊張で身動きが取れない日々も度々襲ってきました。
貸与型奨学金とアルバイト収入に頼った大学生活でしたが、精神的な落ち込みがひどく、アルバイト先からの電話に出られずにバイトをクビになったこともあります。
気が狂いそうなほどの孤独に苛まれ、自分は世界で独りぼっちなのだという、底知れぬ寂しさから、自殺未遂もしました。薬局で買ってきた市販薬を大量に飲んだり、腕をリストカットしたりしました。
嫌な過去の記憶が何度もフラッシュバックを起こし毎日毎日止まらない症状にも悩まされました。今まさに起きているかのように過去の辛い体験を再体験するフラッシュバックによって七転八倒したこともあります。
いつも自分の心の中に、ブラックホールのような底知れぬ穴があるような感覚が付きまとい、その穴に落ちれば、もう二度と這い上がってはこれないのだという恐怖がありました。暗い穴の先には、虐待した母や義父たちがいました。
つい最近、厚生労働省が虐待など長期にわたるトラウマを「複雑性PTSD」という病気として認定しましたが、当時は虐待による成人後の後遺症など認知すらほとんどされていない時代でした。

とうとう、精神科へ。しかし、理解も支援もなく放置された

二十歳のとき、大学の学生相談室を通して、精神科への通院を勧められ、不定期に通院するようになりました。しかし、子ども時代の家庭環境の詳細な聞き取りは主治医である精神科医からあっても、理解も支援もしてもらうことができず、何の解決にもなりませんでした。
パニックが酷く、薬を大量に飲んでしまったり、自殺未遂を繰り返した私は、二十歳のとき、とうとう精神科の閉鎖病棟に入院となります。しかし、私の病状を理解できない主治医は、私の子ども時代の心の傷に向き合ってくれることもなく、はっきりした病名すらつけてもらえませんでした。このため、治療やカウンセリングを受けることもできませんでした。
閉鎖病棟の保護室に入ったとき、鉄格子の柵ごしに主治医が私に言った言葉は、今でも忘れられません。
「あなたにも、何か病状があるのだろうけど、忙しいので対応できないんだ。実家に帰るということで退院してほしい」と言われ、私の治療を冷たく放置しました。二十歳の私は、何も言い返せず、黙って主治医の要望を受け入れるしかありませんでした。

主治医は保護者である母親に連絡をとり、私はいったん兵庫の実家に帰ることになり、退院させられました。しかし、子どもに関心がなく、精神科へ入院となった娘に対しても暴言を平気で吐く母親のもとへ帰っても、穏やかに一緒に暮らせるはずがありません。
3日ほど実家に滞在後、また逃げるように、北海道のアパートへ一人で飛んで帰ったのです。

 

簡単にくたばれないと悟り、自分の生き方を決める

このとき、自殺したいと思っても、人間は簡単にくたばれるものでもないのだ、と知った私は、人間には、二択しかないのだ、と悟ります。二択とは、自分の人生を受け入れて生きるか、死ぬか、です。二十歳でようやく、自分の苦しい人生を受け入れて生きていこう、と泣きながら決心したことを覚えています。
幼い子ども時代から、ずっと一番叶えたい願いがありました。誰にも言えなかったけれど、小学生のときも、中学生のときも、高校生のときも、一番の願いは、自分の人生を止めて、誰か幸せな家庭に生まれた「他人の人生を歩みたい」という願望でした。私が同級生のAちゃんの家庭に生まれていれば、Bくんの家庭に生まれていれば、そんな絶対に叶うことのない願いをずっと持っていたのです。
小学生のころから、就寝時になると、目をつぶって、理想の家庭の中で育つ自分の姿を空想していました。現実世界が夢で、夢の世界が現実の自分。そんな空想をすることで、大人になるまで何とか精神を保ってきたように思います。
年齢が上がるとともに、世の中の不公平さが見え始めていた私は、世の中を恨むようにもなっていました。
だけども、自分の人生を受け入れて生きていけないということは、とても不幸なことだと私は思ったのです。世の中が不公平だと恨んでばかりでは、自分の人生が良くなるように、前向きな努力もできないということです。

 

「誰も頼らず、独りで生きよう」。二十歳の決心。

精神科からも何も理解も支援もされず、誰も助けてはくれないということ、他人の人生はどうやっても歩めないということを悟った私は、二十歳で自分の人生を受け入れて、ようやく前向きに努力して生きていこうと決心しました。しかし、この時、同時に、私は「あるもの」を捨ててしまいました。それは、子ども時代からずっと欲しいと望んでいたものでした。
捨てたものとは、友人や家族など、人との幸せな時間です。精神科でも向き合ってもらえなかった私は、このとき、人を信用することも頼ることもできないのだと思い、自分は、誰とも深く関わらず、独りで生きていこうと決心します。
それ以降、大学では好きな生き物の研究だけに没頭し、友人と遊ぶことなく、時には、自分の邪魔をする学生がいれば、「私の邪魔をするな!」と激しく罵ったこともあります。
貸与型奨学金を借り足して、大学院(修士課程)まで進学しました。学部と異なり、大学院では、業績が優秀であれば、貸与型奨学金が免除される制度があったため、それを目指して勉学に必死で励みました。そして、大学院を無事に卒業し、貸与型奨学金220万円を全額免除にしました。
しかし、精神の不安定さの酷さは、大学6年間もずっと続きました。酷いときは、何日も、うつ状態で起き上がれないこともありましたが、精神科へ行く気は、もう一切、失せていました。

 

第3話のポイント

虐待の後遺症は成人後も長く続くことが多いのですが、精神科医や精神科スタッフでさえ、「虐待の後遺症は子どもだけに起きるもの」というまちがった認識をしている人が多いように思います。
児童虐待が専門の精神科医や大学の研究者も、「虐待を受けた子ども」のケアをどうするか、という講演会や学会発表を行っている様子は見聞きしますが、虐待の後遺症に苦しむ大人のトラウマのケアに取り組む専門家が日本で非常に少なく、大人の虐待被害者が精神科へ通っても適切な治療を受けられることが少ないのが日本の精神科医療の実態ではないでしょうか。
児童虐待は大人になっても後遺症に苦しむ人が多く、精神科医療現場では、その人の生きてきた背景まで見ないと本当の原因にアプローチすることができないのです。

当事者のみなさんへ

「社会の不公平さを恨んだり、友人や同級生と比べてしまって、自分の状況が劣っていると感じたときは、いつも苦しいくらい嫉妬心がありました。だけど、社会の不公平さを恨んだりするのではなく、ありのままの自分を受け入れ、他人と比べることを止めてみるように自分の考え方を変えていきました。
すると、恨んだり、嫉妬して苦しんだりする自分が楽になっていったのです。他人や友人がどうであれ、自分の人生には直接的には関係ないことです。それならば、友人の幸せも嫉妬するのではなく、一緒になって喜んだ方が、自分の心も幸せな気持ちで満たされる。この考え方の方が、生きていく上で、得だな~と思うようになってから、「他人との比較」という苦しみから解放された自分がいました」

虐待サバイバーのたぬき先生が講演会でお話します

たぬき先生が、講演会でお話します!

『わたし、虐待サバイバーです!』を連載中のたぬき先生こと羽馬です。 連載、いつも読んで頂きたくさんの応援コメント、ありがとうございます!

さて、物語の最終話では、精神科で〈二次被害〉に遭ってきた体験を語ります。精神科での〈二次被害〉は実はかなり深刻なのですが、当事者が真実を訴えてこなかった歴史があります。 精神科での〈二次被害〉がなぜ起こるのか?どうしたらなくなるのか?を〈赤ずきんとオオカミ トラウマ・ケア〉の著書である白川精神科医と対談を交えながら講演会を実施することとなりました。

講演会、ぜひご参加ください。皆様にお会いできるのを楽しみにしてます

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ライター:
羽馬 千恵
北海道札幌市在住のフリーライター。虐待被害者の大人として「大人の未来(全国虐待被害当事者の会)」の代表を務める。興味分野は、「虐待サバイバー」「貧困」「奨学金自己破産」「生活保護」。専門は、野生動物や自然で、タヌキの研究が長く、自身もたぬき化していった通称「たぬき先生」。 http://haba-chie-564.com/index.html お仕事のご相談