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2018.06.15.Fri

わたし、虐待サバイバーです!第1話〜幼少期編〜

たぬき先生こと、羽馬です。

 

「こんにちは!毎日を明るく楽しく!をモットーに、忙しい日々の中でも小さな幸せや面白いことを発見し、他者と笑いを共有しながら、楽しく生きている“たぬき先生”こと羽馬千恵(はば ちえ)です! 野生動物が好きで、大学時代は、野生のタヌキの研究や、無人島で野生のアザラシの観察などを行ってきました。野鳥観察や植物の種類を覚えることも大好きです。

明るく元気が唯一の取り得であるわたしは、社会問題にも取り組んでいきたいと考えています。なぜなら、わたしは、子どもの頃に虐待を受けていた「虐待サバイバー」だからです。

この度、虐待当事者として、自身の子ども時代の虐待体験から、成人後にどんなことに困ってしまったか、そして、これからどんな活動をしていきたいかを連載させてもらいます。

この連載で書かせてもらう物語は、「わたし」という、たったひとりの当事者から見える虐待問題の姿です。わたしのように当事者である方、虐待問題に関心のある方やこれまであまり関心のなかった方も、この問題について、わたしとともに、社会に欠けている虐待問題の解決方法について、考えていただけるきっかけになってもらえればと思っております。

連載コラムは、数回にわたります。「わたし」がタイムマシーンに乗って、過去のわたしに会いに行って皆さんにご説明したいと思っています。それでは、長い物語への旅に、どうか最後までお付き合いくだされば幸いです。

幼少期のころ

私は1983年(昭和58年)に兵庫県赤穂市で生まれました。当時児童虐待防止法もなく、今の時代と同じように児童虐待や子どもの貧困はあり、機能不全家庭の子どもたちもたくさんいましたが、社会から子どもの支援にあまり光の当たっていない時代でした。今でこそ、教育格差や貧困、虐待など子どもたちの問題が日々ニュースで取り上げられ、支援体制も整ってきましたが、私のうまれた頃は、児童相談所も学校も医療も福祉も行政も、子どもたちの様々な問題にほとんど関与していない時代だったのです。

私の実の父親は、私が母親のお腹にいる間も全く働かず、ばくちばかりして遊びまわるような人でした。そのため、生活費に困窮した母親は、私をお腹に身ごもりながら、真冬にもかかわらず、公共料金の支払いすらできず、家の電気が消えたり、食事も食べられない状態が続いたのでした。出産間近で働けなくなった母は、布団に包まり寒さと飢えをしのいだのだそうです。そんな母の状態を知った両親は、「子を中絶しろ!」と何度も忠告にやってきました。

母は一度は中絶を決意しますが、妊娠3ヶ月をとうに過ぎており、医者から「もう中絶できない」と言われたと聞いています。そして、「自分の子である私(たぬき先生)が生まれれば、父の態度はきっと変わってくれる」。母はそう信じて、私を産むことを決意したそうです。

母は何とか私を出産したものの、出産後も父親の態度は一向に変わることはなく、母親を蹴飛ばし赤子のミルク代を奪い取り、ばくちに使ってしまうといった状態が続きました。
父になっても態度が変わらない夫に、諦めるしかないと悟った母親は、私が1歳にならないうちに離婚しました。そのため、私は、現在の年齢まで、実の父とは一度も会ったことがなく、顔も知りません。大人になり、戸籍謄本で、実の父親の名前を知りましたが、養育費を支払うような父でもなかったため、私にとって実の父は、赤の他人と変わらないような存在です。

母親は、離婚後、祖父母のいる実家近くで私と二人暮らしを始めました。祖父母もまだ若く元気であったため、私は祖父母や親戚、近所の大人たちから、大変可愛がられて育った記憶があります。
私は昭和58年生まれですから、当時は、今と違って近所付き合いもあり、祖父の自宅には、毎日のように親戚や祖父の友人など大人たちが出入りし、日々、笑い声の耐えない明るくのんびりとした時代でした。幼いながらも、私には、祖父母も、親戚や近所の大人たちも、みんなで助け合って生きているように見えました。そんな昭和の良き時代を私は5年間、本当に幸せに育ててもらったのです。

今、思い出しても、自分の人生の中で、一番、平和で幸せいっぱいだった時代のように思えます。

しかし、そんな幸せだった時代は、長くは続きませんでした。私が5歳になる頃、母は再婚し、実家から離れ、再婚相手の男性と母、私の三人暮らしが始まりました。幼かった私は、新しくできた義父について、実の父親であると言われて育ちました。そして私が小学2年生の頃、母と義父との間に妹が生まれ、四人暮らしの生活が始まったのです。これが悲劇の幕開けになるとは知らずに・・・。

幸せな時期から一転…地獄の日々に。

異父姉妹である妹が生まれてから、義父の私への態度が少しずつ変化していきました。義父から様々な虐待を受ける生活が始まったのです。当時は「虐待」という言葉が一般的ではなく、義父から虐待を受けているという自覚もなく、しつけの一環のような感覚で苦しみを耐える日々。幼い私には、他人の家庭がどんなものか知るよしもなく、自分の置かれている環境が異常であると、認識するすべもなかったのです。

たとえば、見たいテレビもわざと見させないという意地悪や、お菓子を目の前で食べている義父に「私も食べたい」と言ってお菓子に手を出すと叩かれました。

遊びたい盛りの私に、家事、特に料理を毎日のように強制し、食事中はしつけだとして、マナーが少しでも悪ければ暴力をふるう。その為、泣きながら食事をすることも日常茶飯事でした。風呂は異常に熱い湯船に長時間入れられ、限界だと言って湯船から出ようとすれば殴られるため、のぼせて吐くまで出られない地獄のような日々が続いきました。

その頃は、うちでは犬を二頭飼っていました。毎日の犬の散歩は、私の義務とされていました。一頭は大型犬だったため、小学生の私は、引きずられよく転んでいたので、足には擦り傷が絶えませんでした。その様子を見かねた近所の人が、義父に注意をすると、「お前のせいで怒られただろ!」と怒鳴られることもありました。

義父と二人で夜間に犬の散歩に行ったときのことです。私は中型犬のリードを持ち、義父は大型犬のリードを持って散歩していたのですが、お酒を飲んで酔っ払った義父は何も悪さをしていない犬を蹴飛ばして、弱い者虐めをして楽しみ出したのです。犬は何度も蹴飛ばされ、脅えて震えていました。犬が可哀想で見てられなかった私は、中型犬と一緒に、蹴飛ばされている大型犬のリードも私が持つと言って、義父が犬を蹴飛ばす行為を止めさせたのです。義父は私にこう言いました。

「犬を逃がしたら、殴るからな」と。

それでも、大型犬のリードを持つと言い、私は二頭の犬に引きずられながら、必死で犬を逃がさないようにしたのです。しかし、予想通り、引きずられ転んで犬を逃がしてしまったのです。

義父に殴られると思った私は、真っ暗な夜道を「殺される」と感じて、全力で走って逃げました。義父は、全力で私を追いかけてきたのです。そして、私はとうとう転んでしまいました。その光景を見て義父は、なんと笑い飛ばしたのです。転んだ状態で、私は辛さと悲しさでむせび泣きました。

このとき一番悲しかったこと、それは「義父の心」です。
小学生の私でも、蹴飛ばされている犬が可哀想だと思う心があるのに、大人の義父にはその心がない。そして、なぜ、できないとわかっている大型犬のリード持ちを私が買って出たのか。その心も見えていない義父の人間性があまりに哀れだったのです。
人間は、年齢ではない。と、このときに学びました。

優しかった母も…

就寝時間は夜9時という絶対的なルールがありました。1分でも9時を過ぎて布団に入っていなければ、殴られるという不条理すぎるルールがあり、トイレ以外は9時を過ぎて布団から出ることが一切許されませんでした。
しかし隣の部屋では、夜9時を過ぎても義父は実の娘である妹と遊び、楽しそうに笑う声が毎晩聞こえてきたのです。私は、眠りに落ちるまで寂しさで涙が止まりませんでした。

義父は土木現場で働いていましたが、私の実の父親のようにあまり働かない人でした。そのため、母親は常に経済的に苦しく、家事と育児に加え、パートで働く毎日。義父の私への虐待は認識していたにもかかわらず、私を庇う精神的な余裕は全くなかったのでした。

祖父母の近所で暮らし、子育てを手伝ってもらいながら育児をしていた頃の優しい母親の姿は、私が成長するにつれ、鬼のような存在になっていきいました。毎日イライラしては、子どもに当たり散らす怖い母親。小学生わたしは、家の中でも四六時中、母親の顔色を伺って過ごしていました。母は、義父の虐待から私を庇うどころか、次第に母自身も、経済的、精神的ストレスから、私に暴言で当たり散らすようになっていったのです。

小学5年生になった私は、ある日、義父のいつもの理不尽な命令を無視しました。それまで、義父を恐れて反抗など一切せず、義父が帰宅したときの車の音を聞くだけでも怯えていた私が、思春期に差し掛かった頃、初めて無視という反抗をしたのです。義父は逆上し、私の首を締めました。さすがに、母親が止めに入りましたが、呼吸が一時的に止まるという恐ろしい経験をしました。

洋服は汚れていなければ、3日は連続で着ろ。朝、髪をくしでとかすな。などの義父の理不尽な命令に従い続けた私は、小学校高学年に上がるにつれて、学校でも同級生からの酷い虐めを受けることになります。

「触ったら腐る!」とクラスの同級生から罵られ、友達もいませんでした。そんな孤独で苦しい日々が続き、気がつくと私は就寝時、大声で発狂していたのです。今思えば、この頃すでに、情緒障害になっていたのでしょう。
そんな日々の生活が続く中、義父は貧困が理由で母親とよく喧嘩をして、茶わんを壁に投げつけて割ったり、酷いときは母親に物をぶつけたり、蹴飛ばすこともありました。そんな親の暴力(今ではDVと言うのでしょう)を見た私はショックで大泣きすることもありました。

貧困家庭で喧嘩が絶えなかった母と義父は、離婚。母と妹、私の三人暮らしが始まったのです。私が小学6年生になったときのことでした。

これで落ち着いた家庭になるかと思いました。壮絶な思春期が始まるとは思いもせずに・・

第1話のポイント

児童虐待をする親というのは、必ずしも「この親」と特定できるものではなく、親も生活状況の変化で優しい親になったり、虐待する親になったり、「変化」するものであることが見えてきます。
親も一人の人間として、大人になるまで生きてきた背景があります。第1話で私に虐待を加えた義父が抱えていた真実は私が成人後に発覚します。義父の真実と母の子ども時代の物語は、後半にて紹介させてもらい、虐待というものが連綿と続く虐待の連鎖であったり、貧困やアルコール依存症などの社会問題との重なり合いがあることなどを知ってもらえたらと思います。
また、児童虐待が学校現場でのいじめ問題にも派生してしまっていることなど、社会問題は個別の問題だけで独立しておらず、重なり合いや一つの問題から新たな問題へと派生するということを指摘したいと思います。 

ライター: