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2018.06.29.Fri

わたし、虐待サバイバーです!第2話〜思春期編〜

「こんにちは!毎日を明るく楽しく!」をモットーに、忙しい日々の中でも小さな幸せや面白いことを発見し、他者と笑いを共有しながら、楽しく生きている“たぬき先生”こと羽馬千恵(はば ちえ)です! 野生動物が好きで、大学時代は、野生のタヌキの研究や、無人島で野生のアザラシの観察などを行ってきました。野鳥観察や植物の種類を覚えることも大好きです。
いまでこそ明るく元気が唯一の取り得であるわたし。でもじつは子どもの頃に虐待を受けていた「虐待サバイバー」なんです。
このコラムでは、そんな私の過去の虐待経験を振り返りつつ、虐待経験者がどんな人生を歩んでいるのかをお伝えするとともに、この社会から児童虐待をなくしていくためには、なにが必要なのかを一緒に考えたいと思います。

貧困生活にたえられなくなった母の再婚

義父と離婚した後、小学6年生の私と、まだ4歳の幼児である妹を抱えた母は、仕事がなく、明日の米もない状態にまで貧困に陥り、実家から米をもらったり、パン屋で無料のパンの耳を大量にもらってきて、何とか私たち子どものお腹を満たしました。しかし、中学に上がる私は、制服や鞄など、進学にお金がかかります。そんな貧困生活に困り果てた母は、離婚後すぐに、新たな男性を家に連れてきました。子どもの私には、何ひとつ、了解を得ることもなく、ある日全く知らない男性が家に入り込んできて寝泊りするようになったのです。

母とその男性は、すぐに入籍。そのため、私は小学6年のときと、中学1年のときに、短期間で2回も名字が変わりました。そのため、学校で私の家庭の離婚、再婚は有名な噂話となり、中学でも虐めのターゲットとなってしまったのです。

二人目の義父は、パチンコ店の釘師をしており、腕も良かったようで経済力はありお金はありましたが、背中に刺青のある人で、人間的に誠実さのある人ではありませんでした。私や妹といった子どもに配慮したり、優しさを向ける男性ではなかったのです。そのため、思春期の私は義父に心を許すことはできませんでした。母は、経済面をその男性に完全に依存していたため、私がなつかないことで、その男性を失うことが怖かったのか、私を毎日、毎日、狂ったように、罵るようになりました。

「気に入らないなら施設へ行け!! お前なんか産むんじゃなかった!!」と、12歳の私は、母から毎晩のように、言葉の虐待を受けることになります。施設へ保護されたくても、その手段が分かりません。

 

12歳で、自殺を考えていた

中学1年の頃は、学校でも虐められ、家も地獄で、ノイローゼのようになっていました。12歳で自殺も考えました。ここまで酷い家庭であっても、私は、子ども心に祖父母や学校の先生には、家庭や親の悪口を言ってはならない、と思っていたため、誰にも相談できなかったのです。

家で一人になった日は、ストレスから酷く癇癪を起し、部屋中の物を部屋がぐちゃぐちゃになるまで投げ散らかす事もありました。

学校へ行けば虐めに遭う。当時、保健室登校やスクールカウンセラーなどもない時代だったので、とにかく虐めっ子からの逃げ場がないのです。そして、学校から家に下校する通学路を歩きながら、これから帰る家には、どうしてもなつけない義父がおり、なつけないことで、狂ったように私を罵る母がいるのかと思うと、足取りが鉛のように重たく感じました。一度は、大型トラックの前に飛び出して自殺すれば楽になれるのではないかと考え、道路に立ちすくんで自殺しようとしたこともあります。中学の頃の義父は、私に性的な発言で嫌がらせをしました。思春期で、そういう話題を嫌がる私に、母との性交渉の話をしたり、見せたり、自分の裸を見せて楽しむといった性的虐待もしました。

これによって、思春期の私は、家中のあちこちが、生理的に気持ちが悪く、触れることも非常に苦痛で耐えられない思いをしたことをよく覚えています。特に、風呂場が最も気持ちが悪く、義父が入った後の湯船には、絶対に入れず、短時間でシャワーで身体を洗い、風呂場から飛んで出るような日々が続きました。

なつかない思春期の反抗的な私に対し、義父はよくこう言いました。
「金を出してお前を食わしてやっているのに、反抗するなんて、お前をボコボコに殴ってやろうかとずっと考えている」と脅す言葉もかけてきました。いつか、本当にやられたらと思うと、嘘でも義父に愛想をし、その態度を母に見せることで母も満足させるしか、やり過ごす方法がありませんでした。

 

夜は妹と二人、置き去りにされコンビニ弁当で食事

義父は、パチンコ店の釘師だったため、勤務時間が不規則な仕事をしていたので、夜遅くまで働く日も多く、母も私が中1の頃から水商売を始めたため、12歳の私と、8歳年下の4歳の妹は、夜間子どもだけで置き去りにされていました。

母は子どもの食事を全く作らなくなり、毎日、テーブルの上に千円のみ置いて、私にコンビニで弁当を買わせ、私は妹にその食事を投げ与えたあと、自室で一人引きこもって、コンビニ弁当を食べる生活が始まりました。

当時12歳の中学生の私には、地獄の日々に混乱状態で、親から放置されている幼い妹の面倒を見る余裕は、全くありませんでした。私の脳裏には、今でも、この頃の妹の姿がはっきりと脳裏に焼きついています。

わずか4歳の妹が、夜間に独りぼっちで、ぬいぐるみとだけ寂しそうに会話している姿です。そんな妹を見ても、私は姉として面倒を見ることもできなくなってしまいました。

時には、自分のイライラする癇癪を酷く妹にぶつけることもありました。中学時代、まだ幼稚園児の妹から、包丁を向けられたこともあります。

学校にも家庭にも居場所がなかった

12歳の中学生の私には、「学校」と「家庭」という二つの世界しかありませんでした。田舎でしたし、当時はフリースクールなどもありませんから、学校でも虐められて地獄、家庭環境も地獄となると、もうどこにも安心して過ごせる「居場所」がないのです。

学校か家庭か、どちらがマシな世界か選択を迫られた私は、家庭の方がまだ自室があったため、家がマシであるという選択をしました。当時、不登校がそれほど一般的でなかったため、母は、学校へ行かない私を罵り、無理矢理にでも学校へ行かせようとしましたが、私は、何とか理由をつけては登校拒否をし、不定期ではありましたが、学校を休むことで、何とか逃げ場を見つけようとする日々を送りました。

学校へ行った日も、学校での虐めや家庭内の地獄の悩みで頭が混乱状態で、授業中も、勉強になど全く集中できず、イライラも止まらず、それを誰かに相談するという選択肢も思いつかない状態でした。

この義父と母は、よく夜中に激しい大喧嘩をしていました。時には、義父が母の顔を殴り、「母が殺される」と思った私と妹は、窓から裸足で外へ飛び出し、真っ暗な夜道を泣きながら、助けを求めに走ったものです。

喧嘩の翌朝は、母の顔がアザだらけで、腫れ上がっていました。

学校から家に帰ると、家中の物が散乱し、ビール瓶やガラスが割れて、足の踏み場のないこともありました。

学校から家へ帰る途中、私がいつも考えていたことは、「家に帰って母か義父のどちらかが死んでいたら・・・。まず、誰に言おうか・・」
家に帰って、誰も死んでいなかったときは、ホッと心をなで下ろすという日々でした。

中学に入り、勉強どころでない日々に、登校拒否を続けた私は、総日数の半分近く欠席していました。中学1年の私は、学校の成績は、学年で下から数えて10番目くらいの劣等生でした。

 

勉強の楽しさを教えてくれた、はじめての友達

中学2年に入り、学校での虐めも何とか収まり、家に入り込んできた義父にも、慣れてきた私は、たまたま勉強のできる性格も優しい友達ができました。

その友達と放課後、遊ぶようになり、その子に「一緒に試験勉強しよう」と誘われたことをきっかけに、勉強に興味がわくようになりました。中学に入り、全く勉強をしてこなかった私は、少し勉強しただけで成績が上がり、それがとても嬉しくて、自主的に勉強するようになりました。その後は、勉強するために学校にきちんと通うようになりました。しかし、学校生活が改善しても、家庭環境の酷さは変わりませんでした。母は義父の経済力を自分のために使うようになり、母の趣味で買った高価な置物などが玄関に増えていきました。

ある日、子どもの私や妹に、一言の相談もなく、両目を二重に整形して帰ってきたことがありました。それを見た中学生の私は、ショックで大泣きしました。もう、以前の優しかった頃の母は、二度と戻ってこない気がしたのです。

私が5歳まで、祖父母の家の近くで、祖父母に子育てを手伝ってもらいながら暮らしていた頃の母は、子どもの私に優しく、母としてちゃんと子どもに興味を持っていたのです。私の将来の教育費のために貯金もしていたと聞いています。

しかし、私が5歳で母が再婚し、核家族となり、生活が貧困となってから、母は次第に育児放棄(ネグレクト)をしたり、子どもより自分の男性依存を最優先してしまったり、子どもに暴言を吐くように変わっていったのです。

母は、子どもである私に興味がないように思えました。たとえば、一緒の部屋で過ごしていても、いつも私と全く会話しようとしないのです。私に「学校は楽しい?お友達はできた?」など、通常、母親が子どもに訊きそうな会話は一切ありませんでした。私など、いないかのように振る舞い、一緒の部屋にいても、母は、いつも自分の友人と長電話ばかりしていました。そんな母に、こう尋ねたことがあります。

「お母さんは、どうして、自分のお友達とは楽しく話をするのに、私とはしゃべってくれないの?」と。

母は、こう私に怒鳴り返しました。
「お前のために(自分の友人と)電話しているんだ!!」と。

まったくの理不尽な母の返答に、言い返すこともできず、ガッカリした覚えがあります。

母は、自分の友人との長電話で楽しそうにこうも言っていました。「子どもなんて、放っておく勇気だよ」と。それを聞いた私は、自分の母親が、ネグレクト(当時はこの言葉は知りませんしたが)していることを、自分の中で完全に正当化していることに愕然としたものです。
私が高校受験の前日も、義父と凄まじい大喧嘩でした。このため高校受験の当日は、私は寝不足で受験したことを覚えています。このときの喧嘩は、母から義父へ不満を伝えたために勃発したものでしたが、私が高校受験を終えるたった1日、自分の不満を吐き出すことを待てばいいのに、母は自分の欲求を待たなかったのです。自分が子どものために我慢をするということをしない身勝手な母の人格が、年齢が上がるとともに子どもの私にも「間違っている」と思い始めていました。もう、子どものことなど、どうでもよくなっている母は、私が高校に進学した途端、私が中学時代に再婚した義父とまた離婚し、そして、またすぐに新しい男性を家に連れてきました。

中学時代、ある日、突然、見知らずの男性が家に入り込んで寝泊りするようになり、その後、地獄の中学生活だった私は、高校進学の頃は、15歳にもなっていましたから、新しい男性の家への侵入を一切、拒みました。結果、母は、新しい男性の下で暮らすようになり、家には食費だけ入れて、ほとんど帰ってこなくなりました。もう長い間、会話のない母と私の親子関係になっていましたが、もう家で顔を合わす時間もほとんどなくなる生活となりました。
母が家に帰ってきても、「ただいま」という挨拶すらなく、母から声をかけられることはほとんどありませんでした。家族団らんどころか、ひとつも家族で会話のない状態となっていきました。

それでも、男性がいない家庭というのは、私にとっては安住でした。母と男性との間に喧嘩も起きなければ、男性が私に危害も加えないため、母が新しい男性の家で過ごすことが多くても、男性は家にいない方が「安全」という考えとなっていました。
学校で、保健の先生に「お父さんいなくて、寂しい?」と一度だけ訊かれたことがありますが、「全然!寂しくない」と、はっきり本音で答えたことをよく覚えています。

小学生の頃は、親の暴力が怖くて反抗できなかった私ですが、高校生になった頃には、母親に反抗するようになっていました。家庭や子どもに愛情がない母に、不満をぶつけて喧嘩となったときは、顔面を硬い貯金箱で殴打され、「なめるなよ!」と怒鳴られ、鼻血が大量に出て、服の前面や血をぬぐったタオルも、全て真っ赤に染まることもありました。15歳のときのことです。

喧嘩して腹が立ったとはいえ、人の顔面を怪我をするくらいの力で、物で殴打できるということが、母親の人としてのレベルの低さに、失望しました。そして、母親として、大人としてではなく、子どもと全く同じ目線で喧嘩する母にも、失望していました。

母は、顔が腫れた私に、「治るまで学校へ行くな」といい、私は誰にも母からの暴力を相談することも、発見してもらうこともできませんでした。

 

再び不登校になり、高校は中退

小学生から続く過酷な家庭環境、学校での虐めなどが日常だったため、私は、だんだんと精神を病んでいき、高校でも勉強だけは頑張っていましたが、途中で不登校となり、出席日数が足りなくなって、中途退学となりました。中退となり高校へ行かなくなった私に、母は、「金食い虫!!」と罵るため、家に居場所がありませんでした。なので、高校に通っている降りをして、17歳の頃は、スーパーでアルバイトをしてやり過ごしたこともありました。

幼少期から生き物が好きで、北海道の自然や野生動物に憧れ、大学進学をしたかった私は、高校は中退しましたが、大学入学資格検定(現在の高卒認定)を受験し、大学受験できる資格を取って、貸与型奨学金を借りて、地元の兵庫県から北海道の帯広の国立大学へ進学し、家から逃げることができました。今から思えば、就職するという道もあったと思いますが、この時は、進学して遠く憧れの北海道の地へ行くことで、家から逃れ、自分の未来にも希望を持っていた十代後半でした。
ここからが、新たな壮絶な人生の幕開けとなるとも知らずに・・・。

第2話のポイント

この章では、生活が貧困となっていってからの母の子どもへの気持ちの余裕のなさから、母までも虐待をしてしまうという、虐待が起きる原因のひとつに貧困という問題が浮き彫りになっています。
また、核家族化や地域社会から孤立してしまったために、周囲の大人からの支えが母親になかったり、児童虐待が起きていても周りの大人たちが虐待に気がつかないという社会構造の問題点も見えてきます。
子どもは、家庭と学校という2つの世界しか持てない場合が多く、その2つとも居場所がなければ、どこにも安心できる居場所がなく追い詰められていくことも見えてきます。核家族化したり、地域社会が崩壊している現代において、社会の中で大人が貧困でひとりで追い詰められないような仕組みや、子どもが学校や家庭以外の場所で大人たちに安心して何でも相談できる第3の居場所が必要だと思われます。

ライター: